36. もう一人の自分
視線の先のスクリーンが暗転と共に消失し、世界は再び死のような闇に包まれた。
幻影の兄たちは既にそこにはおらなんだが、弟を糾弾する否定の声だけがいくつも折り重なって響いている。
お前には無理だ。
おちこぼれだもんね。
恥かきたいの?
無理だよ。できっこないよ。
余計なことしない方がいいよ。
幾度も耳にした。幾度も言われてきた。その度に腹は立つけれど、いつしかこのオブラート包みの暴言にも慣れた。
言葉の一つひとつに傷つかないように「確かにそうだ」、「兄さんたちの言う通りだ」と密かに隠し込まれた悪意の針をいなす術だけが身についていた。
だが輪の調和を保ち、己だけが傷つく理不尽な仕分け作業もほんの一刻ではあれど忘れることが出来た。美童との旅は、日頃のストレスや降り積もった鬱憤を忘れることができるくらい楽しかった。
美童はテオに対して悪意ある言葉を向けることは一切なかった。無闇に他人を落とす発言をしないのは当たり前のことであるにもかかわらず、常に兄たちの刺々しい罵倒の下に育ったテオからすれば、美童に与えられた肯定の言葉たちにこそばゆいような違和感と、言い知れぬ幸福感を感じないではいられなかった。
故に安心し、甘えていた。自分に自信を持てたつもりでいたのだ。
ちがう。またしても浮かれていた。
美童のやさしい人柄に甘えていた。
「やっぱり……ぼくはだめ……」
涙に濡れた声が懇願する。
「やめるよ、やめるから……! ぼくが本を継承するなんて大それたこと、もう二度と言わないから……ここから出して」
頭の中を支配する貶めの言葉に縋りつくように膝を折る。泣き崩れ、震える喉から絞り出すように弱々しい声が、限りなき闇に響き渡る。
幾重にも反響した高笑いがテオの胸をズタズタに切り裂いて、物理的な痛みを凌駕するほどの残酷な苦しみが、まだ幼い少年のすべてを絶望へと塗り替えていった。
不特定多数の罵声の中から、新たな一声が投じられたのはその時だった。
――『本当にそれでいいの?』
雀の千声を押し黙らせた一声が、一瞬にして周囲に静寂を満たす。
テオは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、そっと上げた。
蹲った彼の眼前には白い素足があり、それを上へ辿って行くと、驚きの人物と目が合った。
「ぼ……く……?」
いつも鏡で見る顔とほんの少し印象が違う。でも間違いなく、そこにいるのは自分自身だった。
自分の顔を客観的に見るのは俄かに気持ち悪く、目を逸らしたくなったが、なぜかそうできなかった。
『僕は君だ』
と、目の前のテオが
彼はそっとしゃがみ込むと、泣き崩れるテオの肩にふわりと手を置いて問うた。
『テオ。君は本当に、自分が駄目な人間だと思っているの?』
問われ、テオは深く顔を落とし、「ああ、そうさ。ぼくはダメ人間さ。ぼくを生まれた時から見てきた兄さんたちが言うんだ。……ぼくは、駄目だ……」
『僕はそうは思わない』
揺らぎのない断言の声に、テオは濡れた顔を上げる。気さくな双眸と視線が交わり、奇妙な心地になる。
『君がそう思っているだけじゃないの?』
彼は諭すように言うと、肉付きの薄い掌で、少年の両目をそっと覆う。雪のように冷たい指先が、瞼をやさしく包み込んだ。
『見ててごらん』
彼の囁きに続いて、頭の中に青い光が溢れた。はじめは
「あれは……」
見覚えがある。あれは祭りの――舞いの舞台の衣装だ。
苦い記憶が再び彼の胸をきつく締め上げるが、その時、テオの目に映ったのは、翻る白のさざ波の中にいる自分自身だった。
「どうして、ぼくがいる……?」
かつて少年が悔し涙を流しながら遠くから見つめていた景色と唯一違うのは、ステージの左端に、控えめに踊る自分の姿がある点だった。
照れくさそうに頬を朱に染めて、けれど指の先まで優雅に舞う姿は周囲の子らと比べても見劣りしない。
ああ、何と楽しそうな笑顔だろう。あれは本当に自分なのか。緊張のせいか、僅かに表情に硬さが見えるが、彼がかねてより恐れていた「不安」や「後悔」といった感情は一切感じられない。
「これは……」
『君がお祭りでみんなと舞の余興に参加していたら――』
彼はそっと手を離す。すると頭の中に流れていた幻もすうっと像を解いた。
『今の光景は、もしもの景色だよ』
「もしも?」テオは洟をすすり、「もしもぼくが、祭りの舞台に立っていたら……」
彼は肯定するようにうっそりと微笑み、『ステージは大成功。このイベントを通して多くの友人にも恵まれ、学校でも積極的に行動することを覚え、少しずつだけど自分に自信が付く』
テオは「そんなわけない」と首を横に振る。
『君には理想を実現させるだけのポテンシャルがある。けど、それを引き出すタイミングと術に自信がないんだよね』
彼は、言葉もないテオに向かって
彼はテオの手を取って、ゆっくり引き立たせる。
『キティさんの言葉を覚えてる? 初めて会った時、君はクラレンス兄さんとは違うと言われた。あの時の君は、コンプレックスを突かれたと思って目くじらをたてていたけれど、あの人は
「本心って――」
『うん。あの人はクラレンスと君を比べたりなんかしなかった。君にはプライドだってある。夢だってある。君自身が気付いていない才能だってある。もちろん控えめだけど意志だってある。それをあの人は見抜いていたよ』
「本当に……?」
テオは目を瞬かせた。
『ああ、本当だとも。――これはね、チャンスだよ』
テオが小さく首を傾げると、
『君がさっき手に取った本は偽物だけど、あの時君は
テオは言われて思い出した。たしかに、あの本を見つけた瞬間、自分の胸の内に生じた熱量を今でも覚えている。
『憧れは、最も身近なエナジィだよ』
彼は後ろを振り返って、果てのない闇の先を指さした。墨を流したように真っ暗だった世界が、不意に薄明に包まれる。
『ホラ、道が見えてきた』
白い道が正面に向かって続いている。
『さ、立ち上がることが出来たテオ・ファンフリート。掴みかけたチャンスをもう一度手にするために勇気を振り絞るんだ。ここで立ち上がらなければ、このチャンスは二度と訪れることはない』
「……ぼくにできるかな」
テオはもう一人の自分の顔を見つめた。自分と同じ顔。目の色も、肉付きの悪い頬も、自分と全く同じ。それなのに、どうして彼の顔はこんなにも生き生きしていて頼もしいのだろう。
『不安かい?』と、彼が問う。テオは眉尻を下げて小さく頷く。
『大丈夫だよ。テオ・ファンフリート』彼はテオの手を一層強く握った。『君が僕という存在を認めてくれるなら、僕はいつだって君のちからになれる。僕は君。君が心の奥底へ押し込めていた、君のもう一つの姿だ』
――ぼくのもう一つの姿……。
その言葉に、ストンと落ちる音がした。納得した。確かに、彼は自分だ、と。
思い返してみる。いつも明るいところにいる自分を想像するとき、脳内に思い描くテオ・ファンフリートという少年は間違いなく眼前にいる彼そのものなのだ。
光の中に居る僕。
ぼくが思い描く僕。
それが、ぼくを導こうとしている彼、テオ・ファンフリートなのか。
肩が軽くなると、自然と背筋が伸びた。
彼は、顔つきの変ったテオを見て、くすっと笑った。
『ほら、今の君は、もう僕を認めてくれている』
彼は言っていた。このチャンスはもう二度と訪れることはない、と。
もしここでチャンスをふいにするような選択をすれば、今までと同じように何も変わらず、ただただ後悔の念だけが重く積み重なってゆく人生なのだろう。そんなのはごめんだ。何より、ここで彼を認めることが出来なければ、きっと彼はテオの中から消えてしまう。そんな気がした。
彼は、テオの胸の内で一つの決意に明るい炎が灯るのを感じ、『さあ』と促す。
『走ろう。このまま真っ直ぐに。この暗闇に後悔や劣等感は置き去りにしよう』
彼はテオの手を引いて駆けだした。
バタバタと激しい足音が果てしない天に高く響き渡る。
恐怖なんてものは、その存在自体を忘れていた。ただ、己の手を引いて前を走る背中を信じたくて、テオは息を弾ませながら言う。
「ね、ねえ。今まで君を蔑ろにしていてごめん。もうこんな所へ閉じ込めたりなんかしないから……!」
彼は振り返ることはなかったが、どんな表情をしているのかなんとなくわかる気がした。きっと笑ってる。わかるさ、だってぼくだったら間違いなく嬉しい。
どれくらい走ったのだろう。急に、前を走っていた彼の背中が青い光に染まった。人の形を失い、引かれていた手に伝わっていた温もりが消え、直径十五センチほどの球体へと姿を変えた。
びっくりして束の間足が止まりかける。
『大丈夫だよ。そのまま走って』
彼の声だけがすぐ傍で聞こえた。テオは歩幅を広く保ったまま走り続けた。
その球体はテオの胸の中へと吸い込まれて消えた。ようやく自分という人間が出来上がったような気がして、味わったことのない不思議な感覚に胸が躍る。
――これがぼく。本来のぼくの心。
なんて心強いのだろう。彼が吸い込まれていった胸から思いが伝わってくる。
『もうすぐだ。もうすぐ、現実の世界へ戻れるよ!』
彼の声がする。
テオは更に速度を上げて、自分の生きるべき世界へと急ぐ。
ああ、なんと心が安らぐのだろう。いくら走っても疲労に足が止まることはないとすら思えた。
その瞬間、目の前で道が途絶えた。
『今だ、飛び込め!』
テオは受け身を取りながら、跳んだ。
がしゃああん、とガラス張りの窓を破るような激しい破砕音が少年を抱く。
「ぼくだって……ぼくだって、ファンフリートの血を引いた男児なんだ!」
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