37. 魔法使いの闇

 しゃがみこんで息を整えていたテオの耳に、不意に聞こえてきた乾いた拍手の音。

 顔を上げるとそこには、ニコニコと満面の笑みを湛えたイーヴィルがほっこりと頬を上気させ、無事に現実の世界へ帰還を果たしたテオにぱちぱちと喝采を贈っていた。

 テオは、深い息を繰り返しながら笑顔の男を無言で見つめる。


「思ったより早かったな、テオくん。さすがだ。やはり君の中にはファンフリートの受け継がれし血脈が紡がれている」


 一応は褒められているのか? と混乱した頭で考えながら、「ありがとうございます……」と頷いて見せる。


「大丈夫か? だいぶ辛かったよな。悪かったよ。ゆっくり休んでくれ。君の連れももう少ししたら戻ってくると思うからさ。俺も久しぶりにお客さんにテンション上がっちゃってね。どうしてもんだよな」


「はあ……」


 わけのわからないことを上機嫌にしゃべるイーヴィルの手の中に、透明な石のようなものが鈍く光っているのが見えた。

 河原に転がっているような歪な形をした掌大の石だ。天然水を固形にしたような透明度は、薄闇の中でイーヴィルの白い掌を透かして仄白く発光している。綺麗だな、なんて思いながら見ていると、テオの視線に気が付いたのか、イーヴィルは閉じたばかりの口を再び開く。


「ああ、これかい。これは君の記憶だよ」


「ぼくの記憶……」


 掠れた問いかけに、イーヴィルは甘く笑み、手の中のものを開いて見せた。


「人間の記憶を集めるのが趣味なんだ。見ろよ、これが君の記憶から生み出された世界にたった一つの結晶だ。宝石みたいだぜ。人間の記憶というのはもちろん個人で違うだろ? こうして形にすれば十人十色の形になるんだ。灰色のただの石ころの人間もいたし、暴力的なまでに美しいダイヤモンドを生み出した人間もいた。君のは……水晶だ。初々しさが見て取れるだろう? こういうのは最高にうれしい。ありがとう、テオ。こんな素敵な作品を生み出してくれて」


「ええ、ああ、はい……」


 様々なことが一気に起こりすぎてピンと来ていない様子で曖昧に返事をするのを、イーヴィルは警戒と受け取ったのか、安心させるように付け足す。


「安心しなよ。これはただのコピー。君の記憶をコピーして、水晶という形に抽出しただけだから。君の身体には何一つ異常はない」


「はあ……」


 テオはドッと疲れを感じて、力の無い返事をするので精いっぱいだった。


「美童さんは?」


「心配せんでもすぐに戻ってくるよ。あいつ、すごい魔法使いなんだろ?」


 気楽に肩を竦めたイーヴィルが言った直後、ガラスの弾ける激しい音が空気をびりびりと震わせた。テオは驚いて跳び上がると、イーヴィルは腕を組んで満足そうに微笑む。


 透明の細かな破片が舞う中に、長い髪を乱した魔法使いが深く俯いて立っていた。成人男性にしてはやや華奢な肩が激しく上下するのを見て、テオは不安に胸がざわめくのを覚えた。


「美童さん」


 突き動かされるように駆け寄ろうとしたテオだったが、その勢いはすぐに失速する。ただならぬ様子に、思わずそうせずにはいられなかったのだ。


 額からはぱたぱたと汗が滴り、僅かに見えた頬は血の気が失せて真っ白だった。目の周りだけが鮮やかに赤く色がついていて、さながら火を噴くような瞳。瞳孔が開き、眼球が忙しなく揺れ、感情的な怒りを必死にコントロールしているような、まるで別人の相好にテオは言葉も出ず、あまつさえ後退りまでしてしまう始末。


 どうしたというのだ。美童はあの下級悪魔に何を見せられたのだろう。ただごとではない気がして、テオは俄かに恐怖を覚える。


 美童は乱暴な手つきで額の汗を拭うと、身体を引き摺るようにしてイーヴィルに詰め寄った。

 舌打ちと共に逆立つ柳眉の下にある双眸は、さっきとはうって変わった霜の降りた気配を孕んでいる。

 その手が荒々しく悪魔の胸ぐらに掴みかかり、冷静さを欠いた行動を目の当たりにしたテオは、その場から動くことが出来なかった。


 イーヴィルは顔色一つ変えず、飄々と口角を上げた。


「お前……何のつもりだ。なんであんなものを見せた!」


 地を這うような低い声が美童の喉から生まれたものだとわかるまでに、テオは少し時間を必要とした。


 これが本当にあの美童なのだろうか。悪霊にでもとり憑かれたみたいに人相も声も彼のものとは思えなかった。

 イーヴィルは異様な無邪気さを湛えた表情で美童を見つめた。


「ふふ、随分と物語をくれたな。人里離れて幾十年――いや、そんなもんじゃないな、幾百年か。こんな最高の贈り物をくれたのは君が初めてかもしれない。――そんなに怒りなさんなよ。無事に帰ってこられて何よりじゃないか」


 我関せずとばかりに躱すイーヴィルに、美童はさらに気色ばんで声を荒げた。


「ふざけるな!」


 怒りに歯を噛みしめて、「あんなもの……!」と血の塊を吐き出すように言うと、ギリギリと下唇を噛みしめて、突き飛ばすようにイーヴィルから手を離した。


 あるだけの理性を動かして怒りを鎮めようと努めた美童は、はあ、と大きくため息を吐いたあと、瞬きをした次の瞬間にはいつもの顔つきに戻っていた。同時に、テオの存在に今しがた気付いたように表情を強張らせたが、それも一瞬のこと。ふっと笑みを漏らして、


「テオ、無事か」


 優しい声。今までの、悪魔を彷彿とさせた恐ろしい形相はきれいさっぱりなりを潜めていた。


 魔法使いの胸に蟠った、意図せず垣間見えた黒い影。

 テオは面食らって、コクコクと頷く。

 美童は安心したように笑みを深めると、厳しい顔でイーヴィルに目を向ける。


「お前、《本》をどうした」


「本? 何の本かな。生憎だが俺はあんまり本に執着がなくてね」


 イーヴィルは肩を竦め、薄笑いを浮かべている。その笑みの意味を測りかねるが、なんとも芝居がかった挙動が鼻につく。


「しらばっくれるのもほどほどにしろ。ファンフリート家に継がれてきたものだ。お前が隠したんじゃないだろうな。この城の中にあるはずなんだ」


 すると、ようやく合点がいった様子で、


「ああ、なあんだ、はアレを探しにこんな世界の果てまでやってきたのかよ。難儀なこって」


?」


 美童とテオは声を合わせて前のめりになった。


「クラレンス兄さんに会ったんですか?」とテオ。


「もちろんだとも。ここへ来た貴重なお客さんはきちんとお出迎えしないとな。君らよりいくらか早くこの城へ入り込んだぞ」


 イーヴィルは獣のような鋭利な爪で白い唇をなぞりながら「彼からも頂いたんだぜ、最高の物語を」


 そう言って見せた両の掌には、二つの石が乗っていた。透明な中に黒いインクを漂わせたピンポン玉サイズの球体と、青い地層を取り出したような奇妙な模様の角張った石。恐らくどちらかがキティの記憶だろう。


 兄がこの狡猾な悪魔に贈った物語とやらに少しばかり興味を惹かれたが、今はそれよりも本を見つけることの方が先だ。


「ここから君たちの目的の場所へ行ける」


 イーヴィルは更に上へ続く螺旋階段を指さし、


「ありがとう、テオ。君の物語、とても楽しませてもらったぜ」と言い残し、薄闇に溶けるようにして消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る