38. 決着……?
軽く息を切らしながら螺旋階段を駆け上がるテオは、すぐ隣で額に浮かんだ汗を拭う美童に目を向けた。
先ほどのイーヴィルとのやり取りで垣間見えた彼の様子が気がかりだったが、訊ねる勇気はない。
誰にだって他人に訊かれたくないことの一つや二つはあるだろう。あの美童の様子からはその類の話だと推察された。彼の方から話す素振りが見られない限りは、自ら訊ねる勇気など元から存在するはずもなく、妙に重たい空気のまま今に至る。
そしてそれは、ただの依頼人であるテオに聞かせるにはあまりにも重く、酷な秘密なのであるということを、少年は知る由もない。
硬い沈黙を各々が背負ったまま階段を登りきると、一層明るく月明りの差し込む一角に出た。
正面には天井に届くまでの大きなステンドグラスがはめ込まれていて、白い月明かりが赤や青といった鮮やかな色になって闇ばかりの室内に彩りを刷く。
ここは各部屋へつながる通路を兼ねた広間となっており、埃をかぶったランプシェードやテーブルセット、ぼろぼろに破けた革張りのソファーなどが設置されている。人の出入りが希薄になった現状でもこうして家具だけが規則正しく並んでいる様子は、この場の冷え切った空気と陰気さでさらに不気味に見えた。
「あ」とテオが声を上げると、広間の隅にいた二人の先客が同時にこちらを振り返った。
「よう、お二人さんも来たか。けど、一足遅かったな」
ひらりと手を上げたキティがにこやかに言う。一仕事終えて人心地ついたような顔で隣のクラレンスに目をやった。ほんの少し気まずそうに佇立する長子の手には、大きな《本》が抱えられていた。
高級感のある黒い革張りのハードカバー。ファンフリート家の魔法が詰まった、渦中の《本》に違いなかった。――それをクラレンスが手にしているということは。
「やっぱり、兄さんだったね」
テオは納得したように言い、ストンと肩を落とした。落胆した、というわけではなかった。落ち着くところへ落ち着いた結末を目の当たりにしてホッとしているのだ。
「よくここまで来たね、テオ。他の弟たちは気配すら感じない。一体、どこを探しているんだろう」
苦笑するクラレンスに、テオは気の抜けた顔で「うん、そうだね」と返事をする。
本は兄さんが手に入れた。けれど、悔しさは思いのほか少なく、むしろ妙にすっきりとした心地だった。
ぼくも本を見つけ出して魔法使いになりたかった。
初めはそんな風に思うことはなかったけれど、次第に心から欲した本。
この廃城に辿り着くまでの道中で築いてきた決意は空振りに終わってしまったというのに、この結末はあらかじめ決められていた事象のように思えた。
「そうか、そうだよな」
心の声がつい漏れた、といった調子で呟いたテオ。感情が欠落し、呆然とした顔にやがて幼子のような微笑が浮かび、「流石、クラレンス兄さんだ」と称賛の言葉と共に兄の元へ歩み寄る。
「兄さん、ぼくね、本が欲しかったんだ。魔法使いになりたかったから。ぼくは兄さんたちの中で一番の落ちこぼれで、魔法なんてほとんど使えないでしょ? だから本を手に入れることができたら、魔法使いになれるって思った。だけど今、兄さんが本を継承するんだ、と理解して妙に晴れやかな気分なんだ。ぼくにファンフリート家の全てを背負うことは無理だし、正直、自分のことで手いっぱいになっちゃう。でも、ぼくはこの旅でたくさんのものを得たよ。だから、本を継承できなかったけど、無駄足だったとは思わない」
テオは一度言葉を切ると、兄の目の前で歩みを止め、「おめでとう、兄さん。やっぱりぼくたち兄弟のリーダーは、兄さんにしか務まらないよ」
いつにもなく饒舌な弟に、クラレンスは驚いたように目を瞬いた。ややして、ホッとしたように口元を綻ばせ、
「ありがとう、テオ。でも僕は、君にも本を継承するだけの素質があったと信じてる。だって君は、様々な思いをしてここまでたどり着いたんだろう?」
「美童さんのおかげだよ」
「僕はただ、探し物を手伝っただけだよ」後ろから美童が謙遜の声を投げる。
四人は傍に集まってクラレンスの本に注目する。
「さあ、クラレンス。継承の言葉を言いな」
キティが優しく促す。
クラレンスは緊張の面持ちで頷き、本の表紙を捲った。
継承の仕方はなんとなくわかる。本の継承者にはわかる。
重い装丁をめくって、古びて甘い香りを放つ古紙に書かれた一文、【
「僕の名前はクラレンス・ファンフリート。ファンフリート家に伝わる魔法の書よ、僕にちからを――」
クラレンスの文言が進むに従って、本から白い光が泉のように溢れ、クラレンスを抱き込む――が、彼の声が全てを言い終わる前に、それは不意に収束を始めた。たちまち辺りは薄暗い月明りの下に沈む。
冷めた大気が一層の冷気を孕んで、そこかしこに霜を下す。
沈黙。クラレンスは本を開いたまま黙りこくり、それを見守る三人が誰とはなしに視線を交わし合う。
痺れを切らしたテオが兄の顔を覗き込んで「クラレンス兄さん」と声をかけようとした、その刹那。
「ククククク……」
俯いたクラレンスが喉を鳴らすように笑いだした。薄い肩を揺らして、深く頭を垂れたまま本をぎゅうっと握りしめる。
何やら不気味な雰囲気が立ち込め、テオはゴクリと唾を飲み込んだ。
訳も分からないまま本能だけがまずい、と悟る。
首の後ろがチリ、と冷たい熱を発し、テオは焦燥感に促され、クラレンスの肩に手を置いて「兄さん」と強めに呼びかける。
ひゅっと、鋭い何かが空気を割く音がした。いや、違う。テオが息を呑んだ音だ。
クラレンスはやけにのんびりした動作で、俯き気味に首だけを末弟へ向けた。
上品な金の瞳は沸騰する血の色に侵食され、薄く小さな唇は人を喰らう幽鬼のそれのように耳まで裂けている。血色のいい頬からは色が失われ、若さに潤った皮膚は乾いた大地のようにぼろぼろと崩れてゆくではないか。
人相がまるで変っていた。
利発そうでやさし気な風貌のクラレンス少年の面影は乱暴に拭い去られ、そこにあったのは、地の底で悪逆非道の限りを尽くす悪鬼のような禍々しき姿。
「違う、兄さんじゃない……」
クラレンスは、動揺に揺らめく弟の目を見て、にやりと嗤った。
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