魔物編

39. 本にとり憑いたもの〈1〉

 場の空気が凍り付いたように急激に冷え、同時にテオは、首の後ろがジリジリと総毛立つのを感じていた。


 明らかな違和感が喉奥に粘土の塊の如く詰まって息苦しい。

 美童やキティも訝し気な視線を交わし合い、たちまち表情を険しいものに変えた。


 一方のクラレンスは、違和感だらけの変質した空気には全くの無頓着状態で、彼らしからぬ熱に浮かされた様子で片手を前髪に突っ込む。


「兄さん、兄さんかあ……ハハ、ハハハハハ」


 天を仰ぎ見ながら、弟の言葉を噛みしめるように繰り返す。その口調は粘着質で陰気で、普段のクラレンスとは比べ物にならぬほど深く不気味な声だった。喜んでいるのか、鬱陶しがっているのかいまいち判然としない雰囲気がある。

 と、怯えたように口を噤むテオの方へ徐に振り向いた。

 揺らめく炎のようにチカチカと発光する瞳。テオはその双眸の中に見た怖気を誘う妖しさに、思わず腰が引けてしまう。


「ごめんな、弟よ。この兄、今この瞬間を以て君の兄ではなくなる」


 異様な気配を察した美童とキティが、テオをサッと背後へ庇いながら後退る。


「お前は誰だ」


 美童が威圧するように言うと、クラレンスの姿をした謎の人物は、ステージ上で観客の視線を独り占めする人気俳優の所作で三人に向き直る。


「フフフフ、ハハハハハハ……!」


 クラレンスは背中を仰け反らせてひとしきり笑い飛ばすと、ばっと両手を広げ、空気を震わせる大声で、言った。


「我が名はラ・ファーレ! 兄上の身体、この稀代の怪人がもらい受けた!」


          ・

          ・

          ・


 何が起こっているのだろう。

 クラレンスの高らかな笑声が、意識の外で高く反響している。

 肉体から心が乖離かいりしてゆくような奇妙な感覚が、己の目で見ている状況の現実味を荒々しく欠く。


 普段の真面目なクラレンスらしからぬに、ただごとではないと察するのだが、あまりの衝撃に身動きどころか声一つ出せなかった。


「もっと下がっていろ、テオ」


 茫然自失の体で立ち尽くしていると、前に出たキティが、呪文を省略した簡易魔法をクラレンスへ放つ。キティの指先を離れた魔法は白い光の輪となり、クラレンスの腕関節ごと胴体を拘束した。

 バランスを崩して二、三歩よろついた彼は、むっと顔を顰める。「なんだ、こんなもの」


「キティ」美童は彼の乱暴をとがめる。


「うるせえ。見てわかんねえか。こいつはクラレンスじゃねえ。何をしでかすかわかんねえんだぞ」


「もう少しやり方を考えろよ」


 この状況に逸早く順応したキティの行動は正しい。それは美童も理解していたが、混乱したテオの見ている前ですることではないことを咎めたかった。


「うるさいのはあんたらの方だな」


 呆れたように言ったクラレンスは環の中でもそもそと身動ぎすると、ぐっぐ、と外に力を入れて光の環の拘束を破壊した。ばきん、と音を立て真っ二つに割れた輪っかを余裕綽々の顔で放り捨てる。

 キティは舌打ちをした。呪文省略の簡易魔法は便利ではあったが、耐久性に乏しいところがある。


「に、兄さん、一体どうしたの」


 未だこの状況に理解が追い付けないテオが、美童の背後から身を乗り出して叫ぶ。

 クラレンスは寝起きの猫のように伸びをしながら、素行の悪い少年がする顔で言った。


「だぁから、俺ァ《兄さん》じゃねえ。何回でも言ってやる。稀代の怪人、ラ・ファーレ様だ」

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