17.死の魔法使い

 美童がを体験するのは二度目だ。あの時も今みたいに夜色の霞に包まれ、襲い来る危機を見事に脱した。――キティと関わるといつもこのような役回りを押し付けられるので、なるべく関わりを持ちたくはない。

そんな美童の胸の内を知ってか知らずか、毒の魔法使いはすぐ隣でプレゼントの袋を開けるときのような、わくわくと期待の籠った無邪気な笑顔を満面に溢れさせている。

 ――無邪気とは言葉ばかりの、慈悲の欠片もない悪魔のような表情。


 ルーイは自分に向けられたその無慈悲な表情に、乾いた喉を上下させるほかない。これから何が始まるのか、いくら想像力を働かせようとも明確なビジョンが浮かんでくることがなかった。


 確実なのは、この異様な魔法の。危険な魔法の匂いが鼻腔から脳を貫き、ルーイの頭の中の警鐘を激しく打ち鳴らした。紙のように白んだ表皮に玉のような汗が浮かんで、殺人鬼の頬を伝い落ちた。


「何をするつもりだ……」喉が渇いて声が引き攣る。どくどくと脈打った心臓が思考の展開を阻害した。


「そうねえ、現役時代むかしのルドヴィヒ・ローエン風に言うならば、だな。来るぞ、お前さんが愛してやまないが」


 キティが後退るように離れるや否や、藍の螺旋にいだかれた美童の姿がみるみるうちに《変化》する。凍り付いたような無表情の上に、別の人間の顔が透けるようにちらついたように見えたのは錯覚だろうか。


 藍色の粉が吸い寄せられ濃密に寄り集まり、瞬く間にを作り上げる。白い鱗と、うねうねと波打つ蛇腹。身動ぎをするたびに濡れたように光るそれは、背筋がゾッとするような不快感を抱かせた。


 何が……?

 負の感情に恐れをなしたルーイの視線が、死を目前にした被食者のように激しく震える。


 キティの顔に恍惚こうこつが色付くのとは対照に、殺人鬼の顔はたちまち絶望に彩られていった。歯の根が合わず奥歯ががちがちと音を立てるのが妙にうるさく感じた。そして、眼前で形成された世にもおぞましい光景が何を意味するのかを、この瞬間に理解した。


「ああ……嘘だ、どうして…………!」


 ルーイは及び腰で戦慄わなないた。瞠目した双眸が瞼の中で激しく痙攣し、吐き気を堪えるように口元を掌で覆い隠した。


『……、……』


 不気味に反響する若い女性たちの享楽の声。それは、無表情のままルーイを追い詰める美童の喉から発せられている。これは美童の声か? 否、違う。全く別人のものだ。


「来るな、来るな!」


脚を奪うぞジャンブ・デロベ!」


 殺人鬼はこちらに背を向けて逃走を試みたが、不意にその足が地に縛り付けられたように動かなくなる。キティが鋭く叫んだ呪文が、ルーイの足をその場に縫い付けたのだ。危うく顔面から床に転倒するところを寸でのところで堪えるも、このまま転んで頭でもぶつけて気を失えたらどんなに幸せかと考えないではいられなかった。


「おっと、逃がさないからな。抵抗するなよ。その脚へし折るぞ」


 キティがさも愉快そうに言い、続けて口の中で短く呪文を唱える。ルーイは、左足が内側へ捻じれるような痛みを感じた。


「! お前……」ルーイの双眸に憎悪と共に畏怖の念がみなぎる。


「大人しくしてな。ちーっとばかし、おきゅうを据えてやろうか、小面憎いクソ小僧。なんだ、泣いてるのか。そんなに怯えるなよ、死にはしないさ。心底、怖い思いはしてもらうがね。ハハハッ」


 興奮に頬を上気させながら、キティが声を枯らした鴉のように笑う。


 不明瞭な夢の中を歩くような美童の脚が一歩また一歩と、逃げ惑うルーイを追い詰める。

 恐れをなして泣き叫んだルーイは、身を大きく捩りながら足の裏から離れない地面を必死に蹴る。しかし靴底がというよりは足の裏そのものが床にしっかり張り付いてしまい、両の足首を切り離しでもしないと逃げることなど出来ようはずもなかった。自分自身を人質にとられてしまったせいでろくに抵抗も出来ない。その間も、キティの饒舌は止まることを知らず、台本に長々とつづられた長台詞を読み上げるように続ける。


「やはり強いのは【現実リアル】だろ? 幻は所詮、幻なんだよ。そこに存在しているように見せているだけだ。リアルには敵わない。お前さんが一番よくわかっているはずだ。幻をより鮮明に、リアルに見せることを追及していた男よ」


 ルーイは息も絶え絶えに、悠々と距離を詰めてくる美童に恐れをなした目を向ける。先刻とはうって変わった弱々しさは、見ていて哀れに思う程だ。そんな様子すらもキティには甚振いたぶり甲斐があった。さながら執念深い蛇が、獲物をどこまでもどこまでも追い詰めるかのように。


「さあ、来るぞ。そろそろだ。存分に怯えなよ。死を垣間見てみるといい。この俺の――使・キティ・シャ・ソヴァージュ様の魔法を堪能しろ」


 ハハハハハ……ハハハハハハ……キティの高笑いにいざなわれたは、殻を破り生まれる悪魔のようにして、美童のに現れた。


 美童を取り囲むように浮遊した十六個の瞳が一斉に開眼すると、夜闇を裂く炎のように赤い輝きを放ち、顔色を失くしたルーイをぎょろりと睨みつけた。それは人間の眼であったが、瞳孔は獣のように縦に伸び、人間の遺伝子に刻まれた根源的な恐怖を誘う煽情的な色香を含んでいる。


 複数の視線に射抜かれたルーイの喉から裂帛れっぱくの悲鳴がほとばしる。その絶叫はさながら、死へとつながる深淵から伸びてきた数多の手に地の底へと引き摺り込まれる生者を彷彿とさせた。


 キティは顎を反らして呵々大笑し、「そうだろう、そうだろう。恐ろしいだろう。姿が――否、死後、化け物の姿へと身を落とした愛しい彼女たちの姿が!」


 ルーイの目が映しだした光景――それは、美童の痩躯に絡まるようにゆらゆらと揺らめく蛇――人間の女の首を頂いた八つの頭を持つ大蛇だった。

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