40. 悪魔を追え

 颯爽と飛び降りたキティは、人間離れした身体能力でポーチの上に着地すると、素早く右手をジャケットに潜り込ませる。いつぞや近所のコーヒーショップでブレンドコーヒーを注文した時のレシートと一緒に出てきたのは、直径3センチほどの大きさのガラス玉だ。

 深い闇色の中に時折混ざるシルバーがマーブル模様を描いた玉。それを思いきり足元に叩きつける。カチンと音を立てて球体が砕け散るや否や、黒い煙が一帯に立ち込めた。


 砂漠の夜風に流されて煙がけると、何もなかったはずのそこに一台のオートバイが白い月光を照り返していた。

 車体に固定されたエンジンは剥き出しで、キティの好む無骨なデザインだ。黒いタンクにシルバーのラインが細く走り、マフラーサスペンションはピカピカに磨き上げられている。

 革張りのシートは広々としていて、後ろにもう一人乗れるタンデム仕様だ。

 仕事の合間に趣味として時間を設けてカスタムを繰り返した自慢の愛車は、マグノリア歴始まった当時から歴史のあるメーカーのヴィンテージ品だ。


 キティはシートの中からフルフェイスのヘルメットを取り出し、それを被らずに愛機に跨る。

 ちょうどその時、魔法で落下の衝撃を吸収しながらテオと美童が窓から降りてきたところだった。


「テオ、乗れ」


 キティはメットを投げて寄越す。テオが慌ててそれを受け取ると、傍にいた美童が深く頷く。


「クラレンスを見失う。早くしな。後ろに跨れ」


「でも、砂漠でバイクなんて、どうやって……」


 明らかに走行には不利な地形だ。

 不安そうにしているテオを尻目に、キティはゴーグルをかけ、スタンドを蹴り上げてエンジンを吹かす。ハンドルを握ると軽く前傾姿勢になる。

 太いトルク音が静寂を割り、世界の果てに眠っていた全てのものが起床を促されるようだった。


「都会の道は混むだろ?」


 排気音の合間を縫って脈絡なくキティが言う。テオはその言葉の意味を反芻しながらヘルメットをかぶった。美童が首元のベルトを手際よく締めてくれる。

 少し雲が出てきた。密度の薄い気体が白銀の縁にかかり、降り注ぐ光彩がにわかに歪む。


「だから俺は夜空そらを走るのさ」


          ・

          ・

          ・


 テオはタンデムシートを跨ぐと、右手はキティの革ジャンの胸元を掴み、左手はシート後方のハンドルを握る。


「美童さんは」


 振り返ったテオは、ヘルメットのシールドを上げて訊ねる。


「すぐ行く。少し時間かかるからキティ、先に行って」


「早くしろよ?」


 キティは二度ほど強くエンジンを吹かすと、「少し飛ばすぜ」と言って地面を蹴り上げた。


 右手でアクセルを捻ると、前方に向かって急発進する。広いポーチを三馬身ほど走って助走をつけると、ふわりと前輪が持ち上がった。内臓が浮くような唐突な浮遊感は、刹那的にテオに恐怖を抱かせた。尻がシートを滑り、背中から落下するかとヒヤヒヤしたが、車体はすぐに安定する。

 

 しがみついた右腕にキティの固い筋肉を感じる。

 ハンドルを掴む手に緊張の汗が滲んで滑る。テオは恐る恐る左手を離し、濡れた掌を外套で拭った。


 瞬く間に車体は地上から十メートル離れた。時速四十キロの速さで前進しながら徐々に高度を上げてゆくと、視線の先にクラレンスが見えた。目視できる距離を隔てて物凄いスピードで飛んで行く。少しでもこちらがペースを落とせば一気に見失ってしまいそうだった。


「兄さん……」


 不安に染まった少年の呟きは、ヘルメットの中で幾度も反響するようにテオを追い詰めた。


 ふと、置いてきた美童の方を振り返ると、彼はもうすぐそこまで来ていた。――砂漠の大地を共にしてきたラクダのタフィに跨って。

 彼女は長い睫毛をそよがせながら夜の空を駆けてきた。大地を駆ける時とは比べ物にならない速さで追いついてくると、夜気の中を疾駆するオートバイに追いつく。


 この魔法は〈騎獣術〉と呼ばれ、主に馬で空を駆けるために編み出された魔法だった。もちろん対象がラクダでもなんの問題もない。地上をのんびりあるくタフィも、この時ばかりは体感したことのない空の旅に上機嫌であった。


「テオ、怖くないか」


 美童の声が排気音を乗り越える。テオも大声で返事をしながら、大きく頷いた。


「もっと飛ばすぞ。このままじゃ撒かれる」


 言い、キティはさらにアクセルを捻る。

 振り落とされるんじゃないかという恐怖に両の手に力が入り、拭ったばかりの汗がもう掌を濡らした。


 オートバイと並走する美童は、荒くれる髪を後ろに撫でつけながら、難しい顔で言った。


「あいつは何者だ。なぜクラレンスが付け入られた?」


「さあな。――ッチ。俺としたことが。実体もない下級ごときの気配すら気付かねえなんて、焼きが回ったかな」


 苛ついたように舌を打ったキティは、そのストレスをぶつけるかのように激しくエンジンを吹かせた。


 その時、乾いた羽ばたきと共に黒い羽根を散らせた一羽の鴉が、美童の肩に羽を休める。


『美童、先に追っとくか?』


 使い魔、人語を介す鴉だ。美童の有する使い魔の中でも随一の古株で、知能指数も高い。鴉の濡れ羽色とはよく言ったもので、夜闇にも映える美しい翼が美童の豊かな髪と共に濡れ光る。


「ああ、そうしてくれ。絶対に見失うわけにはいかないんだ」


 そう言い、美童は手綱を掌に巻き付けた。鴉は双翼を広げて上空へ上がると、ものすごい速さでクラレンスを追った。

 同時にキティもアクセルを捻り、必死に縋りつくテオの手を掴む。「しっかり掴まってな」


 甲高い排気音と共にスピードが上がる。ヘルメットの外側を激しく風が擦れ、ベルトを締めていても吹き飛ばされてしまいそうだった。こんなに速度を上げても、クラレンスはまだあんな遠いところにいる。

 

 魔の者にとり憑かれた少年は、宵闇に朧げな姿をちらつかせ、時折こちらを振り返る素振りを見せがらなおもスピードを緩めることをしない。


 テオは薄く色の付いたシールド越しに兄の姿を見失うまいと、一生懸命に目を凝らした。幸い、視力の良さには自信があったので、白い月明りと薄闇のコントラストに彩られた兄を、彼の目が見失うことはなかった。


 後方にあるはずの廃城はもはや可視の域を出、三六〇度を緩やかな起伏の地平線が取り囲んでいる。目路の限りに広がる砂の海には、星影を思わせるきらめきがオーロラのように色を変えキラキラと視界を彩る。


 ……と、急にクラレンスは高度を下げた。地面に近付くにつれて徐々に失速し、慣れた様子で地上へ降り立つ。

 何故そこで地上を目指そうと思ったのかわからないが、あれだけ必死に逃走を図っておきながら三人の追手を余裕の顔で振り返り、まるで待ち合わせでもしているみたいに腕を組んでこちらを見上げている。


 なにをしているのだろう。観念したわけではなさそうだが。


「やっと追いつくぞ」


 美童が呟く。彼らも徐々に高度を下げてゆく。

 ある程度地上に近付いたところで、美童はタフィの背中から飛び降りた。

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