9. 邂逅

 その男には、見覚えがあった。


 燃えるような赤い瞳。鋭い眼光を貫く左目の古傷。暗黒の世界に跳梁跋扈する怪異を思わせる派手な身なり。浅黒く焼けた肌と、大きな体躯。

 魔法使いというよりは、山賊のボスを思わせる無骨な外見。

 マグノリアでもその名を知らぬ者はいないとまで言われた、異端児。


 型破りで、その性格や今までの経歴から、自然と敵は多い。世界の常識に捕らわれず、常に真理しんりを追究する男。それでいて、誰もが認めざるを得ない、優れた魔法使い。そいつの正体は……


「毒の魔法使い……!」


 車掌を装って声をかけてきた男は、正解だと言わんばかりに獣じみた牙を剥き出して、呵々大笑かかたいしょうした。


「ッハハハ! ボン・ソワー、。まさかこんなところでお前のような男と出くわすとはな!」


 周囲の乗客たちがその声に驚いて飛び起きる。そのうちの数人が、何事かと立ち上がってこちらに注目した。ここまでなんとか避けて来られた他人の目が一気にこちらを向くというのは、罪状を言葉で突き付けられるよりも絶望感がひとしおだった。

 想像もしてなかったピンチに、頭がぐらぐらと揺れる。


「……お前、なんのつもりだ」


 努めて冷静に振舞うが、男は――キティ・シャ・ソヴァージュは、へらへら笑った顔のまま、オレのことを不躾にじろじろ見つめる。余白の目立つ三白眼が、まるで獲物を捕らえた蛇のそれのように見えてならない。


「今日は思いもよらぬ出会いに恵まれているようだぜ。もっとも、お前とのえにしは列車の乗客にとって、この上ない不運だろうがな」


 キティは言いながら距離を詰めてくると、腰をぐいと屈めてオレの首から頭部にかけてをすんすんと匂いを嗅ぐ。


「やめろ、何を……」


「やはりお前だな。悪い魔法使いの匂いがする。隣の車両にまで匂ってたぜ。なあ、サインくれよ有名人。天才マジシャンにして稀代の狂人・連続殺人犯のルドウィヒ・ローエン」


「ッ……い……」


 キティは、ひた隠しにしてきたオレの素顔を大声で暴き立てると、掴んだままの手の骨がミシミシと軋むくらい強く握り込む。今にもオレの拳は、小気味いい音と共に粉々に粉砕されそうだった。およそ人間のものとは思えない剛力に、情けなくも声が震える。


「は、なせよ」


「おっと、失礼」


 キティは放り出すようにオレの手を離すと、襟の間からちらりと覗く刺青の入った喉元をさすった。


《血染めのルーイ》……不名誉な渾名あだなのなんと忌々しいこと。このオレに付きまとう陳腐な名前。栄光の欠片すらないその響きには、今まで感じたこともない吐き気を覚えた。


 オレたちの間に流れるただならぬ雰囲気に、眠気などとうに吹き飛んでしまった乗客たちの視線が突き刺さる。

 安寧と共にあった沈黙はたちまち破られ、乗客たちの顔に不安の色が上る。恐慌寸前の気配が車内を満たし、腰を浮かせた彼らはこぞって不安を口にした。


 バレた。オレの正体がバレちまった。

 混乱が頭全体を埋め尽くす中、キティは不気味なほどマイペースに続ける。


「で、お前さんはこんなところで何をしている。逃走中の身だろ? なんてこったよ、よりにもよって俺が乗り込んだ列車に悪名高き殺人鬼が乗り合わせているとは思わなんだ」


 息を呑むような悲鳴がそこかしこから上がった。

《殺人鬼》という、日常と切り離された言葉に、車内はたちまち騒然となる。

 その中でただ唯一、この男だけは不気味なほど冷静で、事前に渡されていた筋書きをそらんじるかのようにしゃべり続ける。

 

「残念だな。お前さんは立派な魔法使いで、人々に幸福の時間を提供できる最高のエンターテイナーだったが、天狗になっちまったのが悪かった。言い寄ってくる女たちみんなに良い顔して、自らを破滅させちまってんだから。まるで幼稚な愛憎劇だ」


 この男はどこまでも俺の腹を暴く。舞台のクライマックス、眩いばかりのスポットライトを浴びた名探偵が、真犯人の正体を暴きたてるように。


 ああ、そうさ。オレは殺人鬼だ。八人の恋人を殺した。否定なんてできようはずもない。オレ自身がはっきり覚えている。彼女たちを殺したときの感覚を。忘れたくったって忘れられるようなものじゃない。


 オレは元々、人を殺せるような人間じゃなかったはずなんだ。それなのに……。


 優柔不断、八方美人、小さい頃から散々言われ続けてきたオレの特性。

 拗らせすぎたのだ。他者からちやほやされることに慣れていなかったオレは、異性という欲望の淵におびき出された挙句、甘い言葉で悪魔に唆され、堕ちるところまで堕ちた。


 可愛い彼女たちみんなを愛しきれずに、そして……殺してしまった。

 血の海に沈む彼女たちの姿が脳裏にフラッシュバックする。


 大理石の白い床を覆う赤。彼女たちが抵抗した時に壁に着いた生々しい赤い手形。壮絶な死に様を描く死相。急速に色を失ってゆく皮膚にこびり付いた血の跡が、作り物めいて見えた。先刻までの地獄の騒擾そうじょうがぴたりと止んで、聞こえるのは、喘ぐような己の息遣いのみ。


 汗が止まらない。

 乾いた喉が、呼吸をさまたげる。


 いよいよ追い詰められている。警察でもなんでもない、ただの魔法使い相手に精神的ナイフを突きつけられている。


 キティは、汗に濡れた獲物オレの顔を見て、くつくつと笑った。

 いたぶって楽しんでいやがるな。大層な趣味だ。流石、野郎め。


 ――《毒の魔法使い》はこの男の通称。何やら黒い噂の絶えない男だが、魔法使いとしての腕は確かだ。その強大な魔力ちからを手に入れるために、とんでもない方法を用いたというのは、こいつにまつわる噂の中でもだいぶ業腹な話だ。


「臭え。香水で隠し切れない血の匂いがする。もう少し吹き付けておけば、隠せたかと思うだろ? 残念だけど、俺相手に通用すると思うなよ。お前さんも知っているだろうが、俺は人間とは違う」


「……黙れ」


 意図せず心の声がそのまま外に漏れる。キティはそれを無視して続ける。


「どうだい、若い女の血は。うっとりするほど美しかったろ?」


「うるさい……」


 奴の目がギラリと光った。そう見えたのではなく、本当に光を放った。その瞬間、オレの記憶の中に、第三者の双眸が介入する。頭の中を別の人間に覗き見されるような不快感が――否、違う。今、オレの記憶の中を、眼前の悪魔が覗き込んでいる。頭の中を、文字通り覗かれているのだ。


 頭の中のオレはナイフを持っている。ペティナイフだ。水切り籠に置きっぱなしになって、すっかり渇いたそれは、オレの手の中で真っ赤な血を滴らせている。


 再び脳裏に蘇る血の惨劇。

 彼女たちの悲鳴。

 足元に仰臥ぎょうがした死体。

 あの時の光景が、鮮明に脳内再生される。フィルムに焼き付いた映像が、映写機を通して目の前で再生されているような奇妙な感覚だった。


 映像の中のオレは一人めを手にかけた刹那、七人の目撃者がいるという焦燥感に、頭に血が昇るのを感じた。たった一秒にも満たない時間の中で様々な考えが脳の中を駆け巡ったが、この場にいる全員を殺せば、死人に口なしだ! 恐怖と絶望によってショートした頭がはじき出した答えがそれだった。


 殺人鬼と化したオレの顔。自分では見えないけれど、それを見た彼女たちが、美しい顔を恐怖に歪めて散り散りに逃げてゆくのを見れば、どんなに恐ろしい顔だったかがわかる。


 オレはその狂気の顔で一人ずつ追い詰め、背中に、首に、腹に、胸に……刃物を持った右腕を返り血に染め上げながら、彼女たちを順繰りに殺していった。

 そのときの感情は、やってしまったという罪悪感と、追い詰められて狂ったように飛び跳ねる心拍がやけにうるさいと思ったこと、そして、未来への希望がこの瞬間に一切閉ざされてしまった絶望感が綯い交ぜになったカオスだった。


「お前さんがナイフを持ち出したのか? いくら女相手とは言え、よく八人もの人間をその場で刺し殺せたものだ。一人目を相当手酷く殺したらしいな。あまりの凄惨さに身動きを取れなくなった女共を、何故刺した。無抵抗の人間を何故? 単細胞が。自分で自分の首を絞めてどうすんだ」


 キティの声を合図に、映像はふっと途絶えた。

 頭の奥で血が煮える。また……あの時と同じ熱が全身を駆け巡る。沈静化した殺意が、目の前の男を捕らえる。恐怖から身を護るように、巨大化した激情が全身を熱くする。


 奴はオレの殺意を鷹揚な微笑で受け止めながら、言った。


現世うつしよは地獄。お前は彼女たちの死体で此岸しがん彼岸ひがんを描いたんだ。大した芸術家だな」


 その瞬間オレは、脳の中心部が一瞬にして沸騰するような、ぎょし難い怒りに飲み込まれた。

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