50. 独白―目覚め―

 軽く息を切らしながら日頃のストレスを吐き出し終えると、ついカッとなって一方的にしゃべりすぎたことを、クラレンスは激しく後悔した。


 感情的になって言葉遣いも荒くなったし、初めて会った子供の癇癪かんしゃくじみた自分語りに、相手はさぞうんざりしていることだろうと遠慮がちに目線を上げると、ファーレと名乗った彼は悲しそうに深く眉を下げ、暫く声を失った後、「辛かったね」「大変だったね」「よくやったね」「頑張ったね」と、僕が欲してやまなかった数多の言葉を惜しげもなくくれた。


 その途端に、彼に対する警戒心は湯をかけられた砂糖細工のようにみるみるうちに溶けていった。


「君は他者からの期待に応えたいんだろ? だから学校でもリーダーとして皆を率い、手を貸し、家では弟たちの長であり続けた。たった独りで。立派なもんだ、クラレンス。十四の少年が実に器用に立ち回っていたね」


 ファーレは感心したように頻りに頷く。


 満たされてゆく。

 カラカラに干された心のグラスが、彼の同情によって満たされてゆく。グラスを満たした水が、涙となって僕の頬を濡らした。


「泣かないで。君には素質があるよ、クラレンス」


「そ、しつ?」


 声が喉に引っかかる。


「うん。俺のちからを使いこなす素質。ただのちからじゃない。これは勇気だ。君が望んでいる《完璧な人間》クラレンス・ファンフリートになるちからだ」


 僕の理想たる僕――その言葉は、僕にとってとても曖昧な響きとなって胸中をぐるぐると渦巻く。その言葉の意味がよくわからなかった。自分がどうありたいのかが、わからなかったと言ってもいい。


 たちまち、言い知れぬ不安が鎌首をもたげる。よくないことが自分の身に起ころうとしているのではないかと思えて、ぞわりと髪の毛が逆立つのが分かった。

 どうしてそんあ感情に囚われたのかわからなかったが、それが目の前にいる摩訶不思議な魅力を持った青年のせいだとは露ほども考えずに、気が付けば僕は首肯していた。ファーレの言うを欲して。


 その瞬間――僕の意識は不可視の圧力に飲み込まれた。


「――――!」


 自分の声すら深い闇に飲まれる。


 視界が完全なる闇に閉ざされるとき、あいつは……ファーレは、薄い唇を耳まで吊り上げて、ニタァとわらっていた。


          ・

          ・

          ・


「兄さん!」


 テオは、夢と現実の狭間で見たクラレンスの記憶から目を覚ますなり、そう叫んだ。


 一天を覆う藍色のローブと、内側に浮かぶ白い月がこちらを覗き込んでくる。どうやら精神世界を抜けて現実世界へ戻ってこれたようだ。見える景色からして、今自分は砂の上に仰臥ぎょうがしている状態らしい。傍にはティーグルがいて、冴え冴えとした月色の瞳と目が合った。


『具合はどうだ』


「ええ、大丈夫です」


 テオは寝言のように言い、くしゃりと前髪をかきあげる。

 精神世界を脱して現実へ戻ってくるときに見えた景色。あれは、クラレンスとファーレが現実から切り離された空間で交わしたやり取りだろう。

 感情的に言葉を重ねるクラレンスと、静かに耳を傾けるファーレ。普段は見たことのない兄の子どもらしい姿が目に焼き付いて離れない。


 まだはっきりと覚醒しきらない頭を抱えながらむくりと起き上がると、視線の先に自分と同じように砂の上へ身を投げ出したクラレンスの姿を見つけた。足がもつれ、前につんのめりながら這うようにしてたどり着くと、血の気の失せた白い顔を覗き込む。


「クラレンス!」


 テオは冷たくなった兄の頬をそっと包み込む。夜気に晒されて冷えた頬には白く涙の痕が残っている。下まぶたに触れた親指が、冷えた皮膚に体温を分け与えるように撫でる。


 クラレンスの、絹を思わせる柔らかな睫毛がふわっと揺れると、目尻に落ちた睫毛の影がくっきりとそこに模様を描く。薄く開いた瞼の下で虚空を見つめる瞳が、テオを認めて安堵したようにそっと微笑んだ。


「テ、オ……」


「よかった」


 テオは肩の荷が下りる思いで深く息を吐いて、涙が滲んだ目元をごしごしと袖で拭う。


「テオ、僕は一体……」掠れた声でそこまで言いかけて、何かを思い出したようにはっと息を呑む。クラレンスは泣きそうに皺を寄せた顔で視線を逸らし、「お前も、見たんだろ?」と、泣くのを堪えて言う。


「何を」


「その、僕の……」


 テオは軽く唇を舐めると、小さく一度頷く。「見たよ」


「そうか」


 クラレンスは落胆の色を双眸に宿して囁き、地面に手をついて上半身を起こす。細やかな砂に掌が沈み込む感覚が妙に心地よかった。


「あのさ、テオ……」


 その言葉を遮るように、テオは兄の胸に飛び込んだ。いきなりの衝撃に耐えきれず、クラレンスは再び冷えた大地に背中を預けた。


「よかった、兄さん、兄さん……! 確かに兄さんだ!」


 頬を胸に押し付け、わんわんと声を上げて泣くテオ。

 クラレンスは最初こそ戸惑いを持て余しているようであったが、自らの双眸に浮かび上がる熱い想いを堰き止めることは叶わず、両腕で弟を抱きしめ返した。


 クラレンスは何も言わず、ただ、弟よりも大きな声を上げて泣いた。


 テオは、自立した兄がこうも弱々しく涙する姿を意外に思ったが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。兄の心が本来のあるべき肉体に戻ってくれたことが何よりも嬉しかった。


 感動の再会を喜ぶ一方で、魔法使い二人は実体も失って何のちからも持たなくなったファーレをようやく追い詰めたところだった。


 砂の上に這いつくばったファーレの全身は透けていた。精神だけの存在となり、ほとんど魔力を失ってしまったせいだろう。「うう……」と小さく呻きながら、眼前に立ちはだかる無慈悲な執行人を力なく見上げる。


「てめえ、この野郎。散々手こずらせやがって」


 キティはこめかみに静脈を浮き上がらせながらしゃがみ込むと、ファーレの首を


 無理矢理立たされる形となったファーレは弱々しく抵抗の意を示すも、今更何の妨害にもならず徒労に終わる。


「稀代の怪人、か」と執行人が憐れむような口振りで呟く。


「可哀そうだな、ラ・ファーレ。悪魔の世界には、人間みたいな《情》はねえ。あるのは己のみだ。そうだろ? 格上おれけを喫したお前は実体も、僅かばかりの魔力までも失っちまった。かつては栄華を誇ったお前も、今となっては人間の子ども一人、完全には掌握できなかったわけだ。引き際を悟ったろ? お前さんはここまでだ、ラ・ファーレ。おれが幕を引いてやるよ」


「お前に……お前に何がわかる! のお前に、悪魔の世界を語る資格はない!」


「はあ?」


 ファーレは眉尻を吊り上げて激しい怒気を露にした。相手がムキになればなるほど、キティの怒りは冷たさを増してゆく。


「いくら父親のちからを奪って実質的な転変悪魔フェアエンデルング・デーモンになったところで、お前の出生は半人間ハーフ! その事実は覆らない!」


「……」


 キティは口を噤んだままであったが、身に纏う空気が明らかにピリついたものに変わった。

 少し離れたところにいた兄妹もそれを感じ取ったらしく、視線を釘づけにされながら涙を引っ込めて身を寄せ合う。


 悪い予感を察した美童が、テオたちの傍へ足を向ける。

 ファーレ自身は、己が踏み込んではいけない領域に身を投じてしまったことに気が付いていないのか、死に際に最期の――魂の一声を放つ。


「お前に、悪魔を名乗る資格はない!」


 ぐしゃ。


 生々しく湿った音が、兄弟たちの耳朶に響いた。何が起こったのかは、いきなり美童が二人に覆いかぶさるようにして広げた外套に遮られて見えなかったが、きっとファーレは………………………。


 テオとクラレンスは息をするのも忘れて、動揺に染まった顔を見合わせた。

 キティを振り返った美童は、首と胴が別の個体と成り果てた小悪党の屍と、その返り血に色付いたキティを見て、誰にも聞こえないくらいの声量で「不快だ」と吐き捨てる。彼はテオたちの視界から凄惨な朱の残骸を遮ったまま、


スプーマ=コクレア泡の螺旋」と呪文を唱え、それをキティに放つ。濃密な泡の渦は返り血に濡れたキティを瞬く間にもこもこと包み込む。


「ぷわっ、何しやがる」


 まとわりつく泡をじたばたして振り落とすと、血みどろの惨劇から些かファンシーなビジュアルに早変わりする。


「ピュアな少年たちに血生臭い姿を見せるな」


 ファーレの死体は大量の泡に覆われ、まるで初めから存在などしていなかったかのように綺麗に消え失せていた。

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