50. 独白

 ――お兄ちゃん。

 ――さすがお兄ちゃんだね。

 ――クラレンス兄さんなら大丈夫でしょ。

 ――クラレンスになら、何頼んでも安心して任せられるわ。

 ――クラレンス、あれやっておいて。

 ――クラレンス、これやってくれる?

 ――頼むよ。クラレンスなら簡単だろ?

 ――クラレンス。お願い。

 ――クラレンス。

 ――クラレンス。

 ――クラレンス……


 いつからだろう。僕が《クラレンス》と呼び掛けられるのを億劫に感じ始めたのは。

 いくら記憶を遡っても、名前を呼ばれて振り返る時の感情はいつだって「うんざり」だった。

 また何かを頼まれるんじゃないか、何かを押し付けられるんじゃないか。僕の都合を一切無視した一方的なお願いには、いつだってうんざりしている。


 僕に頼みごとを押し付けてくる人は、決してそれを僕とふたりで解決しようとはしなかった。頼むだけ頼んで、僕を一人残してどこかへ行ってしまう。面倒事を他人に投げつけて、自分は好きに遊んでるんだろ? 知ってるさ、そんなこと。


 そんなに嫌なら断ればいいのに、とは思う。引き受けてからそんなことを思っても後の祭りだけど。


 きっと僕は八方美人が過ぎるんだ。みんなに《良い人》と思われたかったんだ。

 けれど、だんだん気付いてくる。ありきたりな言葉だけれど、僕はみんなにとって《良い人》なんかじゃない。《都合の良い人》なんだって。


 自分の時間を犠牲にして作り上げた周囲との関係性。元来の僕の性格――世話を焼くのを苦痛に思わない――が災いしたんだ。


 そうさ、僕は世話好き。

「ありがとう」と言われるのが好き。

 でもその性格は周囲の人間を駄目にする。


 初めは手を貸す度に「ありがとう」はたくさん聞けた。でも最初だけさ、そんなもの。やがてはみんな、僕がやって当たり前みたいに心の抜け落ちた感謝のみが投げやりに押し付けられるようになった。


 自分でこんなことを言うもんじゃないってわかってるんだけど、僕はある程度のことなら人並み以上に熟せた。


 たまたまだ。たまたま効率のいい勉強法を理解している。

 たまたま手先が器用に生まれただけ。


 人並み以上に勉強は出来たし、スポーツだって一緒。魔法も。ただ勘違いしないでほしいのは、別に、楽して何でもこなしているわけではない。《たまたま》だなんて、あたかも神からの恵み、なんて外の世界の人間のように言ってはいるけれど、たまたまの幸運にかまけて何の努力もしてないわけじゃない。人並み以上の成果を得るために、それ相応の努力くらいする。


 でもみんな、クラレンスはなんでもできる。そう思ってる。努力をしなくたって何でもできちゃう。


 そんなわけないだろ。魔法実技のテストだって、前日まで僕がどれほど夜更かしして練習していたか知らないくせに。クラレンスだったら出来て当たり前、みたいに扱ってほしくなんかない。


 僕は頑張ってるさ。けれど他人にはそう見えていない。努力もなしに何でもかんでもできると思われてる。

 故に誰も僕を――僕のを誉めてはくれない。


 都合のいい雑用係くらいにしか思われていないから、面倒だと思ったら次も利用してやろうという魂胆を愛想笑いの影から覗かせながら、形ばかりの「ありがとう」を心を籠めずに労いの言葉として放つのだ。


 それなのに、どうして僕は人の役に立つをやめられないのか。

 次こそは褒めてもらえるんじゃないか、そんな淡い期待に胸を躍らせてしまっているからなのだろう。


 次こそは、本心からの感謝の言葉を聞けるかもしれない。

 次こそは普段の努力を認めて貰えるかもしれない――そんな期待は、いつも裏切られる。


 結果として、誰一人僕の栄光が努力の上に成り立っているということを認めてはくれなかった。


 以来、他人ひとに期待をするのをやめた。

 誉め言葉も、心からの感謝もこの世には存在しないものなんだと言い聞かせて過ごすことにした。


 僕は自分の時間を他者のために浪費してきた。誰かのために行動しても、僕のもとには何も残らなかった。

 だから本だけは誰にも渡さない。僕だけのものにしてみせる。


 そう心に誓った僕が、他者に頼ったのは初めてかもしれない。

 今でもはっきり覚えている。僕とあの人が出会ったあの日、下弦の月が薄曇りの空に滲んでいた。


「へえ、お前さんが今代のファンフリート家の長男か」


 あの人――キティ・シャ・ソヴァージュという妖しげな雰囲気を纏った男。

 ケルシュの郊外も郊外。町外れにある人影の希薄な裏通りに居を構えた大柄な男。

 他にテナントのない古ビルの二階の一室で、僕が来るのを今か今かと待ち構えた豪奢な狼を思わせた不思議な男。


 薄暗い間接照明の焚かれた部屋で、キティという魔法使いは、怪しげな薬品がずらりと並んだ棚の前で、先程のあの言葉を放った。


「あ、あの、先日お電話させていただきました件について相談が……」


 僕がそう言うと、彼は棚の前から移動して来客用の応接セットへ案内した。

 大きな背中だ。上背も僕の何倍もあるように見える。そんなわけはないのだが、それくらい存在感のある人だ。


 魔法使いとしての腕は折り紙付きではあるが、僕が仄聞した話によれば、このキティ・シャ・ソヴァージュという男には仄暗い噂が絶えなかった。

 その内容については、ここで言及するにはあまりにも凄惨でありながら信憑性に乏しいことから、彼の名誉のために差し控えさせてもらう。


 そんな怪しげな大人の手を借りることが怖くなかったわけではない。もっと他に頼るべき大人がいることはわかっていた。けど不思議と、はじめて彼と対面した時、その人外めいた魅力に取りつかれたように、この人に縋りたいと思った。


 浮世離れした見た目や出所の不明な奇妙な噂、客の子供相手に媚びへつらうことなく大胆な面立ちではっきりと物を言う。

 周囲を取り巻く人間関係に猜疑心さいぎしんを抱いていた僕は、彼のそんなところに希望を感じていたのかもしれない。

 この人だったら、僕の求めている言葉はくれなくても、「クラレンスなら当たり前」という迂遠うえんな嘲りの言葉を口に上らせるようなことはしないだろうと思った。


 現に、僕の人を見る目に狂いはなかったわけだ。キティさんは僕が廃城の中で《本》を見つけた時に、「よくここまで頑張ったな」と今まで誰もくれなかった言葉をいとも簡単に言ってくれた。


 そのときの僕はまさかこの人に褒めてもらえるとは思わず、しばし言葉を失ってしまったほどだ。

 キティさんは無反応な僕を怪訝に思ったようで、長い足を屈めるようにして顔を覗き込んできた。


「どうかした?」


「あ、す、すみません。その……嬉しくて、ぼーっとしちゃった。ハハハ」


 はっと我に返ってそう言った。

 実はこの時、僕は泣きそうだった。

 本を手にできた嬉しさを上回るキティさんからの労いの言葉。子どもみたいな理由で一喜一憂してるって、そんなことわかってる。


 そんな時に、テオと美童さんが一足遅くやってきた。なんだかテオの雰囲気が清々しくて、少し大人びたような気がした。


 かくして、僕ら二人の兄弟の本を探す旅は終幕を迎えた。

 僕はその場で、契約を交わした。本を開いて――


「僕にちからを――」


 しかし契約の言葉はすべて紡がれることはなく、死に絶えたような冷気の漂う宙でふっと途絶えた。


 ――させないよ、坊や。


 誰ともわからぬそんな声が聞こえたと思った次の瞬間、僕の視野一杯に人の両の掌が迫ってくるのが見えて……それっきり、周りが真っ暗になった。


 次に視界が晴れた時は、目の前に僕よりいくつか年上に見える若い男がニコニコしながら立っていた。やさしそうに笑っているけれど、心の底の伺えない――こちらを一切信用する気のない雰囲気を漂わせていた。


「あなたは?」


 そう問えば彼は一層笑みを深めて、「俺はラ・ファーレ。君と話がしたいんだけど、今時間大丈夫?」と気さくに自己紹介しながらつかつかとこちらに近付いてきた。


 怖い。なんで?

 こんなに笑顔なのに、この人すごく怖い。


 僕は自分でもわかるくらい情けない顔になって、踵からずるずると後退った。


「お願い、逃げないで俺の話を聞いてほしい」


 彼は瞬間移動のように一瞬で距離を詰めてくると、僕の腕を掴んで言った。強い力ではあったが、その真摯な物言いに思わず立ち止まって彼の方を見る。


「な、に?」


「君、心に不満を抱えているだろ?」


 脈絡のない、かつ断定的な発言だった。

 けどそれは、確実に僕の図星を突いていた。


「どうして……」


 どうしてわかるの。

 言葉足らずにそう問うと、ファーレは「わかるさ」と頷く。


「君の顔を見ればそんなこと誰だって気付くだろ」


 僕は爪先に目線を落として「ううん」と首を振る。


「みんな自分が楽しようとするのに必死で、僕のことなんてどうだっていいんだから」


 そうして僕は、口数の少ないファーレに甘えて、常日頃の鬱憤を吐き散らかした。

 何故、父さんや母さんに言えないことが、こんな得体のしれない男に零すことができたのか不思議だった。

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