8. 殺人鬼の後悔

 オレは少しでもこの不調から気を紛らわせたくて、もう一度外の牧草地に目をやった。


 ガラス一枚を隔てた向こう側には、広大な緑の大地が広がっている。虚像であることを一切悟らせない、見事な作品だ。自分で言うのもあれだけど。今まで作り上げたどんな最高傑作よりも優れているなんて、皮肉なものだよ。


 一番大きな会場で、緊張のあまりぶっ倒れそうになりながらなんとか大成功を収めたあの公演時よりも、ずっとずっとエレガントな景色だ。

 今この瞬間のピンチの時でさえ、オレは成長を続けているらしい。……綺麗に言いすぎたな。これは成長なんかじゃない。ただの火事場の馬鹿力だ。


 けれどそんな雄大な自然の景色も、今のオレには心を沈める材料にすらならず、暗がりに透ける自分と目が合うことが怖くてたまらなかった。


 闇夜の空にぼんやりと浮かび上がった人殺しが、オレを見ている。

 人々の羨望をほしいままにしてきたあの頃のオレの顔とは違う。残忍さが仮面のように張り付いて剥がれない。


「どうしてオレが……こんな目に」


 ため息のように漏れた独り言がぐるぐると脳裏を巡る。

 どうすればいい。

 オレはこれからどこへ行けばいい。


 怖いことばかりだ。自分の身に降りかかった災厄が、順風満帆な未来への道を無惨にも閉ざした。もう希望なんてあるもんか。いっそ殺してくれ。死にたい、消えたい。


 ――……いや、それは怖い。できれば死にたくはない。身勝手なことを言うようだけれど、オレは死にたいわけじゃない。絶対的な安心が欲しいだけだ。

 死はそれらをもたらしてくれるだろう。だが《死》は、人からすべてを奪う。意志も、未来も、何もかも。オレもからそれらを奪った《死》そのものだ。


 怖い。自分から自分が消えてなくなるという感覚が。誰しも経験したことのない、しかしやがては、誰もが辿り着く境地。それが《死》。


 オレは昔から弱虫だ。学校の同級生たちにいじめられ続けた思い出が走馬灯よろしく蘇る。

 自分で言うのもあれだけど、魔法使いとしての将来を期待された少年時代は、周囲から頭が一つ二つ抜けるくらいの才能を発揮した。大人たちから大層可愛がられたが、故に、周囲からは明け透けにやっかまれたものだ。


 陰口は日常茶飯事。授業で使う道具を隠されたり捨てられたり、根も葉もない噂を流されたりもしたが、教師たちは常に俺の味方をしてくれた。


 大人たちが庇ってくれるのが唯一の救いだったが、奇しくもそのせいで同級生たちの中からは孤立し、いじめはだんだんと無くなっていったが、オレの周りに見えない膜でも張られているかのようなどうしようもない疎外感だけは、いつまでもそこにあった。


 卑屈な性格はその時からすっかり染みついて、オレという人間性に深く根付いてしまって離れない。もっと、周囲からの妬み嫉みを跳ね返せるような強い精神力をもっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


 ……警察は俺がこの列車に乗り込んだことに気付いている。捕まるのも時間の問題だ。


 オレの希望としては、このままどうにかして国外へと高飛びしたい。けどきっと次の停車駅には法の番人が手ぐすね引いて待っている。

 長らく野放しになっていた冷酷な殺人鬼をこの手で捕らえられる瞬間を夢想して、彼らの顔は獲物を甚振いたぶる肉食獣のそれになっていることだろう。


 オレ自身が作り出した幻覚の中に閉じこもっていられるのも、あとどれくらいか。ただの時間稼ぎにしかならないこの一分一秒が無駄にならないようにするために、次にオレの取るべき行動は……。


 列車の揺れよりも激しい心拍。耳をろうするその音に急き立てられ、狂乱の叫びが喉を突いては寸前でため息に変わる。

 オレの精神は崩壊寸前だ。不安で不安で仕方ない。子どもの頃のように枕に縋りついて泣きわめきたい。


 その時、前車両へ続く連結扉から誰かが入ってくる気配がした。突如として破られた沈黙に、乾いた喉がひゅっと息を呑む。深い深い水底に引き摺り込まれるかのような絶望が脳裏を掠める。

 極度の緊張で干上がった喉を、半ば無理矢理上下させるのすら、気力を必要とされた。


 変装のためにかぶったキャスケットのつばをそっと下げ、寝ているふりを決め込むが、高熱を出したときのような忙しない呼吸を鎮めるのに酷く難儀した。


 冷たい靴底が床板を鳴らして近付いてくる。死刑宣告のカウントダウンだ。

 意識して呼吸の速度を落とす。荒い呼気が喉を灼く。起きていることがバレるのが怖い。息苦しさがオレを更に追い詰めるようだった。


 激しさを増す動悸と、通路を歩く足音が交互に耳朶を叩く。

 全身の毛穴という毛穴が開き、肌の表面に冷たい汗が噴き出した。


 止まれ、立ち止まれよ。

 こっちに来るな。

 オレに気を止めるな。


 ――カッ……。


 革靴がオレの前で立ち止まる音がした。

 なんでだ、なんでだ、なんでそこで止まるんだよ!

 過度な緊張に、胸の表皮がびりびり痺れる。

 脇腹を、冷たい汗が滑り落ちた。


「おやすみのところ失礼いたします。切符を拝見します」


 ……切符なんて持ってるわけないだろ。追っ手をかいくぐって死に物狂いで乗り込んだんだ。切符を買う暇なんてなかった!

 しかも、何でオレにだけ確認するんだよ。他にも乗客はいるじゃないか。

 怪しまれているのか? もしかしてオレが、ルドヴィヒ・ローエンだとバレているのか?


「お客様」


 軽く肩を揺すられる。前髪を濡らす汗が膝に滴り落ちた。

 もうだめか……。


「ああ、ええ、……わかりました」


 オレは掠れた声で寝起きを装いながら、紙くず一つ入ってないズボンのポケットに手を入れ、切符を探すふりをする。


 もう自棄やけだ。

 オレはポケットの中で手を握り締めた。不意を突いて殴りかかり、こいつを気絶させるしかない。


 刹那、空気が鋭く揺らいだ。握りしめた拳はひゅっと音を立てて空気を引き裂き、相手の顔面にめり込む。


 オレは確信していた。ことを静かに済ませることが出来ると。

 ……だから数秒後、渾身こんしんのスピードで放った拳を止められたと悟った時は、地獄の淵に立たされたような心地だった。


 強く握りすぎて関節部分が白くなった拳を、すっぽりと包み込む大きな掌。男の手だ。浅黒く焼けた皮膚に、短く切り揃えられた爪。人差し指には飾り気のない銀の細い指輪が嵌まっている。

 その大きな手は、「逃がすものか」とばかりに、オレの手を強く握った。


「――ッ……!」


 なんて冷たい手だ。死人の気配が、触れ合った皮膚から脳を侵す。引き離そうにも、相手の人間離れした怪力は、押せども引けどもびくともしない。


 こいつ、ただの車掌じゃない。

 背中を冷たい汗が伝う。

 視線を上げると、男と目が合う。燃えるように赤い双眸が、オレより先にこちらを見つめていた。


「お前は……!」

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