7. 逃走犯の独白
オレを取り囲むボックス席。ここからは他の乗客の顔が見えないからよかった。
とは言っても、乗り込んだ車内は幸運にも人は少なく、あまつさえみんなぐっすり夢の中なの、、怯える必要もないのだけれど。
「はあ……」
全くリラックスできない苛立ちから、深いため息を漏らしっぱなしだ。ため息を吐くと幸せが逃げるなんてのはよく言われる話だが、オレには二度と享受することのできないもの、それが幸福なのだから、今からため息を我慢したところで何の意味もない。ただのストレスだ。
そんな苛立たしさから少しでも意識を他所へ向けたくて、掻き合わせたコートの襟に深く顎をうずめながら、窓の外に目をやった。
何気なく見やった先に広がっているのは、雄大な草原の大パノラマ。だがその景色は十数秒間に一度、古びたレコードの音が突然飛ぶのと似た感覚で、振出しに戻ってしまうのだ。
オレは安堵と緊張の
そう言い聞かせるようにゆっくり目を開けると、昏い車窓に映る自分と視線がもろにぶつかり、ゾッとした。
紙のように白い顔。それはもう不気味なほどに真っ白だ。まるでゴーストみたい。蝋細工を彷彿とさせる虚無が張り付いて、オレの表情をガチガチに固めている。
紛い物めいた虚構が表層を覆いつくすのに対し、目だけは未だ生きることに執着する化け物のようにぎらぎらと輝いている。普段、家の洗面所で見る自分の顔とは似ても似つかなかった。
再び頭を
仕方がない。諦めろ。次の一手を考えろ。今のこの状況が単なる悪足掻きでしかないことは明白だ。オレが真の安寧を享受できる瞬間など、もう永遠に来ないのだから。
頭の中で一人で会話をしていたら、少しだけ頭が冷えてきた。「冷静」という単語を幾度も頭の中で唱えながら、ようやく手に入れたなけなしの余裕の中で、努めて「冷静」に考える。
これからどうすればいい。
オレの幻覚は上手いことこの列車を飲み込んだ。
外からこの列車は視えなくなっている。ナランナ国デイサイド・テュール行きの列車は、走行中に突如として姿を消した。……はずだ。
幻覚。
夢のような気分を味わった。自分という存在が世界に知れ亘る快感を、今でも覚えている。
――そのちからで、一気に奈落へ転げ落ちたんじゃ世話ないけど。
夢の時間は残酷なまでに不意に終わる。
オレはたちまち不幸になった。幸福を享受できたのはほんのひと時。幸せは長くは続かないから幸せというのかもしれない。無慈悲なほどに儚いものだ。
砂嵐に荒らされた頭の中に、
みんなにちやほやされて、舞台にもたくさん立たせてもらった。
仕事の数が増えてからはろくに眠れる時間もなかったけれど、それでもオレに求められる数々の仕事は楽しかった。
ステージの上から見る観客席の笑顔と歓声が、何よりの報酬だった。
稼げるようになってからは、毎日のように美味しいものをたらふく食べて、欲しいものは片っ端から手に入れた。みすぼらしかった学生時代とは
自慢じゃないけど、オレは
初心を忘れ、自分が快感だと思うことにばかり気を取られ、楽をし、いつしか誠実さを欠いた人間へと堕ちた。ああいう人間を「天狗になる」と言うのだ、と自らの体験から勉強させてもらった。
理性より本能を優先してしまったのだ。知性を持つ人類にあるまじき愚行だったと、窮地に立たされた今になって思う。
それはある日の公演後、家路を辿るべく会場の裏口を出て、大通りへ向かって歩いていると、オレのファンだと言う二人の美女が駆け寄ってきた。
今までで一番大きな会場での公演終わりで酷く疲れていたけれど、彼女たちの
脳裏を掠めるふしだらな期待を顔に出さないようにしながら、彼女たちの間近な声援に丁寧に応じる。ファンサービスだってお手のものさ。
華やかなメイク、ふんわり香るフローラルな匂い。メリハリのついた肉感的なスタイルに、つい目が釘付けになった。
だらしなく緩む口元にぐっと力を入れ、努めてクールさを繕いつつ、「ファンなんです!」という彼女たちの声に、「今日は見に来てくれてありがとう」とオーソドックスに返して握手を交わす。日頃からハンドケアに抜かりない女性の手は、絹のようにすべすべで心地が良かった。
名残惜しい想いでその手を離すと、すかさず彼女らはオレの両腕にすり寄り、さながら甘えた子猫のように潤んだ瞳でこちらを見上げ、甘ったるい声でこのオレをデートに誘うのだ。
魅力的なお誘いだ。
最初は「さあ、どうしようかな」などとカッコつけるふりをしながら夢魔のような彼女らを焦らし、まあ結果的に流されたわけだ。
彼女たちに誘われて路地裏のバーに入り、散々おだてられて強くもない酒をしこたま飲んだ。それから場所を変えて………………………………最高の時間を過ごした。
――あの夜の酒の味を思い出したせいでもないだろう。あの時以上に気持ちが悪い。吐きそうだ。心臓が痙攣しているみたいにドクドクしているせいか? 酸素が頭に回っていないようだ。治まれ、動悸。
異様に口の中が渇くので、何か飲み物を頼みたいところだが、なるべく他人と接触するのは控えたい。
きっとみんな、オレの顔を知っている。自意識過剰なんかじゃない。
有名マジシャンとしてのオレの顔と、
この世の人間の記憶に刻まれた、ルドヴィヒ・ローエンという男の肩書は、今や後者の方であるのだから。
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