15. 弾丸の行方

「お前……どうしてここに……」


 キティが虫の息で顔を上げる。


 ごつごつと重たいその物体を殺人鬼の急所に突きつけた男の正体は、美童だった。

 明らかな劣勢を目の当たりにして、いてもたってもいられず、護身用のピストルを持って飛び込んできたのだ。


 ルーイは口を閉じ、後ろを振り返ろうとしたが、突き付けられた感触が妙に重く、冷たく、噎せ返るような死の香りを色濃く纏っていたので、それ以上首を動かすことは出来なかった。


「そいつから離れろ。乗客に掛けた幻覚を解け」


 ピストルの先がルーイの命に王手をかけている。

 撃鉄の上がる音。

 引き金に指が掛かる気配がする。


 ハイになっていたのだろう。誰かが車両に入ってくることに気が付かないほどに。

 ルーイの額に薄っすらと汗が浮かび、緊張から呼気が微かに熱を帯びる。頭に昇った血が僅かに下がり、かいた汗がたちまち冷えた。


 ルーイは、無理矢理に唾液を嚥下えんげすると、「撃つのか。オレがこいつを殺すのが先か、お前が引き金を引き絞るのが先か――」


 パァン。

 激しい破裂音が殺人鬼の声をかき消す。

 筒口をずらして虚空へ向けた威嚇射撃は、ぴりついた静寂しじまを引き裂くのに充分だった。満天の星空をそっくりそのまま映し出した雄大な湖面に、一滴の雫が落ちるが如く、対面した景色の一方だけが波紋というノイズに景観を損なわせた。


「次は当てる――」と言いかけた美童の声が、不意に途切れる。

 再び訪れた沈黙が、真冬の冷気のように肌にぴたりと寄り添ってくる気配がして、美童は肌を粟立たせた。


 長く尾を引いた発砲音。鼓膜を激しく揺さぶったその音は、美童の視界に薄い膜をかけるように、刹那の酩酊にも似た浮遊感を与えた。


 放たれた弾丸は穿、床の上に真っ赤な血潮の海を広げていた。


「は?」


 と、間の抜けた声が自分のものだとわかるのに、いくらも時間を要した。

 何度も瞬きをした。目の前の光景が真実であると認識できるようになるまで。それでまたいくらも時間を必要とした。


 自分の手元を見る。そして、キティを見る。交互に。

 手の中のピストルの先からは仄かに硝煙が立ち上り、辺りに火薬の匂いを広げた。


 キティの頭皮を穿ち、頭蓋を砕き、生々しく開いた9ミリ口径の小さな穴。深い深い暗黒へと繋がる小さな穴。それがまるで黒目ばかりの人間の目にも見えて、ぞくりと胸元がざわめくのを感じた。


 まるで、映画でも見ているような心地だった。自分の手元にあるピストルの先から飛び出た弾丸が、キティの頭部を貫いた凄惨なワンシーンが、現実感を酷く希薄きはくにさせた。

 

 ぐわん、と視界が歪む。天と地が逆さまになる。

 ドッと心臓が深く脈打ち、吸い込む酸素の量が足りず息が苦しくなる。

 血を流したキティの姿を見ていると、身の回りにある全ての音が自身から遠退いていって、意識が水中に沈んでいくような感覚に襲われる。


 死んだ?

 死んだ。

 ――僕が撃ち殺した?


 理性が葛藤し、本能が冷静に真実を受け入れようとしている。

 己の手によって一つの命がこの世から失われてしまった恐怖に一気に力が抜け、震える手からピストルが滑り落ち、重たい音を立てて床に転がった。


「キティ……」


 発音できた自信はなかった。まるで、蚊の鳴くような声だったので、自分の耳にも届かないまま、殺伐とした空気が充満した虚空に立ち消えた。


 おかしい。

 脅すつもりで放った一撃は、床の隅へ向けた筈だった。

 ほんの脅しのつもりのピストル。護身用の小さなピストルだ。ジャケットの内ポケットに忍ばせておけるくらいの、小さな……。


 思考が散らかる。灰色の砂嵐を映し出すブラウン管のように、頭の中がめちゃくちゃだ。

 目の前の光景があまりにも凄惨せいさんすぎて、悪夢を見ているような気分になった。


 うつ伏せになったキティの顔はよく見えなかったが、薄く開いた口からは呼気の気配がせず、既に息絶えているとわかる。


 現状を徐々に受け入れつつある一方で、気が付くと美童は、キティを中心にして広がる血潮の端に膝を屈していた。


 キティの亡骸を見つめ、現実という鋭いナイフを胸元へ突きつけられた美童が、現実から身を護るように強く頭を抱えた。「僕が、殺した……?」


 今まで口を噤んでいたルーイが、我が子を慈しむ母親のような口調で言った。


「フフフ、人を殺したのは初めてか? どうだ、怖いか。怖いよな。オレも初めはそうだった。でもそんな感情はやがてなくなったよ。二人、三人と殺していくうちにね。大丈夫さ、そんなに怯えなくても。お前のこともすぐにこいつのところへ連れて行ってやるから」


「こいつは死んじゃいない……!」


 美童は視線を落としたまま、嘘であることを心の底から望んで言った。


「死んじゃいない? 馬鹿言うなって。お前が一番よくわかっているだろう」


 美童は震えながらキティの背中に向かって口を開く。


「起きろ、敵前だぞ」


 その背中はぴくりとも動かない。息もしていないので、呼吸による身体の起伏がなく、さながら生き人形を思わせる異様な恐ろしさがあった。


「起きろ……!」絞り出すような声に対する無言という返事が、美童のひび割れた胸に錆びたナイフを捻じ込む。


「ほらな、死んでるだろ?」


「黙れ!」


 ルーイは笑壺えつぼに入って抜け出せないといった調子で天を仰いだ。


「これが黙っていられるか。ハハハッ! オレの勝ちだ。嬉しくて仕方がない。あの毒の魔法使いを負かしてやった。魔法使いの経歴に箔が着いちまったな」


 美童の首筋に短剣が沿う。キティを刺したあの幻の短剣だ。

 今からピストルを拾ったところで、ナイフの方が美童の頸動脈を切る方が早いに決まっている。死の幻覚を見せられれば、本当に死にはしなくとも、列車の乗客の安否は保証できない。


 美童はピクリとも動かなかった。動けなかった、という方が正しい。反論する気力もない。戦意は喪失された。気に食わない相手ではあったが、そいつを自分の手で殺してしまった。

 夜空を写したような藍色の双眸からは、あきらめの境地に達した者特有の一切の光が排斥されていた。


「よかったよ。お前たちがオレを見くびっていてくれて。本気を出すまでもない、と侮ってくれていて。結果として、最後に笑うのはこのオレなんだからな」


「……」


「死ぬのが怖い? 幻覚と言えど、本当に死んじまいそうで怖い? でも万人の終着地点は等しく〈死〉だぜ」


 美童は俯いたまま、口を縫い付けられてしまったように緘黙かんもくしたままだ。そんな様子が殺人鬼を更に愉悦へと導いた。


「さようならだな、魔法使い」


 冷たい刃先が頸動脈の上に押し付けられる。

 ハハハハハハ……無情な笑声が地獄のような空間に木霊する中、地を這うような第三者の声がそれを遮った。


「美童、てめえ、この野郎」


 殺人鬼の高笑いがぴたりと止む。いきなり電池を抜かれたからくりピエロのように、彼の顔は笑顔のまま、声だけを奪われた。


 束の間、訪れた沈黙は、列車の揺れるゴトゴトいう音に支配された。車窓を流れる景観以外のものから時の流れというものを排斥された車内で、それからたっぷり二呼吸、その場にいた誰もが口を開くことはなかった。


 ルーイの視線が声の主へ向く。美童――の声ではない。

 血海に沈んだ遺体――うつ伏せになったキティの背中が、もぞもぞと動いた。


「お前、今、


 何事もなかったように起き上がったキティが、美童をねめつけながら不機嫌な声を上げた。それと同時に、床に広がっていた血の海は跡形もなく消え、振り返ったキティの顔からも弾丸に穿たれたときに汚れていたであろう血の一滴までもが、綺麗になくなっていた。


 車内は血もなく、燃え盛る炎もなく、事件が起こる前のいたって平和な風景に戻っている。

 この瞬間、地獄と化した夜行列車にかけられたすべての幻覚は解除されたのだ。


 キティは深いため息とともに立ち上がり、ルーイへと向き直る。その顔には、不遜な笑みが張り付いていた。

 殺人鬼は息を呑んだ。


「お前、何故、生きている……」

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