14. 劣勢
連結扉に
キティの薬学を用いた幻覚は、彼の指先から流れ出る色の付いた
キティの幻覚が、粉末を吸い込むことで発動するという条件であるならば、ルーイのそれは、展開された幻覚がリアルであると思わせた者の大半にその瞬間から作用する。当たり前だが、ルーイの幻覚には劣るのがキティのそれだ。
美童は薬を吸い込む前にこの車両に移動したので、あの見事な火柱の炎舞はお目にかかれなかった。故に、一度優勢に立ったと思しきキティが、不意にルーイに背を取られ、あっという間に劣勢を強いられた時は、思わず乗り込んでしまおうかと逡巡したほどだった。
そうしなかったのは、目の前の窓を開けることでキティの魔法薬がこちらへまで流れ出し、他の乗客を彼の幻覚に巻き込んでしまう可能性があったからだ。これ以上、周囲の人間を不安にさせるべきではない。
とは言っても、ほとんどの人間は最前の車両まで逃げてしまったので、ここには美童とテオとクラレンスしかいない。
――何をやってんだ、あいつ。本当に死んじまうぞ。
いがみ合っていた二人だが、こうなっては相手の身を案じないではいられないのが人情だ。美童は肩越しに小さく背中を振り返った。
テオとクラレンスは座席の中で身を寄せ合って小さくなっている。
よかった。純朴な美しい兄弟にこの光景を見せるのは胸が痛む。
きっとこれも幻覚だ。ルーイが手にした剣でキティの背中を貫くこの光景も。
幻覚だ、きっと幻覚だ。力なく跪いたキティの服を重たく濡らす
けれど、背中を貫かれた大男の喉から迸った大気を揺らす絶叫が、その想いを打ち消すかのように
「大丈夫なのか、本当に……」
美童が
――いざというときは……。
美童は、手の中に握られた小さな包み紙を見下ろし、弱々しくため息を吐いた。
・
・
・
キティは口から血泡を零しながら、ぐっと膝に力を入れて立ち上がる。思わず揺らめいて、傍にあった背もたれに掴まると、膝にポタポタと重たい水が滴る。
否、水ではなく血だ。荒い息を吐き出すために開いた口の中から、ねばねばと糸を引いて零れ落ちる。
リアルな感覚だ。膝頭に滴る液体の重たさや、生暖かく濡れる感触が。口内を満たした鉄の味。
幻覚を幻覚と思わせない現実みを帯びた光景に、キティは完全に己を失いそうな不安感に陥った。
器官をせり上がってきた熱い塊をゲホッと吐き出すと、まるで血に塗れた肉片のようなものが足元に落ちた。ただの血の塊であったが、吐き出してはいけないものを吐き出してしまったように思えて、柄にもなくゾッと背筋が震えた。たちまち、一気に身体から体温が奪われてゆくのを実感し、眉間に深く皺が寄る。
頭の奥がずうんと重くなり、熱に充てられた時のようにじわじわと目の前が暗転する。もはや立っていることさえ難儀だったが、キティはなけなしの気力を振り絞り、震える膝を
「う……」
苦し気な呻き声をかき消すように、ルーイが高らかに笑う。
「まだ立つ気か。このオレに挑むか! 熱い男だな、毒の魔法使い。しかし残念だ。お前に勝ち目はないぜ。既にお前はオレの術中にある。抜け出すことなどできはしないんだ。さあ、どうしたものか、キティ・シャ・ソヴァージュ。次に、オレはお前に何をすると思う」
「……?」
キティは自分の手に違和感を抱いて、ふと視線を落とす。その瞬間、またしても毒の魔法使いの喉から狂気に囚われた悲鳴が迸る。
「なん……ッ、ぎゃあああああああ!」
見下ろした両の掌が溶けていた。
溶けた手で誘拐した肉体を掬いあげようとする傍から、皮膚や骨までもがどろどろと床に滴り落ちてゆく。網目の大きな笊で水を汲むような徒労が、キティの焦燥感を掻き立てた。
精神的ショックからか、視界全体をちかちかと火花が散るのが見えた。後頭部を思いきり殴られたような眩暈と、傷口から急激に血液が失われてゆくことで意識が完全に離脱しようとしている。
溶ける身体。
出血多量。
毒の魔法使いの脳裏に「死」の文字が躍る。
「そのままどんどん溶けるぞ。お前という存在がこの世から失われようとしている」
膝関節がぐにゃりと歪み、自重を支え切れず、どしゃりと
全身から力が抜け、今度こそ完全にうつ伏せに倒れる。
幻覚だ。全てすべて、幻覚だ。
わかっていても、頭のどこかで「もしかしたら……」という恐怖が拭えない。もしかしたら……自分の身に起こっているのは幻覚などではなく、現実なのではないか?
「……、………………、……」
キティの口から弱々しい声が漏れる。吐息のように掠れていて、音として成り立たぬほどに微かな声。
「恨みの言葉か。それとも、命乞いの言葉かな。どちらにしろ、もう少し大きな声でしゃべってくれないと聞こえないけど」
ルーイはくくく、と喉で笑いながら、あばらが浮くような深い呼吸を繰り返すキティの耳元に屈みこんで口を寄せる。
「もしもさ、今オレがお前に《死》の幻覚を見せたとしたら、お前は一体どうなってしまうだろうな。本当に死んじまうか、毒の魔法使い。試してみようぜ。人間の行きつく先を見てみたいと思うだろう?」
殺人鬼は、自分の声が自分のものでないような違和感を抱きながら、同様に胸を満たす快楽に突き動かされるままにしゃべり続けた。
キティは雑音交じりの息を激しく繰り返す。
ようやく優位に立てたのが気持ちよくて、ルーイはその瞬間まで自分の背後に第三者が迫っていることに気が付いていなかった。
「死ぬのはお前だ、殺人鬼」
頭頂部に刺さる固い感触。
アドレナリンの分泌が過剰になっていたルーイは、警戒した猫のように瞳孔を開いて、口を噤んだ。
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