13. 熱風
列車は相も変わらず、一定の走行音を奏でながら、虚構の世界をループしている。
さして広くもない通路で向かい合った毒の魔法使いと稀代の殺人鬼は、因縁の相手との
レールの上を滑る合戦場と化した列車には、そこにいるだけで肌がピリつくような緊張感があった。息をするのさえ憚られる。対峙したままの両者も、まるで彫像のように身動ぎ一つしない。
そんな刃物めいた沈黙を破るように、キティが静かに口を開く。
「最終確認だ。自首するつもりは?」
「あるわけねえだろ。全員殺してでもオレは逃げ切ってやる」
ルーイは、目の縁を興奮に染め上げながら、歯を剥き出しにして吠えた。さすがメディアに引っ張りだこだった著名人なだけあって、歯並びは良いし、ホワイトニングも抜かりない真っ白な歯がお披露目される。
相手はすっかり冷静さを欠いてしまっていた。ギリギリを保っていた理性の糸が断ち切れた狂人は、自身が傷つこうが他者が死のうが関係ない。既に人間が到達してはならぬ領域まで来てしまった。もう、彼を止めることは出来ない。
キティは諦めたように息を吐き、すっと目を細めると、ルーイの注意の外で右手の親指と人差し指を小さく擦り合わせた。
その刹那、ルーイの鼻腔を焦げ臭い匂いが突いた。危険を察知して身を庇おうとしたキティの足元から、巨大な火柱が上がったのはその時だった。
「ぎゃああ!」
火柱は大きく
座席や窓枠が真っ赤な炎に包まれ、森閑とした大自然の景色とのコントラストが恐ろしく際立つ。
車内の薄闇は瞬く間に駆逐され、さながら、この世に存在しえない幻の恒星――太陽がもたらす《朝》のような光が溢れた。薄闇に生きる者の目を焼くような光の洪水と、猛烈な熱波が殺人鬼に襲い掛かる。
「うわあああああああ! やめろ!」
ルーイは喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げ、炎から逃れようと、物凄い速さで上着を脱いで暴れまわった。だがその
赤い中に
燃え盛る炎の中から時折ちらつく人間の手が、神に救いを求めるかのように虚空を掴む様が妙に痛々しく、彼には愉快でたまらなかった。
静寂を打ち壊す大炎上は、たちまち世界を地獄へと変貌させた。地獄の中心に立つキティは、大罪を犯した亡者に罰を与える番人の如く、冷徹な目で巨大な赤い眷属の揺らめきを見つめていた。
哀れな殺人鬼の悲痛な叫びはそれからもしばらく続いていたが、鉄をも溶かす灼熱の炎が罪深い愚か者を完全に抱き込むと、それもやがて途絶えた。
随分と呆気ない幕引きじゃないか、とキティは拍子抜けして肩を竦める。
「おーい、本当に死ぬんじゃねえぞ。これはただの幻覚なんだから」
キティは無骨な指を軟体動物のようにくねくねと躍らせた。少しかさついた指の先から、さらさらと朱色の粒子が噴き出ている。
キティは魔法の他に、薬草・毒草を組み合わせ、人の脳に幻覚を視せる技を独学で習得した。
これは彼の趣味のようなもだ。
きっかけは自身でも憶えていない。ただ、薬草と言う名の持つアンダーグラウンドな響きと、創造性豊かなクリエイティブさにいつしか夢中になっていた。
仕事の合間に珍しい薬草たちを採取し、仕事がない日は来る日も来る日も研究室にこもり、時を忘れて実験に没頭した。
採取した薬草・毒草を専用の部屋で乾燥させ、
幻覚作用のあるもの、鎮痛剤、睡眠薬、解熱剤、ビタミン剤、サプリメント……エトセトラ。やがてはそれを求めて彼の元を訪れる常連客も現れるほどだ。
マグノリアでは、魔法使いが医者の役割も果たす。医療専門の魔法使いも多くいる中、キティもある程度の顧客を獲得した、立派な〈ドクター〉なのである。
そういった経緯の末、彼はいつしか《毒の魔法使い》という二つ名で呼ばれるようになった。
今、キティの指先から流れ出ていた朱色の粉は、炎にまつわる幻覚を見せる。海岸近くの洞窟に生息する【リリス・ベール】の花と、その辺の道端にも生っている【ヒノメノサイリ】の葉がとても相性がよく、より鮮明な炎を幻覚で生み出すことが可能だ。
「熱いだろう、苦しいだろう。魔法を伴った本物の幻覚とはこういうものだ」
キティは
視界の先にいたルーイが、ほんの一刹那瞬きをした瞬間に、彼を包み込んでいた炎ごと掻き消えていたのだ。
頭の中を、警鐘がけたたましい音を立てて鳴り響く。何が起こっているのかを一瞬で理解することが出来ず、不覚にもこの瞬間の毒の魔法使いには、明らかな隙が生じていた。
「おい」
……と、誰もいないはずの背後から重たい声が放たれ、キティは僅かに喉を上下させた。
おかしい。
俺の背後には誰もいないはずだ。
クラレンスとテオは、美童と一緒に前の車両へと避難している。
だが、目の前で炎に包まれて蹲っていたはずのルーイが、いない。
いつの間に……いつの間に、主導権を奪われた……?
キティは振り返ることが出来なかった。
車内が炎に覆われている。これは彼の幻覚がルーイの幻術を打ち破り、この場の主導権をキティが手にしているのと同義だった。……だったのだが。
その時、とすっ、と背中から胸にかけて、何かが抜けるような感覚があった。
ふと、視界の下方を銀色が光るのが見えて――その瞬間に、座席や天井を焼いていた炎がふっと消える。辺りは再び、宵闇に包まれた。
キティはゆっくりと視線を自分の胸元へ落とした。
短剣だ。
短剣に胸を貫かれていた。
背中から胸を突き破った銀の刃先が、真っ赤な血に濡れて鈍く光る。
「お前……、何故……」
開いた口から血泡が溢れ、咳と共に床を赤黒く濡らす。
これは幻覚だ。この胸を貫く剣も、痛みも、吐いた血潮も、実際には存在しない。わかっている。そんなことなど理解しているのだが、解せぬことが一つある。
――マジかよ……
キティの口からねばついた血と共に、ビー玉大の赤い玉が落ちた。それはカツンと音を立てて床の上を転がって、隅の座席の下へ姿を消した。
あの飴玉には、他者の幻覚から己を
「ルーイ……、お前……!」
キティは
「アハハハ!」
殺人鬼は理性を失った化け物の如くケタケタ笑う。
「今、お前が焼いたオレは本物じゃない。幻だ。お前は幻を焼き払っただけだ。先程お前に奪われた主導権を、すぐさまオレが取り返していたことに気付かなかったのか!」
殺人鬼は形勢逆転を高らかに謳う。
「〈幻覚〉はオレの魂に刻まれた術だ。オレこそが幻術を司る長! 薬学で培った
「……」
キティは、幻覚とは思えないリアルな痛みに意識を揺さぶられながら、
「流石だ、幻術の申し子……」
剣が引き抜かれる。胸の辺りから冷たい喪失感が広がって、たちまち全身から力が抜けた。
傷口から血が止まらない。否、これは幻だ。流血も傷も、現実には存在しない。それなのに、……息が出来ない。まるで、
「ぐ……うう……」
キティは必死に繋ぎ止めていた意識が指先からすり抜けてゆくのを感じ、成す術なくその場へ倒れる他なかった。
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