魔法使い美童

1. ケルシュの魔法使い〈1〉

 ケルシュ国

 第17地区 星の音色通り 572-24

 トラオムビルA03-2

 魔法使い・遊馬美童あすまびどう


 テオ・ファンフリートは、ノートの切れ端にメモした住所を確認しながら、快晴の夜空の下を歩いていた。


《星の音色通り》は17地区の中央を突っ切る形で大きな商店街をいだき、白い石畳の大通りを挟む形で二、三階建ての小洒落た雑居ビルが立ち並ぶ。一階部分に店を構え、その上にビルの所有者が住んだり、空いた部屋を貸し出したりしているような雰囲気だ。


 駅まで徒歩十五分。バス停もそこここに点在し、移動の際の交通網は申し分ない。

 首都・ルノウまでは約一時間半。郊外きっての人気町だ。


 今の時刻は人間の活動時間内。休日のせいか、人通りが多い。

 一年を通して夜明けの存在しないこの世界には、時刻以外に時の流れを目視させる情報が少ない。

 それに加え、一年中寒く、特に今の時期はことさら冷える日が続いている。行き交う人は皆、防寒具に顎をうずめて足早に去って行った。いくら寒い世界に生きていて耐性があるとはいえ、寒さに晒されれば冷えるし、火にあたれば温まる。マグノリア人の家には暖炉の炎が爆ぜる音が一年を通して響いていた。


「ここか」


 テオは手元のメモと掲示板に記された住所を見比べながら、目の前の白い建物を見上げた。ビル……というよりかは、二階建てのシンプルな豪邸と言った風情だ。一階ではオリエンタルな商品を並べた雑貨屋が居を構えている。

 ここに、テオが約束を取り付けた魔法使いが住んでいるらしい。


 テオはメモをズボンのポケットに捻じ込むと、建物の壁に沿うように伸びたトタンの階段を上がった。所々にさびの浮いたストリップ階段は、横板の隙間から下が見えるのが怖くて苦手だ。

 カンカンカンと高い音を立てて登っていくと、正面には茶色い木製の扉が待ち構えていた。端にはゴシックなデザインの黒い傘立てがあり、柄の部分に高級感のある彫り物が施された傘が二本立っていた。傍らの表札には白地に金の箔押しで《遊馬あすま》とある。


 テオは緊張をほぐすように胸に手を当てて深呼吸をしてから、ボタン式の呼び鈴を控えめに押した。軽やかなベルの音が扉の向こうから小さく聞こえる。


 ……沈黙。誰もいないのか、物音ひとつしない。もう一度鳴らしてみても同じだった。


「あれ?」


 留守かな、と思う間があったのち、ようやく中からどたどたと慌ただしい足音が迫って来て、がちゃとドアが細く押し開かれる。


「はい……?」


 わずかな隙間から用心深く姿を覗かせたのは、酷く野暮やぼったい印象の大男だった。年の頃は三十代前半あたりか。つたのように捻くれた癖の強い髪と、ずり落ちた丸メガネが気弱そうな印象を漂わせるが、小柄なテオに覆いかぶさるようなひょろりと伸びた上背が妙に迫力がある。扉にかかった白い指は肉付きが悪く、ごつごつと関節が目立った。

 濃い隈の浮いた目元が、視界の下方に客人の姿を認めると、疲労が滲んだ顔に人の良さそうな微笑を浮かべて、「いらっしゃい……」と扉を大きく開いてテオを招き入れた。


「こんにちは」テオは乾いた唇をしきりに舐め、ぺこりと首を落とす。「あの……美童さんと約束をしてて……」


「寒い中よくいらしてくださいました。さ、どうぞ」


「お邪魔します」


 テオは玄関で靴を脱ぐよう言われ、来客用のスリッパを勧められる。マグノリアでは家の中で靴を脱ぐ習慣はどちらかと言うと少ない。

 マグノリア人のルーツは、半数以上が西洋の生まれなので、ファンフリート家でも土禁文化は根付いていなかった。 


 豪奢ごうしゃな金の額縁の中に嵌め込まれたルノワールの複製や、綺麗に磨き上げられた白い大理石、真鍮しんちゅうの花瓶に活けた青い薔薇のドライフラワーなど、玄関を飾るインテリアは西洋風でありながら、この家に定められたルールは日本風だ。

 家主の彼はスリッパも履かず、ろうのように白い素足が、埋まるように分厚い絨毯の上を歩いている。


 廊下には左右の壁に三つずつ扉があり、その一つ一つにドイツ語でプレートが掛かっている。ゲストルーム、バスルーム、書庫、リビング……。


「こちらへどうぞ」と、一番奥の部屋に案内される。


「あの……」テオは周囲を興味深く見渡しながら言う。「あなたが美童さん?」


「いえ、俺は兄です。遊馬宵一あすまよいち。あいつは今、外で用事を済ませていますが、じきに戻ると思いますよ」


 宵一は部屋の中へテオを通し、応接セットへ勧めた。


「まったく、あいつは……お客さんが来る時間だっていうのに」


 暖炉に薪を放り込みながら、宵一が呆れたように独り言をこぼす。


「お気になさらないでください。ぼくの方から御用を持ちかけてしまいましたので」


 過剰に鯱張しゃちほこばった口調に、宵一は「それがあいつの仕事ですから」と謙遜を重ねながら、コーヒーを淹れるために部屋を出た。


 広い部屋に取り残されたテオは、応接ソファに浅く腰掛けながら部屋の中を興奮気味に見渡す。


 豪華な部屋だな、というのが印象だった。外観から見るよりも広々としていて、天井がやけに遠いところにある。夜色の壁紙は滑らかで品があり、棚や机といった家具類も全体的にくらめな色で揃えられている。どれもが高価そうな本格アンティーク。目の前のローテーブルの縁に彫り込まれた百合ゆりの花の飾りも上品だ。


 大きな本棚が二つほど壁際にあり、そこだけがやや乱雑に本が詰め込まれていた。重厚なインテリアの中でもひときわ目を引くのが、窓際に置かれたグランドピアノ。これだけ大きなものを置いているにもかかわらず、部屋には圧迫感というものが一切なく、素敵すぎるが故に用もないのに訪ねたくなってしまうような内装だった。


 海の底を思わせるネイビーの絨毯に爪先が沈んで温かい。贅沢な雑魚寝が出来るくらいにふかふかだ。暖炉の中で気が爆ぜる音も、外気に冷えたテオの身体を芯から温めた。


 しばらくして、宵一が盆の上の茶器を鳴らしながら戻ってきた。


「寒かったでしょう。温かいコーヒーを入れたのでいくらでもお代わりしてくださいね」


「すみません、どうぞお構いなく」


 テオは中腰になりながら、ふらふらと覚束ない足取りの家主から、盆を受け取る。宵一は「ああ、すみません」と苦笑しながら、ぺこぺこと頭を下げる。どちらが客かわからない。


 殺風景だったローテーブルの上が茶会の様相に早変わりすると、宵一は満足そうにテオの向かい側にどっと長身を沈めた。


「淹れてから言うのもあれですけど、コーヒー大丈夫でした? 生憎、お出しできるものといえばこれくらいしかなくて」


 宵一はメガネの弦を触りながら、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「コーヒー大好きです。ありがとうございます」


 とは言ったものの、ミルクと砂糖をある程度加えないと飲めない。

 テオは角砂糖を二つ、ミルクピッチャーのミルクを半分ほど注いで、柄尻えじりにリボン型のチャームがついたティースプーンでくるくるとかき混ぜる。


「遠くからいらしたんですか?」


 宵一も自分のカップにぱちゃぱちゃと角砂糖を投入しながら、伏し目がちに訊ねた。


「いえ、さほど。プラトーから来ました。12地区ですので、列車で四十分ほどです。駅からは歩いてきました」


「ああ、プラトー。俺の友人がそこでお店を出しているんですよ。宝石商でしてね。きれーな人なんですけど、少し……雰囲気、というか性格が一癖も二癖もあって」


 プラトーの宝石商。その人物はテオも知っている。プラトーを代表する魔法使いで、確かに曲者の風格が漂う男だという噂だ。

 宝石に手を出せる年齢でもないし、ましてや相手は全世界に名が知れた有名人。直接会ったことはないが、彼の店には煌びやかな宝石に負けず劣らずのセレブが大勢通っている。

 そんな有名人と友人ということらしいが、この冴えない大男はいったい何者なのだろう。


 と、その時、玄関の方から人の気配がした。


「お、帰ってきたようです」


 宵一がソーサーにカップを戻すと、一人の男が焦った様子で部屋に駆け込んできた。

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