常夜の国のマグノリア―世界の果てを駆け抜けろ―

駿河 明喜吉

Prologue.

Prologue. ファンフリート家の兄弟 〈1〉

 使い古した彫刻刀で木の板をる。ぼくはその感触がたまらなく好きだ。

 V字型にエッジの利いた刃先が、十五センチ四方の板の表面を薄くけずる音。ざりざりとかごりごりとか、その辺の音を混ぜ合わせたような、すぐにそれとわかる音を聴いていると心が安らぐ。


 作業机の上が木屑に埋もれるのも、すすに汚れたランプの中で揺れる炎も、ボリュームを絞ったラジオから聴こえる声劇も、全てぼくの大好きなもの。


 静穏せいおんな世界にたった一人取り残されたような孤独感を、スピーカーから聴こえる声が救ってくれる。この人たちの声は、どんなに荒くれたセリフだって心地の良い音色となってぼくの耳を癒す。


 ふと顔を上げると、机の正面のコルクボードに乱雑に張り付けたA5サイズの紙が二枚目につく。鉛筆で描かれた正方形の図案が二種類。ぼくがベッドの上でうんうん唸りながらデザインしたものだ。


 右の図案にはつたが絡み合った模様――アカントス模様。西洋家具の装飾をイメージしたデザインで、左の四角はオリエンタルなアラベスク。涼しげな青とそれに映える星屑の色を差し色で散りばめて、自分の頭の中にあるイメージを色鉛筆で大まかに着色してみたものの、ぼくはあまり絵に色を付けるのが得意ではない。


 絵を描くにしても、下書きまでは納得のできる作品が描けても、いざ色を塗った途端に下手になったように見えてしまう。そういう人、少なくないと思うな。だから正直、左の図案は気に食わない。


 色彩感覚は生まれ持ったものなのだろうか。だとしたらぼくは、自分の作品に色を与えることを一生躊躇う。

 モノクロの世界を、いかに陰影だけで再現できるかの挑戦になりそうだ。それはそれで、ノスタルジィで良い。


 ぼくは再び机の上に視線を落とすと、板に描いた曲線の上を浅く浅く彫り進めた。

 パジャマの上に羽織ったキルティングのガウンの襟元を時折掻き合わせながら、明けやらぬ夜のもとで、自分だけの時間がもたらす至福を享受していた。

 間もなく、夜の世界はさらなる闇へと閉ざされる。


 ――コンコン。


 その時、部屋の扉がノックされた。

 作業に集中しすぎて無意識のうちに前傾姿勢になっていた背中が即座に伸び、同時に、没頭していた自分の世界から我に返るや否や、意図せずげんなりする。


 この叩き方はルカ兄さんだな。僕の一つ年上の兄。いつもみたいにかったるそうな顔して扉の前に立っているに違いないと思うと、返事をするのが酷く億劫おっくうになる。

 あの冷えた視線を向けられると、何も悪いことなんてしていないのに一方的に攻められている気分になるから憂鬱だ。真正面から向き合って会話したくないとすら思う。……とはいえ、黙っているわけにもいかない。早く出ないとさらに機嫌を悪くさせてしまう。


 別に鍵なんてかけてないんだから勝手に開ければいいのに、ルカ兄さんはいつもぼくが開けるのを待っている。仕方なく彫刻刀を置いて立ち上がると、「はい」と返事をしてドアを開けた。


 やっぱりルカ兄さんだった。唇をへの字に下げ、お人形さんみたいなくりくりお目目には何故だか輝きが少ない。歳なんて僕と一つしか変わらないのに、まるで世界の不条理さに悟りを開いたひねくれ者みたいな目をしている。


 弟のぼくが言うことではないのだろうけど、小生意気な印象が拭いきれない。そんな目で他人ひとを見ちゃだめだろう。相手が悪ければ柄の悪い人たちに因縁つけられるぞ。――と、そんな心の内を相手に悟られないように「どうしたの」と訊ねる。

 何時間も黙って作業に集中していたせいで、久方ぶりに発した声はかわいて、少しかすれていた。


「父さんがリビングに集まれって。みんなもう待ってるんだから早くしなよ」


 必要以上に角が目立つ物言いで一方的に言い捨てたルカ兄さんは、早々に踵を返して先にリビングへ姿を消す。


 どうもルカ兄さんは苦手だ。ぼくには上に四人兄がいるけれど、その中でも一番扱いづらい。他者に対する情も薄く、誰を前にしても冷めた態度を崩さない。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、いつも多くを口にせず、あの見下ろすような目で「察しろ」と訴える。


 昔からあんな感じだったけど、ぼくはあの目に見られると、僅かな腹立たしさを抱くと同時に、逆らうのが妙に億劫になって、結局口を噤んでしまう。勇気を出して反発したところで、言ったことの二倍三倍にも言い返される。情けないことに口喧嘩での勝ち目はなく、結局嫌な気分になるのだから大人しく閉口するしかないのだ。


「はあ……」


 リビングに集められる理由なんて、どうせまただろう。もう何度目だ。同じようなやり取りの繰り返しでうんざりしてくる。


 ぼくはラジオの電源を乱暴に切ると、ランプの炎を吹き消して自室を後にした。

 気が重いままリビングに入ると兄さんの言った通り、他の兄弟たちがテーブルを囲んで座っていた。父さんは今席を外しているらしく、ここにはいなかった。

 ぼくが空いている場所に座ると、暖炉の炎が爆ぜる音の中で細々と続けられていた会話が止み、兄たちの視線が一斉にこちらを向く。


「遅いよ、テオ」

「父さんがこの時間に集まれって言ったろ」


 隣り合って座ったヤン兄さんとフィン兄さんが全く同じ顔でぼくを咎める。一卵性双生児は、声から口の利き方から何もかも同じだ。ルカ兄さんが無口な代わりに、我が家ではこの二人が特段、口うるさい。


「ごめん」ぼくは不貞腐れてそう言う。


「さあ、話の続きしようよ兄貴」


 フィン兄さんが身を乗り出して、焦れたように言う。

 全員の視線がぼくに――否、ぼくの隣に座った長兄に向いた。


 ――兄貴。ぼくらファンフリート家の長子、クラレンス兄さんが「うん」と頷く。


 しっかり者で、学校での評判も折り紙付きの優等生。文武両道、容姿端麗を絵に描いたような人間で、噂ではその利発そうな細面は同級生だけでなく、下級の女生徒からも人気の的となっているらしい。

 ぼくとは似ても似つかない。悲しいほどに真逆なぼくら。時折ぼくとクラレンス兄さんに血の繋がりなんてないんじゃないかと思ってしまう。


 クラレンス兄さんはテーブルに腕を乗せて、みんなを見渡す。


「今日こそは決めよう。ファンフリート家の家督を継ぐ者、ならびに、このの継承者を」


 ぼくたち五人兄弟を幾日にもわたり縛り付ける議題。それは、我がファンフリート家に代々伝わる《魔法の書》の継承者を選ぶことだった。

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