11. 美しき幻想の車窓

 最後車両の乗客たちは車内のパニックにばかり気を取られ、窓の外の異変には気付かないばかりか、悪名高き《血染めのルーイ》によってもたらされた動揺の渦中にあった。


 あまりのことに半狂乱に陥りかけている者もいる中、キティはそんな彼らを諫めるかのように、まあまあと顔の横で手をひらつかせた。ボックス席に滑り込んで、ルーイの正面にどっと腰を下ろすと、


「つか、こんなところで何やってんだ。国外にでも逃げるつもり? ナランナまで行っちまえば、とりあえずは逃げ勝ちだもんな」


 小馬鹿にしたような口上に、ルーイは激しく舌を打つ。不愉快さを隠そうともしない明け透けな態度に、魔法使いはハハハ、と小さく笑いを漏らした。


「オレをどうしようってんだ」深く俯いて、言う。大勢の前に出るときはいつも綺麗にセットされていた頭髪も、今は乱れに乱れ、みすぼらしさに拍車をかける。


「そう熱くなるなって」


 キティはリラックスしたように背もたれに寄り掛かると、「これ、お前の仕業だろ」と窓の外を指さす。

 パノラマ写真に閉じ込められた車窓の風景。何度も何度も同じ風景を繰り返す、虚構の世界が映し出されている。


「だからなんだ」と、ルーイは顎先の汗を拭う。


「幻術の申し子をのたまっておきながら、俺ごときに見破られてちゃ、世話ないと思うね」


「……」


 ルーイは込み上げる逆上を噛み殺しながら、キティを睨みつけた。

 ふふふ、と静かに笑う毒の魔法使い。どんな感情によって引き出された笑みなのかはわからないが、このような笑い方をすると、粗野な見た目と同居する、内面的な気品の良さが垣間見えたような気がした。


 周囲のざわめきがにわかに大きくなる。

 やがては他の車両にも、ここで起こっている混乱は伝播することだろう。乗客が少数でよかった。座席が全て埋まるような路線だったら、あっという間に恐慌状態に陥り、押し合いへし合いの大混乱となっていたところだろう。


「随分余裕だな、毒の魔法使い。お前は今、オレの幻覚に囚われている。お前だけじゃない、ここの乗客たちはみんな、オレの術中にある」


「無関係な人間を巻き込んでまですることかよ」


 ルーイは俯けていた顔を上げる。


「オレだって別にここまで大勢を巻き込むつもりはなかったさ。一人でどこかに身を隠している方がずっと安心だ。でも、ケーサツから逃げるのに必死で、つい人のいるところに隠れたくなったんだよ」


 ルーイは子どもじみた言い訳を並べ立てると、深い悔恨かいこんに沈み込むように、両腕で頭を抱えた。見かねたキティは、一筋縄ではいかない恋に身を焦がす親友にするように、ふうと浅く息をく。


「これ以上罪を重ねる必要もないと思うが?」


 暗黒を背負った双肩そうけんを励ますようにぽんぽんと叩く。と思いきや、またも彼は、殺人鬼の突かれたくない弱点をここぞとばかりに意地悪く突いた。


「いいか、よく聞け、人殺し。お前さんはこの列車に乗り込んだ時点で完全に詰んでる。自ら退路を断ったのさ。列車ごと幻覚で消して見せたところで、いつまでも異変に気付かない人間などいるはずがないだろう。じきに国の偉い魔法使いがお前の稚拙ちせつな幻術を壊しに来る。そうなったら、高名な天才マジシャンも《殺人罪》だけに留まらず、長きの逃走の末に大勢の乗客を人質に取ったというセンセーショナルなニュースが全世界に報道される。罪はなお重くなる。世にも恐ろしい犯罪者として名を残すことになるぜ。罪の数は少ないに限る、そうだろ?」


 今回の殺人鬼ルーイの事件は、発生から既に半月が経っている。計画性もなく、現場に残された凶器と、ルーイの私物についた指紋は決定的な証拠となった。だが衝動的と見られる犯行にも関わらず、現場から逃走した彼の足取りを一向に掴めなかった警察組織に業を煮やしたたちは、首都・ルノウの王室仕えの魔法使いたちを中心に競い合うかのようにルーイの捜索に血眼になっていた。……という状況になったのが、今から二日前である。


 いかなる強運が殺人鬼を味方したのか、世界有数の魔法使いを相手に二日間も逃げおおせることが出来る人間はそういないだろう。


 な説得を試みるキティに自嘲の笑みを漏らしたルーイは、青白い顔を上げて弱々しく口を開く。


「お前……オレが何人殺したか知ってんだろ? 八人だ、八人も殺した。その時点でオレの罪はこの世で一番重い。捕まれば死ぬ。処刑される。投降したところで、軽減される罪などありはしない」


「……はあ?」


 キティは、この世の【最悪】を具現化した人間を見るような目で、殺人鬼を睥睨へいげいした。


「なんだよ、死ぬのが怖いだけかよ。いい歳してワガママも大概にしろ。お前は餓鬼みてえに癇癪かんしゃく起こした挙句、八人の命を手にかけた。その代償がお前に課せられた罰だ、死だ。むしろ安いくらいだろ。八人の尊い命の対価をお前の薄汚れた魂一つで清算できるんだからな。死んだ彼女たちも、あの世で割に合わぬ結末にごうを煮やしていることだろう。可哀そうにな。もしお前に彼女たちに対する贖罪しょくざいの気持ちがあるのなら、あと十回くらいは死んでおけよ。それでもまだ足りないくらいだ」


 苛烈かれついきどおりに染まった殺人鬼の双眸が、キティに噛みつくように光った。「他人事だと思って楽しんでいるんだろう」という批難の声が聞こえてくるような気がして、キティはにやりと唇に弧を描く。


「まだワガママ言うか?」


 ルーイは、狂人の表情でキティに挑みかかった。


「軽口を叩いていられるのも今のうちだぞ。オレにはもう失うものはない。恐れるものもない。何人殺したって同じなんだ。お前だって殺せる。ここにいる乗客たちもだ」


 周囲から息を呑む声が聞こえる。

 キティはたちまち軽薄な微笑を引っ込めると、「優しく言ってやってんのがわかんねえクソガキがよ」と地を這うような声で吐き捨てた。


 その瞬間、殺人鬼の背中に冷たいものが走った。氷の女王に、皮膚の上から脊椎をなぞられるような感覚。車内の空気が一気に氷点下を回り、殺人鬼だけでなく、その場にいた誰もが、急激な肌寒さを覚えた。


 目の前の男が纏う気さくな空気がガラリと変質し、さながら地獄の遥か下層にうずくまる死のような冷たさが漂う。


 落ち着け、恐れるな。利は未だこちらにある。

 ルーイは乾いた喉を上下させて、己に言い聞かせる。


 ルーイの幻覚は、相手(非術者)に現実リアルと思わせたら勝ちだ。

 非術者が囚われた幻術のおりから脱するには、術者以上の実力を持つか、術を解くだけの強靭きょうじんな精神を必要とされる。前者はともかく、後者で幻覚を打ち破れる者がそう何人もいるとは思えない。

 それでもキティは焦ったような風でもなく、軽薄な顔に強気な笑みを蘇らせて、言う。


「己の寿命をたっとぶのは勝手だが、俺らの邪魔はしないでもらいたかったな。こっちは今、大事な仕事の最中だ。依頼人から金を貰っている。決して安くはない。なんとしても依頼主の願いを叶えてやらなきゃいけない。それが魔法使いの仕事だ。魔法で食い扶持ぶちまかなっていたお前にもわかるだろう?」


 不意にキティは左手を掲げ、ぱちんと指を鳴らした。

 車両の外で、地響きを伴った激しい爆発音が轟いたのはその時だった。


「きゃああああああ!!!」


 乗客たちの中から裂帛れっぱくの悲鳴が上がる。轟音の反対側に逃げるべくばたばたと床を踏み鳴らした彼らは、誰か一人が冷静さを失った瞬間に、前の車両へ続く連結扉へ一斉に飛びついた。


 ルーイはぎょっとして、音の発生源を振り返った。展望デッキの方から黒い煙が上がっているのがうっすらと視認できる。


「おっと、こいつもお前さんの幻覚のなせる技か?」


 キティが上目遣いに言う。吊り上がった口角が、耳の方まで裂けている。


「違う、オレじゃない……」


 と、ルーイは息を呑んだ。今の爆発はではない、と一瞬のうちに悟る。目に見えた事象を、現実かそうでないかを逡巡してしまうようになったのはいつからだろう。幻覚を司る魔法使いの宿命なのか。疑り深い人間になってしまったものだ。そしてその逡巡の合間に、幻を生み出した人物が誰なのかもわかってしまう。


「お前……キティ!」


 殺人鬼の猛烈な殺意に怯みもせず、さっと立ち上がったキティは「くくく」と喉を鳴らす。


「幻術がお前の専売特許だと思うなよ」


 キティは顎を反らして殺人鬼を見下ろすような目つきになると、無骨な指先を殺人鬼の眼前に突き付ける。

 深爪気味の五指から、サラサラと紫色の粉が空気に乗って放たれているのを、ルーイは見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る