10. 壊れゆく平穏

「うわっ!」


 列車が大きく揺れた拍子に、テオは眠りの園から強制的に帰還を促される。

 列車自体の揺れと、夢の中で足を滑らせて転ぶ映像とが絶妙なタイミングでリンクし、全身が大袈裟に飛び上がった。


 刹那、なぜ自分はベッドの中ではなく列車の中で目を覚ましたのだろう、と眠りにつく直前の記憶が曖昧だった。昨夜、寝床に着いた時の記憶と、今の状況が一切繋がらず、軽い混乱を引き起こしかけたが、少しずつ目が覚めてくると「ああ、ナランナへ向かっているんだった」と思い出す。


 身を横たえたまましきりに目を瞬いていると、徐々に意識がはっきりしてくる。どれくらい眠っていたのだろう。いつの間にか車内は灯りを絞られ、他の乗客も眠りに就いている気配を感じた。


 僅かに身動ぎすると、左肩だけが酷く凝り固まっていることに気が付く。いくら広い座席とはいえ、寝るために作られたわけではない場所で丸くなって眠るとなると、無理な体勢がたたって、どこかしら痛めてもおかしくはないだろう。


 窓から差し込む白月光が、薄暗い車内に銀の粒子りゅうしを散りばめる。その幻想的な光景に、束の間テオは、自分がまだ夢の中に居るような気分になった。


 永遠の夜に覆われた世界を仄白ほのじろい光で照らす月は、外の世界の月よりもはるかに大きく、薄く金色かかった表面の模様や、陰影いんえいを刻むクレーターまでもがくっきりと肉眼で見える。テオはその迫ってくるような巨大な存在が、時折怖く思えてならなかった。


 ぼんやりした頭が覚醒するのをじっと待っていると、正面で美童が窓の方を見ながら、腕を組んで難しい顔をしているのが目に入った。


 テオはむくりと起き上がって、うーんと控えめに伸びをすると、「すみません、すっかり眠ってしまいました」と目を擦る。

 美童はテオの起床に今しがた気付いた様子で、すぐにその難しい表情を引っ込めた。


「ああ、おはよう。眠たければもう少し眠るといいよ。ナランナまではまだ、だいぶある」


 テオは頷き、欠伸を噛み殺しながら、通路を挟んだ隣の席で眠るクラレンスに目を向けた。畳んだマフラーを窓枠に置いて、枕代わりにしながら眠っている。


 そこにキティの姿はなかった。お手洗いにでも行ったのかな、と考えながら凝り固まった肩をぐるぐる回す。

 肩甲骨の辺りから関節が擦れるような、ごりごりという音を聞きながら、まだ眠たげな目でぼうっと窓の外を眺める。


 たたん……たたん……

 たたん……たたん……

 静かな揺れは、それでいて無骨な揺り籠のようだ。


 程よく肩が解れてくると、規則的な揺れに微睡まどろみを誘われ、再び瞼が眼球を覆いつくさんと降りてきた。美童の言葉に甘えてもう少し眠っておこうかと思ったその時、彼の目がおかしなことに気が付く。


「ん……?」


 テオは小さく声を漏らし、暫くの間、食い入るように窓の外を見つめていた。瑞々みずみずしく輝いた鳶色とびいろの瞳の中を、雄大な大草原が駆け抜けてゆく。その大地のふちを見渡した双眸が、奇怪な生き物でも目の当たりにしたように見開かれ、車窓の違和感を追うように忙しなく揺れる。


「……美童さん」


 動揺した視線を美童に投げかけた。魔法使いはまた渋面を作って、無言で少年を見つめ返す。テオは窓の外と美童とを交互に見やった。


「なんだか外の様子が……」


 気が付いてしまったか、と美童は細い眉をぐいと跳ね上げた。美童は騒ぎになるのを恐れて、うんと小さく頷きながら「shiii......」と人差し指を唇に押し当てる。


「君はなかなか鋭いね。僕なんかより余程優れた観察眼を持っている。大丈夫だよ。あいつが戻るまでは待機だ。無闇に騒いで、周囲を不安にさせるのも良くないからね」

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