Prologue. ファンフリート家の兄弟 〈2〉

 魔法。

 ぼくたちが住む常夜とこよの国のマグノリアには、細々とではあるが魔法が生きていた。


 今から二百年以上前、で魔法使いたちが弾圧される残酷な歴史が存在した。ヨーロッパ地方多くで行われたそれは魔女狩りと呼ばれ、人間の所業とは思えぬ非道な方法で多くの者が命を奪われた。


 魔女と言われれば子どもさえも荒々しい業火に身を焼かれ、噂、密告によって罪のない人々が魔女の烙印らくいんを押されて火あぶりにされた。

 逮捕されれば二度と元の生活には戻れない。待っているのは拷問の果ての死であった。


 捕らえた魔女から自白を引き出せば、火刑に処された者の財産はすべて没収される。いわば一大ビジネスであったわけだ。


 果たして、粛清しゅくせいされた人々の中に魔法使いはどれほどいたことだろう。

 おそらく、魔女狩りで命を落とした人間の大半は人知以外何も持たぬ平和な日々を享受してきた普通の人間だったはずだ。その中にまれに、拷問の末の残酷な死に際に人ならざる者のちからを放って息絶えた者もいた。


 結論から言えば、外の世界にも魔法使いはいた。ほとんどの魔法使いは、自分自身に魔法を施し、結界を纏って生活をしていたために、周囲の人間はなんとなくそこに人がいるのはわかっているけれど、特に興味を示すことなく、その他大勢の内の一人として、薄ぼんやりと認識している程度だった。なのでその人物が魔法使いかどうか以前に、そこに人がいたかどうかも曖昧な記憶でしかなかった。


 それでも、何らかのきっかけで魔法使いであることが露見し、断末魔の叫びをあげて死んだ魔法使いもいたのだ。

 

 あるとき、一人の少女が火刑に処された。


 ――最期に、言い残すことは。


 教会の神父が促し、少女は言った。


 ――ない。


 彼女の死は壮絶であった。

 ごうごうと音を立てて燃え盛る悪魔の化身に包まれ、死の瞬間まで響き渡った断末魔を、その場にいる誰しもが生涯忘れることはなかった。


 日に日に苛烈さを増す異端弾圧に、ついに反旗を掲げた二人の魔法使いが手を結び、魔法の発展を信じて人の世との永遠の別れを選んだ。それがぼくたちマグノリア人のご先祖様たち。彼らはちからの弱い魔法使いたちを魔女狩りから救うために、文字通り生まれ落ちた世界を捨てた。


 悪魔に心を蝕まれた教会関係者たち。

 恐怖に支配され、隣人を疑い、友を恐れた人間たち。

 そんな弱い人間の心に、悪魔は漬け込んだのだ。


 それから多くの時間が流れ、魔法使いの国マグノリアは今もこうして世界のどこかにひっそりと存在している。


 ファンフリート家はマグノリア始まって以来、何代にもわたって強い魔力を有した子孫を残し続け、今代で六代目になる。

 先代となる父が自由に身動きができるうちに次に本を受け継ぐ者を決め、成人と同時に一家の全てをある程度任せられるようにと、末っ子のぼくが十三の誕生日を迎えた二か月前から兄弟の間で話し合いが行われているのだけれど、これが欠伸が出るほど難航していて、ぼくなんかは既に自ら蚊帳かやの外へ出て外野を決め込んでいるようなものだ。


 ぼくは、今夜も長くなるんだろうなと思わずため息を吐きたくなった。なんとかこらえて、視線をテーブルに向ける。木目の荒い白樺しらかばのテーブルの上に置かれているのは、渦中の《本》だ。


 重厚な装丁そうていにタイトルらしきものは記されてはいない。草臥くたびれた黒革の表紙はいつ見てもかっこよくてうっとりしてしまう。

 大きさは、身体の小さいぼくなら両手で抱えた方が安定感があるように思えるくらいには立派だ。

 ページの三分の一辺りのところから赤い栞紐がちょろっと覗いている。裕に八百ページを超えているであろう分厚さで、小口の部分は灯りに焼けて薄っすらと茶色く変色している。


 あの中には様々な魔法の言葉が書いてあって、呪文を口に出せばすぐに発動する魔法もあれば、道具や材料を集めて何日もかけて完成させる魔法もある。


 なんでも、ぼくらのひいひい…………お婆さんが、それはそれは高名な魔法使いであったらしく、若いころからいろいろな魔法をあやつり、その使い方をこの本に記したのだという。


 紙に染み付いた白檀びゃくだんの高貴な香り。ページを捲る度にふわりと舞い上がるあの香りは、幼いころからぼくの鼻腔びこうとりこにした。


「ルカ、何か言いたいことがあるんじゃない?」


 沈思にふけっていたぼくの隣で、クラレンス兄さんが穏やかに言った。「言ってごらん」


 ルカ兄さんは一瞬だけ躊躇するような間を差し挟んだが、すぐにまたいつもの気だるげな態度で、「父さんはああ言ってたけど、長男が家の全てを継ぐって、だいぶ前時代的じゃない? 長男が全部引き受けるなら、ぼくたちは何のために生まれてきたのさ」


 刹那せつなとはいえ躊躇した割には皮肉たっぷりな物言いだ。大人たちの期待が長男ばかりに向くのが気に食わないのだろう。父さんは今代の継承者としてクラレンス兄さんを推している。長男だからというのもあるかもしれないが、一番の理由はその人柄と周囲からの評判ありきのものだろう。

 一方で確かにルカ兄さんの言い分も間違ってはいないが、もう少し丁寧な言い方が出来ないものだろうか。厭味いやみったらしくて耳にするのも不快だ。


 でも流石はクラレンス兄さん。弟の挑発じみた発言に少しも機嫌を損ねたふうでもなく、「そうだね。お前の言い分は正しいよ」と姿勢を正す。

 クラレンス兄さんは組んだ指の上に顎を乗せて、軽く息を吐くと首を傾げるようにしてぼくの方を見た。


「テオはどう思う?」


「えっ」


 まさかぼくに話の矛先が向くとは思っていなかったものだから、つい間抜けな声が出る。

 否、仮にもぼくだって継承権はあるのだし、そうなるのは当たり前なのだが、どうもぼくはこの終わりの見えない不毛な議論にはほとほと嫌気がさしているせいか、話がなかなか頭に入ってこない。


 だから今だって実は話半分で、自分がどのような意見を述べればこの場が上手く回るかなど一切考えていなかった。


 それでもクラレンス兄さんを無視するわけにもいかないので、「えっと、ぼくは……」と、とりあえず口を開いてみたものの、何も考えていなかったのだから、すらすらと言葉が出てくるはずもなく、そうこうしている間に別の声が割って入る。


「ていうかさ、もう単純に魔力量でよくない? この中で一番魔力を持っている奴が本を継承する」


「そうそう、それが一番手っ取り早い」


 双子がおちゃらけたように言う。ぼくへのだ。言外に「テオおまえには無理だ」と言っているのだ。ぼくは返す言葉もないまま口を噤んで、膝の上に置いた自分の手に視線を落とす。もう知るか。何も言わない。


「お前ら、自分の魔法のセンスに自信があるのは結構だけど、本を継ぐ者はそれだけでなく、ファンフリート家の全てを背負うということなんだぞ。魔法使いとしての力量以外にも目を向けなければならない。世界には魔法以外にも大事なことはたくさんあるんだからな」


 この時ばかりは常時穏やかなクラレンス兄さんも、咎めるような口調になった。


 ……。


 訪れた沈黙は耳に痛いほどだった。

 みんな本を継承したいんだ。自分こそが後継者に相応しいと信じて疑わない。だから他の兄弟に本を取られたくなくて、話し合いがいっかな進まない。一進一退どころか、その場から一歩たりとも動けてすらいない現状だった。


 また今日もろくに話がまとまらないまま終わるんだろうなと思ったその時、リビングの扉が開いて父さんが入ってきた。父さんはぼくらの間に流れる不毛な雰囲気を感じ取ったのだろう、一瞬だけ驚いたように瞠目するなり「もしかして、まだ決まらんのか」と呆れたように言った。僕も全く同じ気持ちだよ。いっそのこと、現在の本の所持者である父さんが指名してくれたら楽なんだけどな。、そうはっきり言ってやってくれ。


「だって父さん」


 双子が声を揃える。

 父さんは肩を落として深いため息を吐くと、「仕方ないな」と、ぼくたちが集まるテーブルに歩み寄り、不意に本を手にする。

 どうしようというのだ、と全員が父さんの動向に注目していると、その足は部屋の奥にある出窓へ向かう。

 マグノリアは一年を通して気温が低いので、基本的にはカーテンは分厚く、換気をするとき以外は閉じられている。

 母さんが選んだワインレッドのベロアのカーテンを開ける。その行動が何を意味するのか汲み取ることが出来ず、ぼくらはただただまで椅子に尻を押し付けたまま、ぽかんと口を開けていることしかできなかった。


「父さん、一体何を――」


 いち早く不穏な気配を察知したらしいクラレンス兄さんが腰を浮かせると、父さんは窓を開けて部屋の中に冷えた空気を招き入れた。今日の寒さは殊更だった。骨身に染みる冷たさは、ここプラトーの町に雪の気配を呼び込んでいる。ぼくらは急に押し寄せてきた寒さに身を縮こまらせた。


「ああ!」


 その瞬間、その場にいる誰もが叫ばずにはいられなかった。父さんは、窓の外へ向かって本を投げ捨ててしまったのだ。


 五人で大きな声を上げてものすごい勢いで立ち上がると、競うように出窓へ押し寄せる。

 四つの頭が窓の外へ身を乗り出し、二階からの景色を血眼になって見下ろす。


「父さん、何をやっているのさ!」


 クラレンス兄さんが甲高い声で責める。けれど父さんはどこ吹く風で、徐にリビングの中へ戻ってゆく。

 ぼくは兄さんたちの後ろから、恐る恐る窓の外を覗き込んだ。……あれ?


「本がない」


 兄弟全員で目を皿のようにして、通りの端から端までを見たが、どこにも本は落ちてはいなかった。

 下の通りでは、このアパートのオーナーが一階で開いた花屋を営んでいる。今はちょうど営業中で、ぼくたちの真下で接客をしている姿が確認できた。

 あんな重そうな本がいきなり落ちてきたら、いくら世界が薄暗い夜の国でも気が付くだろう。けれどオーナーさんはそれはそれは丁寧に接客に務めている。


「父さん!」


 いつも冷静なクラレンス兄さんは尚も動揺が隠せない様子で、一方の父さんは怖いくらいに落ち着いていて……ぼくはその場から逃げ出したくなってきた。


「説明して。本をどうしたの」


 父さんはようやく僕らに向き直ると、


「本はこの世界マグノリアのどこかに隠した。一番最初に見つけた者が本を継承しなさい。いいね」


 と言った。

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