33. イーヴィルの試練【美童】
その瞬間は、両脚に絡みついた疲労の存在など忘れていた。
「テオッ!」
だが素早く伸ばした手は翻ったテオの外套を紙一重の差で掴み損ね、未成熟な華奢な背中を飲み込んだ
「やられた……!」
強く握り込んだ掌に爪が深く食い込む。
――何だ、今のは……。
テオの姿が闇に吸い込まれるその刹那、一寸の光もない暗黒の中にぼんやりと浮かび上がった不気味な顔を見た。テオは夢中だったせいか、その奇妙な顔の存在には気が付かなかったようだ。
顔は美童と目が合うと、アーチ型の双眸を奇怪に歪めて笑った。それはさながら氷の魔法のように、美童の全身を指先に至るまで凍てつかせてしまった。
その場に一人取り残されてしまうと、テオの手を掴もうと必死になって投げ捨てたランプを壁際まで拾いにゆく。埃に覆われた壁紙が薄ぼんやりと光に照らされ、視界の端で大きな蜘蛛が天井へカサカサと逃げてゆくのが見えた。
揺らめく明かりを周囲にやって、
「テオ、テオどこだ!」
必死の叫びに返ってくるものはない。
――下級の仕業か。くそ、油断した。
美童は舌を打つ。
異空間へと通ずる闇は煙草の煙のように霧散すると、辺りは水底へ眠る古代の遺跡を彷彿とさせる
と、その時、背後を下る階段を、奇妙な胸のざわめきを伴って誰かが登ってくるのを感じた。
「誰だ」
美童は身体の向きをそちらの方へ変え、威圧するように言う。
薄闇の中から黒いレースを脱ぐように現れたのは、雪のように白い
紛い物めいた笑顔はさながら道化のメイク、見る者の背筋を薄ら寒く
そのうえ酷く痩せていて、対して上背がない美童から見てもだいぶ小柄だった。彼もどちらかといえば体格は控えめだが、相手はそれよりもさらに一回り小さく見える。
顔立ちは少年と青年の間――若くも見えるが、中年と言われればそう見えなくもない。何もかもが紛い物に塗り固められたような男だ。
「やはやは、ごきげんよう、魔法使い美童」
男は気安い口調で言い、指輪のたくさんはまった右手をヒラヒラ振る。舌を出して喋る品のない口の中で、ちらりと舌ピアスが光った。
尖った耳には金のピアスが連なっている。
品性に欠けたアクセサリーの数とは対照的に、軽薄そうな色が漂う垂れた目尻は存外に切れ者っぽく、人の心を見透かすように細められている。
「誰だ、って訊いてるんだ。何故僕の名前を知っている」
「あんたを知らない方が珍しいだろ」
男は肩を竦めて鼻で笑うと、「俺はイーヴィル。ただの悪戯好きの下級悪魔だ」
「テオをどこへやった」
イーヴィルは呆れたように首をゆるゆると振る。
「質問が多いねえ。ふうん、あの子はテオと言うのか。別に取って食おうってわけじゃねえよ。ちょいと彼に興味をそそられてね。丁重におもてなししているところだ」
おもてなしとは名ばかりのろくな待遇を期待していない美童は、食って掛かろうと身を乗り出すが、イーヴィルはそれを遮るように「それと」と美童の鼻先に骸骨のような指を突き付ける。
「あんたにも」
美童は小賢しい悪魔を
相手は低級の悪魔だが、美童はこのイーヴィルに余裕を見せつけるような言動は一切しない。かつて、師として傍に置いてもらっていた偉大な魔法使いの教えで、「どんなに相手が自分より格下でも、絶対なめてかかるなよ。本当に弱い奴は自分のちからの無さを心得ている。だからこそ、ちから以上の武器を持って強者に挑んでくるんんだ」と、耳にタコができるほど教え込まれてきた。その師は今も地元の温泉街で来る日も来る日も酒を片手に享楽に耽っている。
イーヴィルは青白い顔を歪めてシシシッと歯の隙間から息を吐くと、「そう怖い顔しなさんなよぉ。もてなしてるって言ってんだろ。傷一つつけるつもりもねえよ。俺はただ――そう、あんたらの
「心?」
気が付くとイーヴィルはすぐ目の前に迫っていた。美童はギョッとして仰け反り、その瞬間に場の雰囲気が一変する。
周りの景色が解けるようにぼやけ、眼前のイーヴィルも狡猾に笑ったまま、熱に溶ける砂糖菓子のように崩れはじめる。
「あッ、おい、待て!」
イーヴィルの肩に伸ばした手は彼の残像を掴み、意味もなく宙に浮いたまま固い拳を作る。
辺りは目を閉じているのか開いているのかもわからない闇に塗り込められ、人間の魂に刻まれた深淵への恐怖心に背中がぞわりと粟立つのを覚えた。無暗に動き回るのは憚られる。
「あの野郎……」
慣れない暴言を虚空に吐き捨てたその時、どこからともなく女性の声が聞こえてきた。
『美童』
それは彼の名前を愛おし気に呼んだ。
幻聴かと思われるか細い声であったが、次に聞こえた声は彼の耳にはっきり届く。
『美童、可愛い、私の……』
一瞬にして全身が総毛立った。切れ長な彼の目は、墓場から立ち上がった幽鬼でも目の当たりにしたように大きく見開かれ、薄い瞼の縁を覆った睫毛が震えた。
硬い縄に縛り付けられたように身が竦み、たちどころに心拍が上がる。
胸が苦しい。眉間の奥深くがずうん、と重たくなって不快な冷や汗が額を濡らした。
熱いのか寒いのかもわからない。ただ、頭のずっと奥の方が氷を抱えているように冷たく感じ、それでいて逆上せた時みたいに気が遠くなる思いだった。
なんだ、これは。この感情は。
遠い遠い過去に置き去りにしてきた恐怖が、長い時を越えて脳裏へ蘇る。
声は、美童のすぐ耳元まで迫って来ていた。
『美童、愛しているわ。あなたも私を愛してる。そうでしょう?』
後ろを振り返ることが出来ない。情けないほどに歯の根が合わず、顎のあたりからガチガチと歯が鳴る音が耳を
逃げたい。動けない。
脚から力が抜け、その場に跪きそうになるのを必死で堪えることだけに集中するも、耳朶に流れ込んでくる忘れたはずのあの人の声が、美童からその意識を剥奪しようと暗躍する。
いるわけがない。あの人が僕の前に現れるわけがない。だって、あの人は――……。
美童は込み上げてくる吐き気を堪えるように口元を押さえた。
『美童』
愛おしい者を呼ぶ甘い声。
冷たい手がひたりと美童の首筋に触れる。
呼気が震えた。
指先が痺れ、頬を熱い水滴が滑り落ちる。
自分のすぐ背後に感じる気配。
囁くように聴こえていた声だけでなく、今はあの人の息遣いも、懐かしい髪の匂いも感じる。
――あの人が、すぐ傍にいる。
「
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