思いがけない来客
冬の先触れとも呼ばれる嵐が去ったのは、翌日の朝早くのことだった。
「本当に、昨日は失礼しました!!」
柊館の玄関先に、デボラの大きな声が響き渡る。
「だから気にしないでちょうだい。わたくしは、楽しかったわよ」
朝から何度目だとうんざりしながらも、顔に出さないように努力しながらジャスミンは笑いかける。
楽しかったのは、本当のことだ。夕食の席でも、その後も、デボラの話は楽しかった。褒め殺されて恥ずかしい思いもしたけれども、悪い気はしなかった。
「今度は、雛菊館でお茶会をしましょう」
「わたしを雛菊館に、そんな……何が何でも行かせていただきます。いつでも呼んで下さい」
メリッサが馬車を待たせていると声をかけるまで、デボラはジャスミンが握手にと差し出した手を両手でしっかり握りしめて離さなかった。
馬車が動き出して、ジャスミンはふぅと息をついてしまった。
(楽しかったけど、疲れたわ)
そう顔にしっかりと書いてある。
ジャスミンは、充実した疲れに身を任せて体を背もたれに預けた。
折れた枝葉や、風で飛ばされてきた壊れた何かといった、嵐の置き土産のせいで、途中何度か邪魔されながらもゆっくりと雛菊館に向かっていく。
じっとしていたせいか、ふいにジャスミンはブルリと体を震わせた。
「冷えるわね」
「冬の先触れの後ですからね。衣装係たちも、冬物の支度をしてくれているはずです」
「いよいよ冬なのね」
神なき国での初めての冬。
冬と聞いて、ジャスミンとイザベラは故郷の厳しい冬を思い起こしていた。
北方諸国の一つに数えられるマール共和国では、もうすでに冬になっているだろう。そもそも、秋らしい季節がない。短い夏が終われば、長い冬がやってくる。北方諸国の中では、南に位置するからといって、厳しいことにかわりはない。
「このあたりでは、めったに雪は降らないそうですね」
自分を抱きかかえるイザベラに、メリッサは背筋をピンと伸ばして首を縦に振る。
「まず降りません。わたしは、アスターよりも北東の田舎に生まれましたから、雪がどういうものか知っています。ですが、国内のそういったごく一部の地域をのぞけば、雪は天変地異というくらいありえません」
「天変地異、かぁ」
身近だった雪が天変地異というのは、イザベラでなくても、複雑な気分になるに違いない。
「すみません、イザベラ。天変地異は、言い過ぎたかもしれません。ですが、雪は冷害とともに語られます。白の脅威とも呼ばれたりもしていますね」
ジャスミンは、雪を見たいと言ったジャックがどんな顔をしていたのか思い出そうとして失敗した。
(もしかしたら、あれはわたくしの話に合わせてくれただけかもしれないわね)
メリッサが言うような脅威を見たいなんて、本音かどうか怪しくなってきた。気分が完全に落ち込む前にと、ジャスミンは朗らかに笑った。
「デボラが期待してくれた王妃になるように、わたくしもまだまだ頑張らないとね」
国民に力を与えられるような王妃になりたい。国王の隣にいるだけの女にはなりたくないと、ジャスミンは強く心に決めた。
「良い心がけです、ジャスミン様。では、お礼状の残りを今日中に書き上げてください」
「うっ」
メリッサに現実を突きつけられてうなだれるジャスミンだけれども、決意は揺るがない。
「わかっているわよ。今日中に終わらせるわよ」
お礼状ごときで音を上げているようでは、素敵な王妃にはなれない。ジャスミンは、すっかりやる気になっていた。やる気に満ち溢れていた。
少なくとも、雛菊館で紙とペンに向き合うまでは。
ジャスミンは、もともと単調な作業が苦手だ。
(こんな定型文、誰が書いても一緒じゃないの)
昼食のために中断する前から、何度も何度も投げ出したくなった。昼食を食べてからは、ますます集中力が途切れがちとなっていた。
「お嬢様、手が止まってます」
「わかっているわよ」
手が止まるたびに、すかさずイザベラが指摘してくる。
「あと、五通ですよ。ほらほら、終りが見えているんですから、ぼけーっとしない」
普段のイザベラなら、ここまでジャスミンを急かすようなことは言わない。
何の気なしに窓の外を眺めていたジャスミンは、昨夜の迂闊な発言を後悔しながらインク壺にペン先を浸した。
(こんなことなら、ベラに本を借りるなんて約束しなければよかった)
昨日、柊館でBLの普及を阻んでいるのが、百合豚童貞野郎と腐女子界隈で絶対悪とされてきた小説家リリー・ブレンディではないことが判明した。偏見腐女子とまで言われてもしかたなかった。
(たしかに、読んだこともないのに批判するのはよくなかったわよ)
だから、実際に読んでから批判してイザベラを腐女子に仕立て上げようと、ジャスミンは考えていた。
(ふふふ、覚悟しておきなさい。男と男、ついている者同士の絡みのほうがずっとやばいに決まっているじゃない)
もちろん、イザベラはジャスミンが純粋に興味を持ってくれているのだと思いこんでいる。
(これで、お嬢様と百合の尊さを分かち合える。微百合からおすすめしようかと思いましたけど、お嬢様の好まれるBL小説は過激でしたし、あー迷うぅ)
ちなみに、ジャスミンにボロクソ貶されて悔しい思いをした彼女は彼女で、どう攻めようかとこっそりBL小説を読んでいた。
(まぁ、たしかにお嬢様がハマるのもわかるわよ。認めたくなかったけど、百合に勝るとも劣らない魅力があったし。だからこそ、デボラさんの言う偏見腐女子のお嬢様にも、絶対に百合の尊さ、しんどさを理解してもらえるはず!)
祖国から続く主従関係以上の二人をここまで別の方向に熱意を燃やさせる小説家は、もしかしたら王国で一番罪深い男なのかもしれない。
ジャスミンがすべてのお礼状を書き終えたころには、時計の短い針が三の少し下を指していた。
「まったく、ベラったら……」
おやつにしようと、イザベラが足取り軽く出ていくのには、ジャスミンもやれやれと苦笑を禁じ得なかった。
「ん〜〜っと!!」
組んだ両手を天井に突き上げて、彼女は達成感を満喫する。
今、この部屋にはジャスミン一人きりだ。
肩の力を抜いて両手を下ろすと、彼女の目つきを変えた。
(さて、どうしたものかしらね)
書き損じた紙束の下から引っ張り出したのは、差出人の名前のない封筒。
(露骨すぎるくらい怪しいわよね)
汚れたものをつまむように封筒の角をつまみ上げる。
ジャスミン宛ての手紙は、ほとんど輝耀城で内容を確認してから届けられる。例外は、月虹城内での手紙くらいだけれども、それもデボラの招待状の封が開けれられていたように、雛菊館でも確認される。内容を確認されなかった例外中の例外は、ジャックからの手紙くらいなものだ。
個人的な私室の一つとはいえ、使用人の出入りは多い。昼食時に席を外したときに、誰かが机の上に置いたのだろう。
「メリッサに言うべきなんだろうけど……」
すぐにイザベラに言おうとも考えたけれども、好奇心か何かが刺激されて書き損じの紙束の下に隠してしまった。
露骨すぎるくらい怪しい手紙なんて初めてだ。
誰が机の上に置いたのかは二の次で、やはり中身が気になった。
(封を開けただけで、死ぬようなことはないわよね)
神の奇跡はなくても、悪魔のいたずらは信じられている国だ。
こうして迷っている間に、イザベラが戻ってきてしまうかもしれない。
「よし、決めたわ」
ジャスミンは好奇心に負けて、ペーパーナイフを手に取った。
謎の手紙というスリルに、ジャスミンの鼓動が激しくなる。初めて『秘密の庭園』を読んだときのスリルによく似ていたかもしれない。
封筒の中には、半分に折りたたまれた紙が一枚入っていた。
癖で両手で押さえた胸元に、サファイアの首飾りはない。ガーデンパーティーで彼女の胸元を飾ったのを最後に、ずっと赤いベルベットの箱の中だ。ジャックへの気持ちが揺らいでいる今、彼女が避けるもの無理も無いことだろう。
慎重に紙を開いたジャスミンは、目を瞠った。
「これは……」
忌々しげに唇を噛んで、封筒の中に戻した。忌々しさのままに、ビリビリに破り捨ててしまいたい衝動を、ギリギリで抑えこんで深く息を吐き出す。
「メリッサに話して、ジャック様に……でも……」
どうすればいいのかははっきりしているのに、途方にくれてしまった。
(デボラのように、わたくしもジャック様を愛していると断言できたらよかったのに……)
揺らいでいた気持ちを、さらに大きく揺さぶられてしまった。
自分と従姉を利用したわけではないという確信が欲しかった。根拠なんてなくてもいい。ジャスミンは、ジャックを信じられないのがもどかしくてしかたない。
「ジャズ、ジャズ……」
うなだれた彼女が耳にしたのは、聞こえるはずのない声。
(ああ、リディの幻聴まで聞こえるようになったのね)
精神的に追い詰められているとはと、彼女は顔を上げる。
「ジャズ、ジャズ……ジャズ、聞こえる?」
従姉の懐かしい声は、しつこく呼びかけてくる。
「ジャズ、ジャズ、ジャズ……」
しつこく繰り返し繰り返し呼びかけてくる。耳を塞いでも、繰り返し繰り返し呼びかけてくる。
(でも、幻聴が聞こえるくらい、わたくし、追い詰められていたのかしら)
たしかに悩んでいたけれども、精神的に参っていた自覚はない。リディアがいなくなったときほど追い詰められていない。
(食欲だってあるし、笑えるし、たしかに悩んでいるけど、そんな四六時中頭をかかえているわけではないし……)
耳をふさいだことで、幻聴は聞き取りにくくなった。おかげで、いくらか冷静になれた。
「ジャズ、ジャズ、聞こえる?」
けれども、まだ呼びかける声が繰り返し聞こえる。
聞こえるはずのない声は、リディアのもので間違いない。そもそも、ジャスミンをジャズと呼ぶ人間は、王国では彼女だけだ。
「ジャズ、聞こえる? ジャズ、ジャズ……」
幻聴以外にありえない声に、ふと違和感を覚える。
「ジャズ、ジャズ、ジャズ、聞こえる? ジャズ、ジャズ……」
恐る恐るふさいでいた手を耳から離す。
「ジャズ、ジャズ、ジャズ、聞こえる? ジャズ、ジャズ、ジャズ、聞こえる?」
幻聴はまだ繰り返し聞こえてくる。そう、繰り返している。
(三回呼びかけたあとに、聞こえるって一度だけ。ずっと、同じ調子ってありえないわ)
これだけ無視していれば、次第に声が刺々しくなりそうなものだ。リディアは、それほど辛抱強いほうではない。もっとも、幻聴に彼女の性格が反映されていることが、前提の違和感の正体だ。
「リディ? きゃ!」
おそるおそる顔をあげると、窓ガラスを何かが叩いた。
ぎょっと椅子から飛び上がって、おそるおそる窓をみると、黒い影が窓を覆っているではないか。
「ジャズ、ジャズ、ジャズ、聞こえる?」
しかも、窓を覆うその黒い影からリディアの声が聞こえてくるではないか。
「リ、リディ?」
悲鳴をこらえながら、窓の外の黒い影に目を凝らすと、キラリと何かが光った。
「ジャズ、聞こえる?」
「……カラス?」
黒い影の正体は、大きなカラスだった。首元には、見覚えのある蛍石の聖石。
「ジャズ、ジャズ、ジャズ、聞こえる?」
「ええ、聞こえるわ」
恐怖よりも、信じられない気持ちが勝って、窓を開ける。
「ジャズ、ジャズ……」
「リディ、あなた、カラスになっちゃったの?」
窓の外で羽をばたつかせていたカラスは、窓枠で羽を休める。
リディアが向かった神聖帝国では、皇帝の怒りに触れた者が豚や牛といった家畜に姿を変えられてしまうことくらい、ヤスヴァリード教の常識だ。
(だからといって、これはあんまりよ。リディは、癒やしてもらうために旅立ったというのに……)
涙ぐんだジャスミンに、カラスはクイッと首を傾けてジャスミンを見上げる。
「今、カラスにでもなっちゃたとか、心配したわね? もちろん、違うわ」
「え?」
ジャスミンはまばたきをぱちくりと繰り返した。
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