夜の月桂樹館

 国王の居館である北の月桂樹館には、王妃の元へ通うための雛菊館に通じる回廊がある。それとは別に、七竈館とを結ぶ小径こみちが、庭園の中にあった。

 夕方に降り止んだ雨でぬかるむその小径には、飛び石が月桂樹館へと並んでいる。

 雲に覆われて月明かりもないその小径を、松明片手にジャックは急ぐ。

 松明に照らされているのは、ジャック一人。

 ふいに、どこからともなく軽薄そうな声が投げかけられた。


「こんな夜遅くに、どうしたんだよ、ジャック」

「すっごい、怖い顔してさぁ」


 ジャックは、声を無視して先を急ぐ。飛び石を渡るブーツには、跳ねた泥がどんどんこびりついていく。


「ちょっと、ちょっとぉ」

「無視しないでくれない?」


 二つの声は、ジャックを追いかけてくる。


「こんな時間に、月桂樹館に行ってどうするのさ」

「そうそう、まさか、コーネリアス様にお目通りしようなんて考えてないよね」


 一瞬、足を止めかけたけれども、ジャックは先を急いだ。


「いや、ちょっと、ほんとに待って!」

「明日、出直せばいいじゃん!」


 左右の暗がりから飛び出してきた双子の庭師たちは、ジャックの行く手を遮る。さすがに、ジャックも足を止めざるえなかった。


「どけ」


 それでも、双子たちの相手をするつもりはないようだ。


「何をそんなに怒っているのか知らないけどさぁ」

「コーネリアス様は、療養中なんだよ。こんな時間に非常識だろ」


 ジャックの鋭い舌打ちが、夜の空気を震わせる。


「トム、サム、もう一度言う、そこをどけ」


 彼が右の拳に力をこめると、包帯に血が滲んだ。


「どけるわけがないだろ」

「うんうん。トムの言うとおり」


 がっくりと肩を落として、双子たちはげんなりと訴える。

 小柄な双子たちなど強引に押し通れそうなものだけれども、ジャックはかろうじて松明の灯りが届く距離で足を止めたままだ。


「それは、父上の命令か?」


 双子たちが軽く動揺したのを、ジャックは見逃さなかった。


「そんなわけないだろうな。こんな愉快なことを、父上が寝て見逃すようなことはないよなぁ」


 松明に照らされ浮かび上がったジャックは、笑っていた。とても愉快そうに。けれども、藍色の瞳は少しも笑っていない。不愉快だと激怒している。


 さすがに、双子たちもこれにはたじろぐ。


「あ、あのさぁ。怒らないでよ。たしかに、知ってたけどさぁ。リディア・クラウンが……」

「馬鹿、サム。黙ってろよ」


 ジャックは、大きく一歩前に出る。


「知っていたんだな。父上も、教会で何があったのか」

「そ、そりゃあ。なぁ、サム」

「まぁ、だってなぁ、トム」


 双子たちは、幼さの残る顔を引きつらせた。

 ジャックは、また一歩前に出る。もう、笑っていなかった。


「そこをどけ。お前たちの相手をしている場合ではない」


 静かに、それでいてはっきりと、純度の高い怒りをあらわにした声で、ジャックは夜の湿った空気を張り詰めたものに変えた。

 双子たちは、しばらく暗がりに溶けこむように押し黙る。

 張り詰めた沈黙の中で、互いの譲れないものをぶつけあう。

 やがて、双子たちが左右にわかれて、ジャックに道を譲る。


「あのさ、ジャック。コーネリアス様は、起きて待っておられるけど、無茶させないでくれよな」

「あれでも、そうとう弱っているんだ。これから、キツい季節になるしさ」


 ジャックは答えずに先を急ぐ。


「今回は、ジャックが油断してたせいだろ」

「そだよ。僕ら庭師は国王直属なんだからさぁ」


 双子たちの声が追いかけてくる。


「そんなことくらい、わかっている。だから、急いでいるだろ。取り返しがつかなくなる前に、できることをやるしかないだろ」


 誰に対して腹を立ているのか。もちろん、ジャックは父に腹を立てている。それ以上に、自分自身にも腹を立てていた。


 大股で先を急ぐジャックを、双子たちの声はもう追いかけてこなかった。


 ジャックは、父王が寝ていても起きるまで月桂樹館で騒いでやるつもりだった。双子たちには、寝て見逃すわけがないと言ったけれども、起きて待っているという言葉を信じたわけではない。


(まさか、本当に起きていたとは)


 揉めるつもりで押しかけていったのに、ジャックはあっさりと通されてしまった。

 まだ月桂樹館に勤めて間もなそうな若いメイドに暗い廊下を案内されながら、彼は父の性格の悪さを思い知らされていた。


(まったく、おとなしくしていられないのか、あの人は)


 叩き起こすつもりできたと言うのに、呆れてしまう。そういう父だとわかっているつもりだけれども、頭のどこかで常識というものを期待してしまうのだ。


 月桂樹館は、ジャックにとって居心地のいい場所ではない。

 いつもいつも、気を遣わなくてはならなくて、疲弊させられる場所だった。幼い頃は、それこそ呼吸一つにも気を遣っていた。父は気を遣うことはないと笑う。けれども、彼の周囲にいる大人たちが無言の圧力をかけてきた。萎縮しなければならないのは、活発な子どもだったジャックには苦痛でしかなかった。夜の月桂樹館は、ことさら嫌いだった。父がひどく体調を崩せば、深夜だろうと叩き起こされては、従兄とともに連れてこさせられたのだ。そのくせ、絶対に部屋に入ることは許されなかった。慌ただしく走り回る大人たちに、父の様子を尋ねようとは考えなかった。そんなことを尋ねたところで、自分には何もできないことを、従兄と二人で、子ども特有の敏感さで感じ取っていた。父が死ぬかもしれないという報せは、漠然としていた子どもの頃のほうがより恐ろしかった。

 十年前、世継ぎに指名されて、ジャックが柊館から七竈館に移ってからは呼び出される回数も減った。

 体調が安定したからと聞かされていたけれども、本当のところはわからない。


(父上は、そうとうな負けず嫌いだからな)


 これから、父を説得するために、ジャックはたわいもないことに思いを馳せて気持ちを落ち着けさせた。そうでもしなければ、リディアを救えない。

 ジャスミンと約束してしまったからというのもある。なにより、ジャックは誰かが死ぬが恐ろしいのだ。それは、この月桂樹館が生み出したトラウマのようなものだったかもしれない。


(あまり、怒らせたくはないが、どう考えても、怒らせるしか説得できないよな。他に説得する手があればいいが……)


 怒り心頭だった彼が、気持ちを落ち着けさせて具体的にどう説得すればいいか、念には念を入れて考える。

 と、ふいにメイドが足を止めておずおずと振り返った。


「あ、あの……」

「なんだ?」


 メイドの瞳が揺れたのは、彼女が手にしている燭台の灯りのせいではなかっただろう。


「手短にお願いします。時間も時間ですので、興奮させたりしないようにお願いします」

「それは、父上次第だが……わかった。努力しよう」

「ありがとうございます。これでアンナ様も安心していただけます」


 確約できるわけがないけれども、メイドはホッとしてまた先を行く。


(もちろん、努力はするつもりだ。つもりはあるんだよな。にしても、アンナ様、かぁ)


 メイドにしてみれば、アンナは上司に当たるのだから、当然顔色も機嫌も気にしなければならない。

 母の名前をうっかり口にしてお願いされたけれども、守り通すのは難しすぎる。

 おそらくこの若いメイドは、知らないのだろう。ジャックとコーネリアスが、穏やかに話を終えたためしがない。半分以上は、父が息子をからかっているだけども。


(気が重いな)


 ジャックとしても、早く七竈館に帰ってワインを一本ほど空にしてしまいたい。

 怒りは下火になったものの気分は晴れないまま、彼は父が待つ部屋にやってきた。


 たしかに双子たちが言っていたとおり、コーネリアスは起きていた。ただ、息子の訪問を予想して待ち構えていたのかどうかは、ジャックにはわからない。

 広い寝室には、あいかわらず薬の臭いが充満している。ジャックが苦手な臭いだ。

 ジャックは、静かすぎる寝室を見渡す。


(暗いな)


 灯りはオイルランプが一つだけのようだ。窓際の小テーブルに置かれたオイルランプは、かたわらのチェステーブルと車椅子の父をぼんやりと照らし出していた。他に人の気配はない。

 踵を鳴らして近づいても、コーネリアスはじっとチェス盤を見下ろしたまま動かない。


「夜分遅くに失礼いたします。父上に折いってお願いしたいことがあります」

「お願い、ねぇ」


 頭巾を目深にかぶっているせいで、コーネリアスの表情はわからない。声は、とてもつまらなそうだった。

 白のルークを細い指でつまみ上げて、白から黒のマスに下ろして、ようやく顔を傾けた。視力が残っている右目でじっと見上げるように、左に傾けている。ほとんど見えない左目は、影になって見えない。かたわらの頼りないオイルランプが浮かび上がらせる青白い肌は、黄金山脈の東に伝わるという死を司る魔神の肌のようだ。


「ジャック、お前に与えていないものは、王冠と宝剣、玉座、この月桂樹館。あとは、そうだな……」


 コーネリアスは目を細めて、ジャックの肩越しに暗がりを見やる。


「黒庭師」


 自分の背後の暗がりに、手練れの庭師が気配を殺して控えていると知っても、ジャックは顔色一つ変えなかった。父の目となり耳となる庭師が一人も控えていないことなど、ありえないからだ。とはいえ、気配を完全に殺した男が暗がりのどこかにいるというのは気持ちのよいものではない。


(双子は、まだ可愛いものだな)


 コーネリアスは、再びチェス盤に注意を向けた。


「その程度だ。わたしが持っているものは、それら以外はすべて与えたつもりだがな」


 黒のクイーンをつまみ上げたコーネリアスにつられるように、ジャックもチェス盤を見下ろす。駒の数からして、終盤戦エンディングだ。黒が圧倒的に不利な局面を読み取って、ジャックは顔をしかめて唇を湿らせる。


「ええ、その通りですよ。その上で、父上にお願いしにきたのです」


 コーネリアスは黒のクイーンを置いた。どうやら、白のビショップに狙われていたようだ。


(どのみち、白のルークがクイーンを獲る)


 黒の敗北はもう覆しようがないのに、なぜコーネリアスは続けるのか、ジャックはわからなかった。

 ジャックの予想通り、コーネリアスは白のルークを黒のクイーンのマスに置く。再び彼の手には黒のクイーンがある。


「五手前に黒のキングが動いていれば、ここまで黒の駒を失い数を減らすこともなかった」

「それは……」


 まるでジャックのことを言っているようだった。

 黒のクイーンを右目の高さまでつまみ上げて、コーネリアスはニタリと笑う。


「クイーンもこうして失うこともなかった」

「っ!」


 ジャックは左手でチェス盤の上の駒をすべて薙ぎ払い落とした。派手な音を立てたせいか、暗がりに控えていた庭師が息を飲む。


「まだ、俺は失っていない」

「そうかな?」

「ああ」


 まだ失ってはいない。そして、大切なものを失いたくないからこそ、ジャックは父の元を訪れたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る