命に関する試練
魔女のクスリ
ジャックがジャスミンたちを連れて戻ったとき、リディアはぐっすり眠っていた。
彼女のために運びこまれたベッドは、簡素なものだったけれども、寝具は清潔そのものの白だった。
蝋燭やオイルランプの灯りは、先ほどのまでジャスミンがいた部屋よりも多く、比べ物にならないほど明るかった。それほど、リディアの容態がのっぴきならないのだと、ジャスミンは悟る。
彼女は駆け寄りたい衝動を堪えなければならなかった。
(静かにって、言われたものね)
ジャスミンがこの国の医療の場に踏み入れるのは、これが初めてと言ってもいいだろう。毎朝の検診も医療の一環だけれども、命にかかわる現場は、初めてだった。
(夢なら、どんなによかったかしら)
けれども、夢ではない。
「すまないが、少し待っててくれ」
そう言って、ジャックは彼女のベッドのかたわらで椅子に座り船を漕いでいる白衣の老人の元へ行く。
その間に、ジャスミンはあらためて部屋を観察する。
ジャスミンのために急遽用意された部屋にほど近いこの部屋は、それほど広くない。南側に面していたジャスミンの部屋と違って、こちらは北側にある。昼間でもそれほど明るくないだろうと、容易に想像できる。窓も、明り取りよりも、換気のためと言った感じの小さなものしかなかった。ベッドの横には、洗面器や清潔そうな布、それから、オイルランプの光を銀色の冷たい光に変えて反射している複数の器具が並んだワゴンがあった。
「おい、デイブ。起きろ」
「ん? あー……」
老人の肩を、ジャックは遠慮なく揺さぶって起こす。起き抜けの目をこする老人の他には、医師団らしき人はいない。それどころか、使用人らしき人もいない。つまり、ジャックがジャスミンたちを連れてくるまで、リディアはこの老人と二人きりだったということになる。ジャスミンは、思わず眉間にシワを寄せてしまった。
(リディのような若い女性を、男性一人に任せるなんて……)
そんな不快感を、ジャスミンはぐっと飲みこんだ。
(いつまでも、ヤスヴァリード教の教えを引きずっていては駄目だわ)
ただでさえ、突然のことだったのだ。
ジャスミンが目にしていないだけで、実際には多くの使用人たちが本来は必要のない働きをしてくれているはずだった。
(本当は、いい迷惑なんだわ。七竈館の人たちにとっては)
それなのに、こんなにもよくしてもらっている。乱入してきたジャスミンのためにも、余計な仕事をしてくれたのだ。
感謝はしても、文句を言ってはいけない。それは、贅沢というものだろう。
ジャックが老人と砕けた感じで話しかけ続けて、ようやく老医のデイビットは、戸口に立っている三人の女性に気がついた。そのうちの一人が、ジャスミンだと気がついても、デイビットは大きなあくびをしただけだった。
「なんじゃ、連れてきたんかい」
「彼女の従姉だぞ。準備が整い次第、リディア・クラウンには出ていってもらわなければならない。静かに側で見守るくらいはいいだろうが」
「まぁ、連れてきてしまったもんは、しょうがないじゃろうよ」
渋い顔をしたデイビットのぶしつけな視線に、ジャスミンはたじろいだ。
老医の視線に、なにか見透かされた気がしたのだ。もちろん、デイビットにはそんな気はなかったのだが。
「じゃが、容態が急変せんとも限らん。今は隣で休ませとるが、何かあったら雛菊館の女主人でも、わしの言うとおりにしてもらわな困る」
デイビットの言うことは、至極もっともなことだった。
ジャスミンは、しっかりと首を縦に振る。
「わかりましたわ。わたくしの従姉の側にいさせてもらえるだけでも、感謝しておりますわ」
「ふむ、では……ん?」
デイビットは、急に眠っているはずのリディアに視線を落とす。
「目がさめたな。気分はどうだ?」
ジャックも覗きこむと、リディアは濁った目で視線をさまよわせている。
「ふむ、まだ意識ははっきりせんようじゃのぉ」
一度リディアにぐっと顔を寄せてから体を起こしたデイビットは、駆け寄ろうとしたジャスミンたちに待ったをかける。
「もうちょっと、待っとくれ。ん? ここにあったハサミがないぞ」
彼がワゴンに手を伸ばしている間に、リディアの虚ろな視線がジャックをとらえた。濁った瞳がさらに濁る。そして、ジャックはたしかに彼女がつぶやくのを聞いた。
「……簒奪者、の、息子」
「しまった。まだ暗示が残っ……」
リディアの細い体を覆っていた掛布が跳ね上がる。
何が起こったのか、ジャスミンは理解できなかった。
ジャックがデイビットの背中を突き飛ばしのを、見た。
ベッドの上に立ったリディアの手に、冷たい光を放つハサミのようなものをがあるのを、見た。
リディアが虚ろな顔で何か口走ったのを、聞いた。
それから先は真っ白になって、何もわからなくなった。
ほんのわずかな間に、すべてが起こった。
黒い影が背後から飛び出していって、ジャスミンはようやく我に返った。とはいえ、真っ白になっていたと感じたのも、まばたき一回分の間だったのだろう。
本当にほんのわずかな間に、すべてが起こったのだ。
飛び出していった黒い影が、リディアを組み伏せる。
「貴様、よくも! よくもジャック様に怪我を!!」
黒い影は、メリッサだった。
「け、が?」
そう言われて、ジャスミンは初めてジャックが床に膝をついて、右の手の甲を左手で押さえているのが、見えた。左手の下から赤い血が滴っているのも、見えてしまった。
メリッサは、抵抗することなく組み伏せられたリディアの首を押さえつけた腕に力をこめようとしていた。
「メリッサ、よせ!」
ジャックが鋭い声でやめさせようとするけれども、メリッサには届かない。
「よくも、よくも、よくも、ジャック様に!」
「よせと言っているだろ!!」
右手を押さえていた左手を離して素早く立ち上がったジャックは、傷がある右手で容赦なくメリッサの頭を横から殴りつけた。その勢いで、メリッサの体がベッドから転がり落ちる。
「ジャック様、あたしは……」
「メリッサ、俺との約束を忘れたのか。二度と、俺に手を出させるな」
「も、申し訳ございません」
床にうずくまるメリッサは、涙こそ流していないけれども泣いているようだった。
彼女が組み伏せたリディアは、意識を失っているだけのようだ。そのことを確認したジャックは、安堵の息をつく。
彼に突き飛ばされたデイビットは、打ち付けた腰をさすりながら立ち上がる。
「まだ、暗示が残っとったようじゃのぉ。ハサミは、わしが目を離したときにとったんじゃろ」
「居眠りの間違いだろ」
床に転がっていたハサミは、リディアの服を手早く脱がせて着替えさせるるために、濡れた服を切るための大きな裁ちバサミだった。
「ジャック坊、お前さんはとにかく出ていってくれ。魔女のクスリの効果が抜けるまではな。彼女のためじゃ」
「わかっている。ここまで、連中の催眠が悪質だったとは……あ」
再び手の甲を押さえたジャックは、ようやくジャスミンを連れてきていたことを思い出した。
「ジャスミン、これはその……」
振り返ると、ジャスミンは真っ青な顔で立ちすくんでいた。
「ジャスミンっ!?」
限界だったのだろう。
目の前で起きたことに理解が追いつかなった彼女は、とうとう意識が真っ暗な闇に飲まれてしまった。
立っている力も失って、ふらりと後ろに倒れる彼女を、慌てて駆け寄ったジャックが抱きかかえる。
「しっかりしろ! おい、頼むから……」
自分の血で彼女の服が汚れてしまうのも構わず、ジャックはジャスミンに声をかけ続ける。
(ジャック様が、呼んでいる……)
ジャスミンは一度だけ、ジャックの呼び声に答えるように目を開いて、すぐに完全に意識を手放した。
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