医療と治癒

 結局、おろおろするジャスミンをなだめるのに、五分かかった。イザベラが大丈夫だと口で説得する間に、メリッサが乱れていた彼女の髪を整えたのだ。

 別棟のどこかにある時計の鐘が六時であることを告げたあと間もなく、ジャックは部屋に通された。

 身なりを整えたジャスミンと違って、彼はトレードマークの三つ編みはひどもので、シャツの襟も乱れていた。彼は、それほど余裕がなかった。

 大股できたジャックは、ジャスミンのテーブルの向かいの椅子に座る。


「先に言っておくが、取り乱さずに話を聞いてほしい」

「はい」


 厳しい顔つきの彼に、ジャスミンの声が上ずる。


(カレンが大げさなだけだって、思いたかったけど、やはりそうではないのね)


 彼の前置きは、最悪のことまで覚悟しろと言っているも同然だった。実際、彼はそのつもりで続ける。


「君も承知していると思うが、私室付き女官のリディア・クラウンと、君付きのメイドのイザベラ・ガンターの経歴は、こちら側でも独自に調べて……」

「ジャック様、そのようなことを聞きたいわけではありませんわ。リディは、リディアは無事なの?」


 リディアのことが心配でならないジャスミンは、思わずジャックの話を遮る。彼女には、まったく関係ないこと話だった。


「また、そうやってはぐらかすくらいなら、今すぐにリディに会わせて」


 ジャスミンがいら立ち始めたので、ジャックはまた玄関ホールでのことを繰り返さないように、深く息を吸って気持ちを落ち着かせる必要があった。


「はぐらかしてなどいない。……わかった、ジャスミン、では先に伝えておこう。リディア・クラウンは、この国では長くてひと月しか生きられない」

「ひ、ひとつ……」


 青ざめて言葉を失う彼女に、ジャックは続ける。


「長くて、だ。正確なことは、わからない。だが、ひと月以上この国では生きられない。そう考えて問題ないだろう」


 ジャックは一度、ジャスミンの様子をうかがった。


(事前に調べたときは、従姉でもそれほど親しいわけではなかったはずだ。まぁ、無理もない。たった三人で故郷から離れなければならなかったからな。お互いの絆も深まるだろう)


 激しく動揺しているものの、ジャスミンは取り乱すことはなさそうだ。


(覚悟はできていた、ということか)


 本当は、こんな厳しい現実を話したくはない。彼は、ジャスミンの泣き顔を何よりも恐れている。泣いてこそいないけれども、悲しませているのは、たしかなことだ。言葉一つ選ぶのも、慎重になっていた。


「君の従姉は、十八年前の冬――彼女が三歳の頃に、高熱を出して治癒の奇跡で一命をとりとめた」

「ええ、とても危険な状態だったと、聞いてますわ」


 それがどう関係あるのかと、ジャスミンは青ざめた顔に不快感をあらわにする。


「その治癒が、今、彼女を苦しめている原因だ」


 ジャックは苦々しく告げる。

 けれども、ジャスミンは納得できるわけがない。故郷に置いてきた聖石を握りしめるように胸元を押さえて、彼女は声を荒らげる。


「ありえませんわ!! 神に選ばれた癒し手の奇跡のおかげで、リディは二十歳になることができたのです。いくら、医療の国だからといって、命を救う奇跡を否定されたくはありませんわ」

「治癒の奇跡そのものを否定はしていない」


 神の奇跡に命綱を握られてきたジャスミンとの認識の隔たりは、ジャックが考えていたよりもずっと大きく複雑だったのだと、思い知らされた。


「俺はこの国から出たことがない。だから、神の奇跡など、見たこともない。だからといって、否定はしない。医療と神の奇跡は、相反するものではない。それこそ、君が言う神に選ばれた癒し手のほうが、医療を悪行だと否定しているのが現状ではないか」


 ジャックの声が熱を帯び始める。顔つきこそ違うものの、まるであの日の晩餐の時のように、饒舌になる。


「たしかに、この国の人間からすれば、神の奇跡は空恐ろしい行為だ。たとえば、内蔵まで傷つけた刺し傷の傷口を塞ぐだけのようなもの」

「そのようなことはありませんわ。癒し手は、神の子らの命を救うことに誇りにしています」

「その人命をあずかる癒し手を、教会と一部の富裕層が独占したことが、八十年前のマール公国が崩壊したきっかけの一つだったと聞いているがな」

「そ、それは、そうですけれども、今は違います」


 痛いところをつかれたジャスミンは口ごもる。ジャックはすかさず話を進める。


「たとえばの話だ。だが、ジャスミン、君がどんなに否定しようとも、君の従姉を苦しめているのは、そういうことなんだ。症状は治しても、病そのものまでは、治っていなかった。癒し手が悪いわけではない。リディアの高熱を鎮めた癒し手は、たしかに彼女の命を救っただろう」

「ええ、そうでなかったら、リディはあれほど敬虔な信徒にはならなかったでしょうね」


 リディアが神に見放されたこの国でも祈りを欠かさないのは、神の力で命を救われたからだ。


「だが、高熱はあくまでも症状にすぎない。癒し手は、彼女の根本的な疾患を見抜けなかったのだろう」

「根本的な疾患?」

「アスターのアンナ大施療院でなら、はっきりしたこともわかるだろうが、おそらく心臓の疾患だろうと、ここの主任医師は言っている」


 ここで意識的にひと息ついて、ジャックは続ける。


「癒し手でなくても、信徒ならある程度の怪我や病気は自分の信仰心で治癒できると聞いている」

「その通りですわ。それが……まさか、そんなことって!」


 一度あらわにした不信感が消えなかったジャスミンは、ジャックが言わんとしていることを察して悲鳴のような声を上げる。


「ヤスヴァリード教の敬虔な信徒であるリディア・クラウンは、その信仰心に生かされてきた」

「で、では、神に祈りが届かないこの国では……」

「めずらしいケースだが、いないわけではない。軽い怪我や病気程度なら、問題はない。それからもちろん、癒し手が症状のみでなく根本から治しているのも、問題はない。だが、彼女のような場合は、大問題だ。適切な治療をおこなわれていなのだから、本来はすでに死んでいるはずだからな」


 ぎゅっと唇を噛んだジャスミンの顔は青ざめていたものの、若草色の瞳には強い意思が宿っている。


「この国の医療ではなんとか治せないのですか?」

「言っただろう。すでに死んでいるはずの命だと。もっとはっきり言わせてもらえば、手遅れだ。それも、十年以上も前から、な」


 やるせない声で、ジャックは続ける。


「聞けば、昨日まで倦怠感しか訴えていなかったらしいではないか。この神がいない国で、どの程度通用したのかはわからないが、彼女の強い信仰心がなければ、月虹城にたどり着くことすらできなかったかもしれない。彼女の強い信仰心だけが、今、彼女の命を救っている。だが、それも限界がある」

「そんな、このままリディに死ねというの?」


 涙声になったジャスミンの肩に優しく手をおいてくれたのは、イザベラだった。彼女も、主人と同じくらい青ざめているけれども、主人よりも冷静だった。


「ジャック様、わたしが申し上げてよいのかわかりませんが、リディア様をこの国でどうすることもできないなら、マール共和国に帰らせて癒し手にその根本的な疾患というものを治癒してもらえば、よろしいのではないでしょうか」

「あ、そうよ、ベラの言うとおりじゃない! ジャック様、この国の医療でどこを治癒すればいいのか、調べてもらって……」


 たちまち顔色をよくして、ジャスミンは声を弾ませた。けれども、ジャックが厳しい顔つきのまま首を横に振ったのをみて、たちまち不安がまた喜びを押しつぶす。


「君たちは、大事なことを考えていない。マール共和国までいったい何日かかるのか、安全で平坦な道のりではないことくらい、君たちのほうがよく知っているはずだ」

「ましてや、リディは病人……」


 ようやく、ジャスミンが状況をよく理解してくれたと、ジャックは肩の力を抜いた。


(やはり、魔女のクスリのことは、伏せておいたほうがいいな)


 ここまで理解してもらうのも時間がかかったのに、この国の教会の事情などより複雑にするだけだ。


「もちろん、俺としても君の従姉を死なせたくはない」

「方法が、あるのですか?」


 若草色の瞳を潤ませて訴えてくるジャスミンに、彼は不覚に生唾を飲みこんでしまった。


(え、それは反則すぎるだろ……)


 潤んだ瞳から視線を外すのに、どれほどの理性を必要としたのか、想像するのは難しくないだろう。


「マール共和国でなくても、ようはヤスヴァリード教の癒し手に治癒してもらえばいいことだ。ジャスミン、君の従姉にはグウィン大河を渡ってフラン神聖帝国に行ってもらう」

「神聖帝国に、ですか?」


 思いもよらない従姉の行き先に、ジャスミンは息をのむ。


 ヤスヴァリード教の神の名前を知り、神の代理人とも称される皇帝が納める神聖なる国。

 このヴァルト王国にもっとも近く、もっとも隔たりのある国。

 そのフラン神聖帝国にたった一人の女性の命を救うために送るというのだ、神に戦いを挑んだ男の子孫であるジャックが。


「ジャック様、ヤスヴァリード教の信徒にとっても、神聖帝国の奇跡の担い手の力の恩恵を授かるのは、難しいのです。いくら、リディが敬虔な信徒だからといっても……」

「奇跡の担い手のあてならある」

「えっ」


 ジャスミンは、驚き目を見開いた。


「そもそも、リディア・クラウンが神聖帝国まで無事でいられるかどうかが、すでに賭けだ。この国を出てしまえば、神の目は行き届いている。ある程度は彼女自身の信仰心で持ち直せる。だが、根本的な解決にはならない……」

「それで、その担い手のあてというのは……ジャック様に神聖帝国の神官にお知り合いがいるということですか?」


 結論を急ぐジャスミンに、ジャックは観念したようなため息をつく。


「正確には、俺ではなくて父にあてがある」


 どういうことなのかと、まばたきをしたジャスミンに、ジャックはますます困ったように続ける。


「君の従姉を救ってもらうように、父を説得する」

「ジャック様、それではまるで……」

「必ず説得する」


 不安そうなジャスミンに、ジャックは力強く言った。


「たしかに、父を説得するのは難しいことだが、必ず君の従姉を救ってみせる。約束する」

「ですけど……」


 不確かであることを隠そうともしないジャックに、ジャスミンは不安を拭いきれない。そんな彼女の肩においてあった手に、イザベラは軽く力をこめる。首をひねって見上げてきたジャスミンに、イザベラはその童顔に優しく微笑む。


「お嬢様、ジャック様におまかせしましょう。わたしたちにできることがあれば、別ですけれども、ね」

「ベラ、でも……」

「大丈夫です。信じましょう。リディア様のことなら、きっと神がお守りくださります」


 ジャスミンは、小さくそうねと答えてジャックに向き直る。


「リディは、きちんと治癒ができればここに帰ってこられるのですよね」

「もちろんだ。そのつもりでいる」


 一度目を閉じて、ジャスミンは胸の中に残っている不信感を吐き出した。


(ベラの言うとおりよ、わたくしはリディのために何もできない。ジャック様にまかせるしかないのね)


 ゆっくりと赤いまつげに縁取られたまぶたを押し上げて、ジャスミンは頭を下げた。


「ジャック様、リディを、従姉のリディア・クラウンをどうか助けてあげてください」


 ほっとした笑みが、ジャックの厳しかった顔に浮かんだ。


「では、準備が整い次第、リディア・クラウンにはフラン神聖帝国に向かってもらおう。早ければ、明日にでも。父は必ず説得する。だから、順番は逆になるが、父を説得して書かせた書簡は、彼女を追い越す形になる」

「あの、ジャック様、そのよろしければ教えてくださいそのコーネリアス様がお知り合いだという方はどのような方なのですか?」


 イザベラの遠慮がちだけども当然の疑問に、ジャックは困ったように言う。


「俺の伯父だ。父の兄。二十三年前、神聖帝国に亡命したギルバート・フィン=ヴァルトン。今は、別の名前を名乗っているらしい。俺も直接関わったことないから、あれだが……すまない、これ以上は俺からは言えない」


 ジャックにとって父王がどのような存在なのか、ジャスミンはまだ会うことはなかったけれども、なんとなく月虹城の雛菊館で見聞きしたことから感じ取っていた。


(ジャック様が事実上の国王と言われていても、お倒れになったコーネリアス様の影響力は健在なのね)


 実際にはジャスミンは、コーネリアスと十年前に一度会っている。けれども、ジャックに化物呼ばわりされたショックで、何一つ記憶に残らなかった。


「わかりましたわ。わたくしにできることは、ジャック様とリディを信じることだけですわね」

「それだけで、充分だ」


 もう、ジャスミンの顔は青ざめていなかったし、瞳も潤んでない。


(君に信じてもらえるのが、こんなにも嬉しいとはな……)


 むず痒くて温かい感覚を、ジャックは久しく忘れていた。


 だから、調子に乗ってしまったのだろう。もっとジャスミンにいいところを見せてやろうと、油断してしまった。


「そうだ、ジャスミン。準備が整い次第出ていってもらうことになるから、今夜は彼女の側で付き添ってみてはどうかな?」

「よろしいのですか?」


 ジャスミンの顔が嬉しそうに輝く。


「起こしたりしなければ。今は絶対安静だからね」


 慎重にと心に決めてジャスミンに、リディアのことを話に来た。それなのにジャックは、最後の最後で油断してしまった。


 もし、ここでジャックがかっこつけようとしなければ、誰も傷つかずにすんだというのに。

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