十七歳の少女

 ジャスミンはまったく食欲がわかなかった。けれども、無理にでもとイザベラに諭されて、温め直されたパンを頬張る。少しだけと思っていたのに、あっという間にハーブを練り込んだパンを一つ平らげてしまった。パン一つだけでは足りなかった。彼女はポトフもサラダも黙々と食べる。味はそれほどわからなかったけれども、空腹を満たすことで乱れていた心が落ち着いてきた。


 ろうそくやオイルランプの灯りに浮かび上がる小花柄の壁紙は、やや日に焼けて色褪せている。気持ちに余裕がでてきたジャスミンは、長いこと使われていない部屋だと聞かされてはいたけれども、管理が行き届いた立派な部屋だと感じ取った。


「この国は、本当に豊かなのね」

「ええ、お嬢様はまだ雛菊館の周囲しかご存知ないでしょうけど、王都のアスターも、花の都と讃えられるのがよくわかるほど、美しくて豊かな国ですわ」


 ようやく気持ちが落ち着いた主人に、イザベラは胸をなでおろす。とはいえ、王国への賞賛の言葉には、少しも嘘はない。

 そうでなかったら、王族のためとはいえ四つも立派な屋敷を維持できないだろう。今は無人の王の子女のための南の館――柊館も、この部屋と同じようにきちんと管理されている。

 ジャスミンとイザベラがしみじみとしているところへ、メリッサがやってきた。続き部屋の寝室の用意がきちんと出来ているのか確かめてきたのだ。


「そう言っていただけるのは、すべてコーネリアス様のおかげです」


 メリッサは、最初は冷たくて固い印象が強くてとっつきにくかった。けれども、ジャスミンはもうメリッサが若くして雛菊館の使用人をまとめるほど有能なメイドであることを知った。それから、最初の印象ほどとっつきにくわけでもないことも。


「わたくしは、狂王ロベルトの治世を経験したわけではございません。ですが、コーネリアス様が兄君たちとともに傾いた国を建て直してくださいました。そうでなかったら、このような恵まれた生活など、とても考えられなかったでしょう」


 例えば、メリッサがジャックやコーネリアスを語るとき、声にわずかではあるものの熱がこもり、普段より饒舌になる。特に、以前仕えていたジャックにことになると、普段は硬質な金色の瞳も、輝く。

 雛菊館に到着した日に、入浴中にメイドから聞いた『メリッサは特別』がどういう意味だったのか、三日目にはジャスミンも把握している。

 同じ七竃館に保護されている従姉のことも心配だけど、いやだからこそ、心配に押しつぶされないように気をまぎらわせる必要があった。


(この際だから、訊いてしまおう。メリッサはたぶんジャック様のことを……)


 部屋を明るくしている寝室から手にしてきた燭台をマントルピースの上に置いたメリッサの背中に、ジャスミンはできるだけ刺々しくならないように気をつけながら、慎重に声をかけた。


「そういえば、メリッサはこの七竈館でジャック様の身の回りのお世話をしていたとか聞いたけど」

「ええ、わたくしのような者を、お側においてくださいました」


 ジャスミンとイザベラには、メリッサが謙遜しているように聞こえた。ただの嫌味に聞こえてもおかしくないのに、言葉通りに伝わった。

 同じメイドとして、イザベラはやりづらい上司だと思っていたけども、意外なことに仕事に関することは相談しやすかったし、頼りになることが二日目でわかった。


(メリッサ様って、厳しすぎるところあるけど、本当に嫌味がないのよねぇ)


 給仕係のそれも雑用として七竃館に入ったのに、ひと月ほどでジャックの目に止まり、王太子付きのメイドになった。だから、ジャスミンが雛菊館の浴室で聞いたような口さがない噂も多い。


(悪い噂なんて気にしていたら、きりがないし、心に魔に食われてしまうわ)


 神の加護はもう与えられないとわかっているのに、ジャスミンはまだヤスヴァリード教の教えが染みついているのだと、苦笑する。


(でも、これは噂なんかに関係なく、わたくしが確かめておきたいことなのよ)


 まっすぐメリッサを見つめて、ジャスミンは口を開いた。


「メリッサは、ジャック様のことをどう思っているの?」


 かすかに、ジャスミンがメリッサに注視していなければ気がつかなかっただろほどに、メリッサの肩が震えた。

 振り返ったメリッサは、怒っているように見えた。実際、彼女は怒っていた。それから、恐れてもいた。


「わたくしに、どのような悪い噂が広まっているのかは、把握していますが、すべて事実無根です」


 メリッサの声は強張っている。それは、誤魔化したいとか、はぐらかしたいとか、言い逃れるためではなかった。


「わたくしのような者がジャック様を誘惑しただとか、ありえません。そのような噂は、ジャック様への侮辱です」


 彼女は抗議していた。彼女は、ジャスミンを好ましく思っていたのだ。信頼すらし始めていた。そのことに関しては、彼女自身とても意外なことだった。自分が心から信頼できるのは、後にも先にもジャックだけだと疑うことすらなかったのだから。

 自分の悪評でジャックが貶められることを、メリッサが心から恐れている。

 ここまでくれば、ジャスミンの疑念はほぼ確信に変わっている。


(やっぱり、ジャック様のことが好きなのね。でも、わたくしは、彼女の口から直接、彼女の気持ちを聞きたい。噂とかではなく、ジャック様がどう考えているのかでもなく、メリッサがどう思っているのか、聞きたい)


 先ほどよりも、ずっと慎重にジャスミンは言葉を選ばなくてはならなかった。


「メリッサ。わたくしは、あなたがどう思っているのか、あなたの口から聞きたいの。あなた……ジャック様のことを愛しているのではないの?」


 慎重に言葉を選んだ結果、ジャスミンの問いは聞いていたイザベラがびっくりするほど率直だった。

 イザベラも、薄々感じてはいた。けれども、いやだからこそ、触れてはならないと考えていたのだ。


(お嬢様、それはあんまりすぎますわよ。メリッサ様がどんな想いを寄せていても、報われないんですよ。ましてや、ジャック様の婚約者のお嬢様からそのような……)


 軽いパニックを起こしているイザベラは、ことの成り行きを見守るしかない。


 イザベラの心配をよそに、ジャスミンは真剣な眼差しでメリッサの答えを待っている。率直な問いと、その真剣な眼差しのおかげか、メリッサはしばらくためらったあとで、珍しく自信なさそうな声で答えた。


「ジャスミン様がおっしゃったような感情は抱いておりません」


 肩を落としたメリッサの視線が宙をさまよう。


「たしかに、そうした感情を寄せていた時期もあったかもしれません。たしかに、わたくしはジャック様をお慕いしております。心から。わたくしのような者の命でよければ、喜んで捧げます。ですが、アンナ様のようになることを、望んではいません」


 未婚の王の最愛のメイドの名前を口にしたとき、少しだけまたメリッサの方が震えた。


(どう考えても、意地悪なこときいてしまったわよね。でも、はっきりしておきたかったし)


 メリッサが嘘がつけない人だということには、すでに気がついていた。

 彼女に申し訳ないと思いつつも、心を開いてもらうには、そうするしかないのだと、ここ数日ずっとジャスミンは悩んでいた。

 いつも感情を表に出さないメリッサは、とっつきにくいわけではなかったけれども、何を考えているのかわからなくて不安になることもある。雛菊館の使用人たちを束ねる立場にあるのだから、もしかすると、なにか一人で抱えこんでしまうのではないかと、ジャスミンは心配だった。たしかに、メリッサは二十四歳という若さなのに、とても有能だ。彼女がいなければ、ジャスミンはこれほど快適に雛菊館で新しい生活をスタートできなかっただろう。でも、有能だからといって、万能ではない。心を開いて、自分をもっと頼ってほしい。それが、女主人としてのつとめでもあると、ジャスミンは考えていた。


「ありがとう、メリッサ。ごめんなさい、どうしてもあなたの口からあなたの気持ちを聞いておきたかったの」


 ジャスミンは、目を伏せた。真剣に答えてくれたメリッサに、彼女も応えようとした。


「来年の春の結婚までに、わたくしはこのヴァルト王国の王妃にふさわしい女にならなくてはいけないの。そのためには、雛菊館の女主人として認められたいのよ」

「ジャスミン様は、すでに雛菊館の女主人です」

「ありがとう、メリッサ」


 もしかしたら、リディアのことで自覚しているよりも張り詰めていたものが、切れてしまったのかもしれない。テーブルの下でハンカチを握りしめるジャスミンは、まだ十七歳の少女だ。


「でも、わたくしはまだ全然なにもできないし、メリッサとイザベラたちがいなかったら、何もできないわ。でも、それではだめなのよ」


 硬化していたメリッサの雰囲気が少しだけやわらぐのが、イザベラにはわかった。


「もっとしっかりしなくてはならないの。だって、雛菊館の人たちを守るのは、女主人のわたくしなのよ。だから、女中頭のメリッサに、もっと信頼されたいの」


 でもと、うつむいたジャスミンは力なく続ける。


「でも、こんなことを尋ねて、心を開いてもらおうなんて、間違ってたわよね」


 メリッサは、決して自分からジャックへの想いを話したりはしなかっただろう。


(すっきりしているのは、わたくしだけよね。わたくしだって、きっとこんな意地悪なこと聞かれたら……。こんなだから、リディのことも守れなかったのよ)


 空腹を満たして気持ちが落ち着いたようだったけれども、やはりそうではなかった。


 すっかり落ちこんでしまったジャスミンに、メリッサとイザベラが何か言おうとしたけれども、ノックする音に邪魔された。

 メリッサとイザベラの目が合う。メリッサが、小さく頷いて対応にでる。もういつもの、彼女だ。


 二言三言、古巣のメイドと言葉を交わしたメリッサは、一度背後のジャスミンの様子をうかがってから、首を縦に振り、扉を閉める。

 ジャスミンの元に戻ったメリッサは、いつもなら真っ先にやり取りの内容を告げていただろう。けれども、珍しく今回は違った。


「ジャスミン様、わたくしはジャスミン様でよかったと思っております。こんなわたくしのような者にまで、心配っていただけるのです。胸を張ってもよろしいかと……」

「メリッサぁ」


 涙ぐむジャスミンに、メリッサは本題を告げる。


「ジャック様が、リディア様のことでご相談したいとのことです」


 あいかわらずの口調で続けられて、ジャスミンは二度三度とまばたきをした。


「ジャック様が? 今から?」

「ジャスミン様がよろしければ、すぐにでもこちらにおうかがいしたい、とのことです」


 ジャスミンの肩が小刻みに震える。


「ど、ど、どうしましょう。わ、わたくし、こ、こんな服で、しかも……」


 今さら何を言うと、イザベラは呆れてしまった。


(まったくお嬢様ときたら、あんな下らない痴話喧嘩をしたあとで、そんなことを心配するなんて……お嬢様らしいけど)


 呆れて、クスッと笑ってしまった。なんだかんだで、ジャスミンはまだ十七歳の少女だ。


「メリッサ様、構いませんとお伝え下さい」

「ちょっと、ベラぁあああ」

「もうすでに、そのようにお答えしてあります」

「え、なんで、メリッサもぉおおお」


 ジャスミンは素敵な女主人に――ヴァルト王国の王妃になる。イザベラは、まだこの国を知っているとは言い難いけれども、そんな確信のような予感があった。

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