ジャックの決断
ジャックはジャスミンを使用人たちにまかせて、ようやくリディアの様子を見に行くことができた。もちろん、その前に一緒に行くとジャスミンが言い出したけれども、メリッサがうまくなだめてくれた。
(まったく、メリッサのやつ。俺のそばにいた頃よりも、生き生きしているじゃないか)
彼女の過去を知っているジャックにしてみれば、それはこの上なく喜ばしいことだ。そのために、有能な彼女を手放したのだから。
(だからといって、俺を困らせるなよ)
すでに乱れていた三つ編みを解いた彼は、盛大に頭をかきむしった。
「あー! ジャスミンだけは、巻きこみたくなったのに」
まだひと月も経たないうちに巻きこんでしまった。かきむしって、声をあげて、少しは冷静を取り戻せた。と同時に、今度は激しい自己嫌悪が襲いかかってきた。
(あー、絶対、嫌われた。ついカッとなって、怒鳴りつけてしまったからな。今頃、絶対に嫌な奴って思われたに決まっている。最悪だ)
もちろん、杞憂だ。
ジャスミンも同じように彼に嫌われたのではと、イザベラに泣きついていると知ったら、彼はどうしただろうか。少なくとも、廊下の壁に頭を打ちつけたりはしなかっただろう。
そんな頭をかきむしったり落ちこんだりと忙しいジャックを、執事のアーサーが咳払い一つで現実に引き戻す。
「ジャック様、リディア様のご様子をお確かめになるのではなかったのですか?」
「あ、ああ、そうだったな」
手ぐしで髪を整えて、ジャックは両手で頬を叩いた。
七竈館は、雛菊館よりも大きい。部屋数も敷地も、倍とまではいかないけれども多くて広い。それもそのはずで、七竈館は王太子とその妃、二人分のために作られた館だ。
今はジャック一人のための館となっているせいで、空き部屋もあった。ジャスミンのために急いで整えられているだろうカサブランカの間にほど近いその部屋は、王太子妃が貴婦人たちと交流するためのサロンに使われていた空き部屋だった。ジャスミンにその部屋だと気取られないようにと彼女を案内させたのとは別のルートを、ジャックは行かなければならなかった。階段を二度も昇り降りする遠回りを強いられるルートだ。それもこれも、万が一ジャスミンにばったり鉢合わせないためだった。
ようやくたどり着いた部屋では、禿頭のデイビッドを始めとする七竈館の医師団が、リディアが眠るベッドの周りを囲んでいた。簡素なベッドは、階下の使用人たちが使っているものだ。
雛菊館から来た女医のカレンも、先に来ている。
彼女は、もうすでにあらかたデイビットから話を聞いているのだろう。三十過ぎという、若手の主任医師の彼女は、一気に老けこんでしまったように見えた。それほど憔悴しきっていた彼女だったけれども、ジャックが現れると、すぐに居住まいを正した。その表情は、今にも泣き出しそうなほど追い詰められていた。何か言おうと口を開いて、すぐに閉じてしまった彼女は、弁明の言葉を必死で探していたのだろう。けれども、どんなにさがしても、惨めな言い訳しか見つからなかった。
浅い寝息を立ているリディアの青白い顔を覗き込んで、ジャックはカレンをまっすぐ見据える。
「カレンとか言ったな」
「はい」
ジャックが予想していたよりも、彼女は打ちひしがれていた。責任を問われると恐れているのだろうけれども、それ以上にリディアに対して何もできないのが悔しいに違いない。彼女も医者だ。それも、三十過ぎで、雛菊館の医師団をまとめる立場を手に入れるほど有能で、誇りも持っている志高い医者だ。
「リディア・クラウンの経歴を君に伝えていれば、もっと早く対処できたか?」
嘘でも、はいと言えばいいと、わかっているのに、カレンはすぐに返事ができなかった。医者としての矜持が邪魔をしたのだ。
「……わかりません」
やっと絞り出せた声は、弱々しい。打ちひしがれている彼女に助け舟を出したのは、好々爺然としてるデイビットだった。
「ジャック坊、いじめてやるな」
禿げ上がった頭を見下ろして、ジャックは軽く肩の力を抜く。庭園を駆けずり回ってあちこちつくった傷を手当をしてくれたのが、デイビットだ。七竈館を離れた時期も、彼は付き従ってきてくれた。ようするに体のことに関しては、知られたくない恥ずかしいことまで熟知されている。ジャックの頭が上がらない数少ない人物の一人だ。
二十歳にもなって、ジャック坊と子ども扱いされるのは、面白くない。けれども、八つ当たり気味で必要以上にカレンにきつい態度をとってしまったのは、認めざる得なかった。
「珍しい症例、だそうだな」
いくらか、ジャックの声が柔らかくなったのが伝わったのだろう、カレンは知らず知らずのうちにうつむいていた顔を上げる。
「それでも、リディア・クラウンが過去にヤスヴァリード教の治癒の奇跡で、一命をとりとめたことがあると、わたしは知っていた。彼女がこの国に来ないようにするべきだったのは、わたしだ。珍しい症例だが、わたしは可能性を予測できた……いや、予測し対処するべきだった」
責任は自分にあると、ジャックは言っているのだと、カレンは気がついた。
「カレン・ダートア、君には、今後も雛菊館でジャスミンたちの体を守っていってほしい」
咎められることはなかったけれども、カレンは喜べなかった。声にならない気持ちを、なんと呼べばいいのかわからなかった。ただ、頭を下げることしかできなかった。
ジャックは、そんな彼女から何かしらの新たな覚悟を感じ取ったのだろう。
ひとしきり彼女がリディアの近況を報告してあることをデイビットに確認すると、別室で休むように告げた。カレンは、素直に従うことにした。経験にないほど憔悴しきっている自覚はあったのだ。
弱いけれども、リディアは安定した寝息を立てている。今はもう安静に休ませることしかできない。
やるべきことはやり終えているので、退出するカレンに主任のデイビット以外の医師たちも何とも言えない複雑な表情で続いて出ていった。
リディアの周りに残ったのは、ジャックの他に、デイビットとアーサーの年寄り二人だった。
「さて、どうするんじゃ?」
口調こそ軽いけれども、デイビットはジャックに賢明な判断を求めている。背が低い彼は、冗談すら許さない厳しい目つきでジャックを見据えてきているのだ。
ジャックは、目を閉じてしばらく熟考する。
(このまま、リディア・クラウンに死なれるのが、一番困る。それだけは、避けなければならない)
取るべき手段は、一つしかない。先ほど、輝耀城から呼び出した男たちと話しているときには、すでに見つけていた手段だ。けれども、できることなら彼女をこのまま、この国で癒やしてやりたかったのだ。
最後の悪あがきの沈黙のあとで、ジャックは深く息を吐いてまぶたを押し上げた。
「デイブ、彼女の命はあと何日もつ?」
「何とも言えんよ」
肩をすくめた老医は、やりきれない表情でリディアを見下ろす。
「何とも言えん。ジャック坊、お前さんがさっき自分で言ったじゃろ、珍しい症例だと。こうしてわしらが話している間かもしれんし……だが、ひと月以上ということはないじゃろ」
「もって、ひと月、か」
彼女次第というところも大きいのだろう。ジャックたちには理解できない、神への信仰心というものがものをいうのだから。
「魔女のクスリのほうは、なんとかなりそうか?」
「それは大丈夫じゃ。急性中毒、こうして一日ばかし安静に寝かしておけば、すっかり抜けるじゃろう。もしかすると、依存症もあるかもしれんが、それはまぁ、少なくとも昨日までは日常生活にそれほど支障はきたしておらんかったようじゃし、そのくらい強い信仰心があれば、心配するほどではない」
「そうか」
大きな不安要素が一つでも減っただけで、ジャックはほっとした。
「これは、わしが言うのもなんじゃが、反体制派が絡んでいるというのは、ちょいと飛躍がすぎると思うがのぉ。教会が魔女のクスリの奇跡代わりに使っておったことくらい、わしも知っておる。この嬢ちゃんは、熱心に通っていたらしいじゃないか。教会の罪だとして、反体制派がでてくるのは、ちょいと、のぉ」
ジャックは、デイビットを否定するように首を横に振った。
「彼女、馬車の中でうわ言のように、こう言ったんだ。簒奪者の息子、ってね」
「それは……」
初めて知ったのは、デイビットだけではなくアーサーもだった。
驚いて掛ける言葉が見つからない二人に対して、ジャックは父親によく似た面白がるようなそれでいて腹の底が読めない笑みを浮かべた。
「魔女のクスリは、幻覚妄想状態に陥る。暗示もききやすい。まぁ、そういうつもりだったんだろうね」
ふっと息をついた彼は、リディアの頬を軽く撫でる。
「明日にでも、彼女には神聖帝国に向かってもらうように、手配する」
「神聖帝国に?」
思いもよらない決断に、デイビットは目を剝く。
「どうするのかと訊いてきたのは、デイブじゃないか」
「しかし、帝国じゃなくても、他に……」
「他にない。マール共和国は遠すぎる。神聖帝国なら、順調に河を渡れば十日でいける」
こともなげに言ってのけるジャックに、デイビットはまだ納得できない。
「この嬢ちゃんの親類でも、あの国におるのか? おらんじゃろう、あの国には」
「いないだ。だが、俺には一人、あてがある」
ジャックが誰のことを言っているのか、デイビットはわからなかった。けれども、アーサーはわかってしまったようだ。
「しかし、あの方はコーネリアス様の頼みならば何でも聞き届けるでしょうが、ジャック様がいくらコーネリアス様のご子息とはいえ……」
「無視されるだろうな」
ジャックは苦々しくアーサーの主張を認めた。彼は直接会ったこともない人物だけれども、どういう人となりなのかは多少は聞いている。
(俺だって、他に方法があれば、そっちを選んでいるよ)
力なく笑ってジャックはもう一度、リディアがちゃんと眠っていることを確かめるように顔を覗きこんだ。
「父上からお願いしてもらうように、俺が父上に頭を下げるさ」
ジャックはこともなげに言ってのけるけれども、長年この月虹城に努めてきた年寄り二人には、あまりにも困難な試練に思えた。
解いていた黒髪を手早く三つ編みにまとめて、ジャックは眉尻を下げた。
(父上に話をつけに行く前に、ジャスミンに話しておかないと、だよな)
気が重い。つい先ほど、あれほど怒鳴りつけてしまったのだから、当然だろう。
どんよりとした声で、ジャックはアーサーに尋ねる。
「ジャスミンは、どうしている?」
「先ほど、軽めのお食事をとられたようですよ」
「そうか……」
特大級のため息をついたジャックに、アーサーは容赦なく言う。
「ジャック様、あれほど心配して駆けつけてきたジャスミン様に、まず話をするべきですよ」
「わかっている。デイブ、アーサー、彼女に何かあったらすぐに知らせてくれ」
ニッコリと笑う執事を恨めしそうに睨んでから、ジャックは部屋を出ていった。
最後まで急ごしらえの病室に残ったのは、医者のデイブと執事のアーサー。
年老いた二人が、扉が静かに閉まると同時に椅子で腰を休めたのは、自然の流れと言うものだろう。
「なぁアーサー、ちらっと話は聞いたんじゃが、ジャスミン様はそんなにおっかない女なのか?」
「おっかないというより、とても気の強いお人だと、わたくしは思いましたけどね」
会わせろの一点張りには閉口したものの、正直なところ親しい者のために駆けつけられる心を、アーサーは好ましく思っていたのだ。
口元に笑みを浮かべて、自慢のあごひげを撫でながら、彼は続ける。
「まるで、痴話喧嘩でしたよ」
「痴話喧嘩とは、奇妙な話じゃな。ジャック坊が言うには、ジャスミン様は……」
「初めから全部、ジャック様の勘違いだと、わたくしはわかってましたよ」
長年ジャックを見守ってきた盟友の人を食った笑顔につられて、デイビットも笑う。
「なんだか、面白くなりそうじゃな」
ひとしきり笑ったデイビットは、あらためて眠るリディアを見やった。
「この嬢ちゃんも、楽しめたらよかったのになぁ」
「まったくですね」
年寄りの二人には、リディアが背負ってしまった運命があまりにも不憫でならなかった。
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