試練の始まり
ヴァルト王国の九月の雨は、ジャスミンにとっても気が滅入るものになっていた。
ましてや、明日はジャックに会える日だ。文通を続けているけれども、前回の予期せぬ訪問からまだ一度も会っていない。
(やっぱり、手紙では伝わらないことばかりですものね)
窓の向こうは、まだ降り止まない雨の帳がどんよりとした雲から垂れ下がっている。窓の映る整った眉を、彼女は情けないハの字に変える。
「明日は、せっかくの日なのに……」
「きっと晴れますよ」
「だといいけどね、ベラ」
すっかりお気に入りになったブレンドティーの香りが、彼女の鼻孔だけでなく心までくすぐる。
いつもなら、午後のお茶の時間はリディアがいた。今日は、教会にって、まだ帰っていない。彼女がいないお茶の時間は、あまり楽しくない。
奇妙なことだけれども、祖国を離れて雛菊館に来てから、ジャスミンはリディアと親しくなった。意外なことに、リディアも『秘密の庭園』シリーズの読者だったのだ。悔しいことに、彼女のほうが先にシリーズ最新刊まで揃えていた。それはともかく、同じ隠れ腐女子同士、意気投合しないわけがなかった。作者のララや、腐女子メイドたちから、ボーイズラブの底なしの奥深さを知り、近頃はイザベラをどう引きずりこもうか二人でよく画策している。
(ベラは好きそうで、意外とキスシーンだけで顔を赤くしちゃいそうだものねぇ)
まさか長年仕えてきた主人が、そんなことを考えているとは、イザベラは夢にも思わない。だから、そのため息を、まだ帰らないリディアを心配する気持ちが込められているのだと誤解する。
「リディア様、遅いですね」
「こんな日まで、教会に行かなくてもよかったのにね」
明日のための長めの入浴のせいで、このお茶の時間もいつもよりも遅い。
イザベラは、リディアほど敬虔な信徒ではないから、昨日から降る雨と明日のジャスミンの支度を言い訳に、雛菊館に残ったのだ。
壁の時計を見れば、もう夕方の四時を過ぎている。一時間もすれば、夕食の時間だ。
(いくらなんでも、遅すぎるわ)
胸騒ぎを覚えて、胸元を押さえる。もう、神が加護を与えてくれる聖石はないというのに。
ただ、ジャスミンのその胸騒ぎには、まったく根拠が無いわけではない。
リディアは、三日ほど前から体調を崩しがちだったのだ。半日ほど寝こんだこともある。体がだるくて、朝起きるのも大変だと聞いたのは、つい昨日のことだ。医師団にも診てもらった。けれども、特に異常はないという。
(アスターの大きな施療院に行って、一度診てもらったほうがよさそうですね)
主任のカレンの申し訳なさそうな顔と、リディアのすぐれない表情を同時に思い出す。
大きなため息をついた彼女に、イザベラは提案する。
「お嬢様、探してもらえないか、メリッサ様に一度話をしてきます」
「そうしてちょうだい。迷惑をかけるのはどうかと思うけど、さすがに遅すぎるわ」
イザベラは、メリッサを探しに行く。
(治癒の奇跡があれば、教会で元気になって帰ってこられるのに)
ヴァルト王国は、医療の国だ。神の奇跡なんてない。そもそもこの国の教会は、リディアのような国外から来た敬虔な信徒が神に届かなくともと、祈りを捧げるだけの場所だ。
ジャスミンは、まだ医療というものがどういうものか、身をもって理解していない。毎朝の検診も、その一部だとわかっている。けれども、習慣となってしまった今は、実感がない。ジャスミンの体はカレンが目を輝かせるほど、健康的だったらしい。
一向に降り止む気配を見せない窓の外を眺めていると、イザベラが顔色を変えて戻ってきた。
「お嬢様、大変です! のんきにお茶をしている場合ではございません!」
ジャスミンの記憶にないほど、イザベラは動転している。どうしましょうどうしましょうと、歩き回る彼女をなだめて事情を問いただすひつようはなかった。
彼女の連れてきたメリッサが、あいかわらずの仮面のような無表情で簡潔に教えてくれた。
「ジャスミン様、先ほど七竈館より、ジャック様が月虹城に戻る途中で体調を崩されていたリディア様を保護したと連絡がありました」
簡潔に教えてくれたはずなのに、ジャスミンの理解が追いつかない。まばたきを繰り返す彼女に、メリッサは続ける。
「詳しいことはまだわかりませんが、リディア様をしばらく七竈館で診るそうです。残念ですが、ジャスミン様、明日は……」
「明日のことはどうでもいいわよ!」
ジャスミンは思わずテーブルを叩いてしまい、ティーカップが悲鳴を上げた。
「今すぐに、七竈館にリディを迎えに行くわ」
有無言わせないジャスミンに、カレンはメリッサの様子をうかがい、イザベラはピタリと足を止めた。
七竈館からは、医師団の中から誰か一人よこすようにと、それも念のためにと言われている。ジャスミンにリディアを迎えに来るようには、言われていない。カレンには、経験上、ジャスミンは行かないほうがいいことがわかる。メリッサも、当然わかっているだろうと、思いとどまらせることを期待していた。
ところが、メリッサは誰も気づかないほどかすかに笑ってこう言った。
「かしこまりました、ジャスミン様。ただちに馬車の用意をいたします」
馬車の手配に行くメリッサを、カレンは慌てて追いかける。けれども、カレンは薄々、もうジャスミンの決定はくつがえらないのだと、気がついていた。
西の雛菊館と東の七竈館をへだてるのは、広大な庭園だ。
急いでいるときほど、迷路のような庭園を横切るのは避けなければならない。最短距離で行けるのは、ジャックと庭師たちだけだ。
馬車の中でやきもきしながら、ジャスミンは何度もイザベラから借りた懐中時計を見る。
四つの館を囲む石畳で舗装された道を、グルリと半周しなければならないのは、とてももどかしかった。
「ジャスミン様、申し上げにくいのですが、今、行ったところで……」
「わかっているわよ、カレン。でも、リディはわたくしの従姉なのよ」
ジャスミンがどこまでわかっているのか、カレンは不安を覚える。と同時に、医療が神の治癒というものと別物なのだと理解させるには、ちょうどいい機会だとも考えていた。
(それにしても、いったい何が原因なのよ)
彼女は、リディアの倦怠感の正体を突き止められなかった。しばらく様子見して続くようなら、城外の施療院に送ろうと考えていた。そもそも、リディアはおまけだ。カレンたち雛菊館の医師団は、目の前にいるジャスミンのためにいる。
(責任、取らされたら、どうしよう……)
考えたくないけれども、最悪の事態を考えてしまう。
(せっかく、主任の立場を手に入れたところなのに)
不安がるジャスミンとイザベラ、自分の進退を考えざるえないカレンと、胸の内を無表情の仮面で隠したメリッサ。四人を乗せた馬車は、雨の帳を突き進む。
そのころ、ジャスミンが向かっているなど夢にも思わないジャックは、輝耀城から呼び寄せた警邏隊と役人たちに、リディアの鞄の中身を突きつけていた。薬包に包まれた茶色い粉だ。
「これが、魔女のクスリだと俺は確信している。出どころは、間違いなく教会だ」
厳しい顔つきなのは、ジャックだけではない。他の面々も、製造を禁じられている薬物を前にして、笑ってなどいられない。
「教会だから手出しができませんでしたが、外に流出させたとなれば、話は変わってきますな」
そう言って不穏な笑みをこらえきれなかった壮年の警邏隊の制服を着た男は、ヤスヴァリード教そのものを嫌っている。教会がこの恐ろしい薬物を製造していると知りながら、長年見逃すしかなかった。彼は、実際に魔女のクスリでボロボロになった犠牲者を知っている。だからなおさら、教会とヤスヴァリード教が憎かった。
今すぐにでも、部下を引き連れて教会に踏みこみかねない彼に、いかにも文官という太鼓腹の男が頬をかきながら水を指した。
「まずは、教会から流出したものだと裏取りをしなくては、教会には手出しできませんよ」
「そんなことわかっている!」
今日のリディアの足取りを確かめるのは、声を荒げた警邏隊の男の部下たちだ。
教会のことも、魔女のクスリのことも、彼らの以前からの頭痛の種だった。けれども、ジャックにはもう一つの懸念のほうがずっと大きな頭痛の種になっていた。
「今回は、おそらく
苦々しい声は、敵対する勢力への敵意よりも、自分の不甲斐なさを悔やんでいるように聞こえた。
実際、彼は悔やんでいた。魔女のクスリのことだけではなく、リディアを七竈館に連れ帰らなければならなくなったあの時から、未然に防ぐことができたはずのことまで、悔やんでも悔やみきれないほど悔やんでいた。
「とにかく、リディア・クラウンの足取りを確かめ、これの出どころを突き止めてくれ。突き止め次第、俺に直接報告しろ。教会に踏みこむのは、その後だ」
最後のは、もちろん警邏隊の男に向けたものだった。不服そうな顔をしたものの、それを口に出すほど男は愚かではない。
教会は、ヴァルト王国にとって一種の治外法権がまかり通る場所だった。正式に取り決められているわけではないけれども、教会の排他的な態度が、いつの間にかそうなってしまったのだ。
魔女のクスリは、炙った煙が幻覚妄想状態を引き起こす。もともとは、疲労回復を主とする効果のために作られた薬だ。恐ろしい中毒性のある副作用をもたらすと知られるようになり、製造が禁止されるまで、そうかからなかった。ところが禁止されてから百年以上経つというのに、いまだになくならない。こうして、ジャックたちの手元に巡ってくるのは、これが初めてではない。禁止されたはずのクスリは、神から見放されたこの国の教会で、奇跡代わりの効果を与えるために、存在し続けたのだ。暗黙の治外法権のせいで、狂王の負の名残である反体制派の隠れ蓑にもされている。
細かいやり方は彼らに任せることにして、ジャックはリディアの様子を見に行こうとした。
(彼女は、この国に来るべきではなかった)
ジャックはこめかみをもみながら、急ごうとした。けれども、玄関のほうが騒々しいことに気がついて足を止める。
(ものすごく嫌な予感がする)
このままリディアの様子を見に行きたかったけれども、得体のしれない予感を放っておけなかった。
玄関に近づくにつれて、嫌な予感の正体がはっきりとしてくる。
ただでさえ頭痛の種ばかり抱えているというのに、ここにきて特大級の種が撒かれてしまった。
「だから、会わせなさいと言っているの」
あれほど楽しみにしていた声だというのに、ジャックは回れ右して逃げ出したくなった。
「リディア・クラウンは、わたくしの従姉よ。顔も見ずに帰れるわけがないでしょう!」
執事のアーサーがなだめているけれども、苦戦しているのがわかる。
「わたくし、帰らないわよ!」
玄関ホールに響き渡るジャスミンの澄んだ声。
ジャックは深呼吸一つして覚悟を決めた。そう、婚約者に会うだけだというのに、彼はいまだに覚悟が必要だった。けれども、今回は覚悟というよりも、彼の中で何かが切れたと言い換えたほうがいいかもしれない。
「君は呼んでない」
トレードマークの三つ編みが乱れるのも構わず、大股でツカツカとブーツを鳴らしながら現れたジャックに、ジャスミンは驚き息を呑んだ。突然のことに驚きはしても、彼女はひるまなかった。むしろ、若草色の瞳にますます強い意思が宿った。
「今すぐに雛菊館に帰れ!」
長いこと見守ってきた執事もたじろぐほど、ジャックは怒っていた。そんな彼を、ジャスミンはまっすぐにらみ返す。
「帰りませんわ。ちょうどよかったわ、そこの爺では話になりませんでしたもの。お帰りくださいの一点張りで」
「俺も同じことを繰り返してやる。ジャスミン・ハル、帰れ」
「嫌よ。わたくしは、リディアに会うまで帰りませんからね」
「彼女は、会わせられるような状態じゃない。だから、今日は帰れ」
「会わせられるような……」
息をのんで狼狽したけれども、ジャスミンはすぐに身を乗り出した。
「リディは、そんなに危ないのね」
ジャックは、しまったとほぞを噛む。ジャスミンの燃えるような赤毛が、逆立ったような錯覚を抱いた。
「そうなのね。なおさら、帰りませんわ!」
完全に傍観者となっているのは、執事のアーサーだけではない。
雛菊館からジャスミンとともに訪れた三人も、それから騒ぎを聞きつけて野次馬根性が抑えきれなかった七竈館の使用人たちも、ちらほらと歩廊や廊下の置物の影から様子をうかがっている。よく見れば、先程まで厳しい顔で話しこんでいた警邏隊の男と太鼓腹の役人まで、廊下の角から顔を出してうかがっている。
「とにかく、帰れ!」
「いいえ、帰りません」
本人たちは真剣なのだろうけれども、周囲の目にはどうしても他愛のない痴話喧嘩に映ってしまう。
「帰れ」
「帰りません!」
帰れ、帰らない、双方一点張りで、語彙力がどんどん低下していることに、二人はまったく気がついてない。そのうち品のない暴言が飛び出すのではと、後ろ暗い期待しているギャラリーは、一人や二人ではなかっただろう。
実のところ、二人とも口汚い言葉で罵ってやりたくてしかたがなかった。ただ、一度口汚い言葉が飛び出してしまえば、修復不可能なくらい相手に嫌われてしまうという恐れが、ぎりぎりのところで抑えている。
それも、時間の問題だろう。二人がぎりぎりを超えるかと言うときになって、口を挟んだ猛者がいた。
「あの、ジャック様、よろしいでしょうか?」
「なんだ、メリッサ。というか、どうして、彼女を止めなかったんだ!」
かつてのお気に入りのメイドにも、ジャックは怒りの矛先を向ける。けれども、メリッサはあいかわらず平然として答えた。
「ジャスミン様がご希望されましたので。ジャック様がおっしゃったではないですか、わたくしはもう七竈館のメイドではないと。それはともかく、ジャック様、今夜は遅いですし、カサブランカの間にでもジャスミン様をお泊めするのが、よろしいかと思います。リディア様の容態が落ち着くまでなら、ジャスミン様もお待ちできるでしょうし、いかがでしょうか」
あーとも、うーともつかない唸り声を、ジャックはあげた。ジャスミンを見やれば、メリッサの援護とも取れる提案に異論はなさそうだった。
「アーサー、カサブランカの間の用意を」
「かしこまりました」
老執事の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、ジャックはげんなりした。
昨日から降り続いた雨が止んでいることに、二人はまったく気がついていない。二人とも雨が止むことをあれほど望んでいたのにだ。
ジャスミンとジャックの、長い試練の夜はまだ始まったばかり。
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