医療と治癒

気が滅入る雨

 ヴァルト王国の花の都アスターがある黄金山脈に近い地方では、九月は憂鬱な季節だ。雨が多い。しとしとと鬱陶しく降る雨は、大抵一日ではやまない。

 この日も、昨日から降り始めた雨が、夕方になっても止む気配をみせない。


 このヴァルトン城で生まれ、大半の人生をここで過ごしてきたジャックも例に漏れず、九月はなにかと気が滅入る時期だった。今年は、特に気が滅入っている。


(なんとか、明日はジャスミンと過ごせそうだが……)


 国中に何百とある施療院の補助金の配分を決めなくてはならない。毎年秋は、忙しい。しかも、今年は国王代理として謁見やらなんやらも一気に増えて、輝耀城に泊まりこむ日が増えることも覚悟しなくてはならない。

 それでも、どうにか明日はジャスミンとゆっくりできるようにと、ほとんど投げやりな気分で勝ち取った休日だ。普段は月虹城に出入りできない官僚たちも、愛しの婚約者に会えない彼のストレスが爆発しないようにと、大いに貢献してくれている。彼らのためにも、ジャックは今からまつりごとのことは、頭から締め出そうと決めた。

 ジャスミンと愛を育むほうが、今は大事だ。もっとも彼の中では、愛を育むどころか、愛の種すら撒かれていない段階なのだ。そう、彼の中では。


(明日は、晴れてくれないかなぁ。せっかくだから、庭園を二人で散歩したいなぁ)


 月虹城へ向かう馬車の中で、明日のデートの期待と天気への不安が混ざりあったため息をつく。


 ジャスミンが忌々しい同人誌に触発されたという非常に複雑なきっかけの手紙のやり取りは、あれから十日ほど一日も開けずに続いている。

 なぜ、近くにいるのに文通をしているのかと、時おり虚しくなるときもある。それでも、ジャスミンと交流できるならと、慣れない恋文を書いているのだが――。


(俺に、従兄上あにうえのような文才があれば……)


 母親譲りの芸術的な才能に恵まれた従兄が、こんなにも羨ましくなる日が来るとは、予想していなかった。

 それほどまでに、ジャックが書く恋文はひどいものだった。

 事務的で表面的なことしか綴れないのが、悔しくてしかたない。彼なりに努力はしている――その証拠に、一枚書き上げるのに五枚は書き損じている――のだが、心をこめようにも、何故か白々しく感じてしまうのだ。と、いうのが、ジャックの言い分だけれども、実際にはただ単に恥ずかしさが先に出てしまうだけだ。

 ジャックは、今でも十年前のジャスミンの泣き顔がふとした瞬間に脳裏をよぎる。踏みこむのが、怖いのだ。踏みこんで、また嫌われてしまうと考えるだけで、躊躇してしまう。


「早く、雨が上がればいいのに、な」


 ため息に窓が白く曇る。瞬く間に、もとに戻ってしまうのだが、憂鬱が目に見える形になって、ほんの少しだけ彼の自嘲気味に口がゆるむ。

 七竈館に帰れば、またジャスミンからの手紙が来ているだろう。彼女の手紙には、雛菊館での暮らしぶりが多く綴られている。彼女には、まだまだ慣れないことが多いらしく、ジャックにしてみれば当たり前なことにも驚いているのが、新鮮だ。ただし、ジャスミンはジャスミンで、なかなか踏みこんだことを書いけていなのは、ジャックといい勝負だ。


 忙殺されている輝耀城での日常を完全に頭から締め出して、ジャックはジャスミンとすごす明日のことを夢想していた。


 輝耀城と月虹城を繋ぐプラタナスの並木道は、緩やかな上り坂になっている。秋が深まればプラタナスも色づき、冬になるころには葉を落とした枝を、黄金山脈から吹き下ろす風が揺らすだろう。

 十二月になれば、社交シーズンが本格的に始まる。特に今回は、年明けに現国王コーネリアスの退位の意向を示すことになっている。それは、公にはされていないけれども、誰もが心得ているはずだ。春先、三月の終わりには、新しい王が立つということも。ジャスミンが熱狂的に歓迎されたのには、そういった大きな変化の一部だったこともある。


(もっとも、父上の体がもてば、の話だがな)


 最後に月桂樹館で父と言葉をかわしたのは、ひと月ほど前のことだ。


『雛菊館の女主人は、華だ。華を咲かせられないようでは、わかっているね』


 もちろん、ジャックはわかっていた。そう答えると、車椅子に座った父は、いつものように笑ってみせたのだ。面白がるような、何かを企んでいるとほのめかしている、あの笑みだ。けれども、ジャックは以前よりも弱々しく感じてしまった。もともと細い体も、ひと回り小さくなった気もした。


 軽い発作を起こしてから、そろそろゆっくりした老後を送りたいと、月桂樹館に引き篭もったときは、嫌がらせだとしばらく腹立たしかった。

 けれども、引き篭もってからひと月後に呼び出されたとき、思い知らされた。


(老後なんて、考えているわけがなかった)


 父王コーネリアスは、そもそも王であることに半生を捧げてきたような男だ。もっとも、それはあくまでも息子ジャックから見たコーネリアスではあるけれども、狂王の暗い時代を経験していない世代の者たち目にはそう映るのも無理はない。実際、コーネリアスは、ヴァルトン城から出ることもままならない体で、傾きかけた王国をおおらかで楽観的な国民性を取り戻すまで立て直したのだ。


「俺には、とても無理だ」


 コーネリアスが体調を崩して公務に支障をきたすことは、これまでも何度もあった。ほんの数年前まで、父王がこのまま息を引き取るのではと、恐ろしくて眠れない夜を過ごしていた。恐ろしかったのだ。父王が背負ってきたものが、そっくりそのまま自分にのしかかってくるのが。

 今ではすっかり死に対する感覚が鈍ってしまった。慣れというものは恐ろしい。だからこそ、こうして意識的に思い起こすのだ。


(あの人は、冬を越せないかもしれない)


 ため息がまた、窓を束の間白く曇らせた。


 九月の長雨は、気が滅入る。

 明日のジャスミンのことを考えていればいいのに、すぐに憂鬱なことばかり考えてしまう。

 晴れていてくれれば、これほど憂鬱な気分にならなかっただろう。


 頭を窓に押し付けて、ジャックは細い雨の糸が織りなす帳の向こうに霞むプラタナスの木々を何の気なしに眺める。見慣れた光景を眺めるのは、嫌いじゃなかった。

 馬車が前に進む。木々が後ろに進んでいく。

 初めて月虹城を出たのは、いつだっただろうか。漠然としか思い出せないほど幼い記憶なのに、なぜか心を踊らせていたのは覚えている。

 とりとめないことを思い起こしたり、考えたりしていると、ふいに目に止まった人影があった。


「あれは……」


 人の出入りが激しいのは輝耀城までで、手前の門で厳しく制限されるので輝耀城から月虹城に向かう道は一気に人通りが減る。まったくいないわけではないけれども、雨の中好き好んで外出する者は少ない。出入りの業者は、別の道が用意されているし、この道を行き来するのは、ジャックのような月虹城の住人か、あるいは休みをもらった使用人くらいだ。

 だから、プラタナスの木陰でうずくまっている人影を、ジャックはあやうく見過ごしかけた。


「止めろ!」


 馬車が止まるやいなや、何事かと訝しむ御者が扉を開ける前に、ジャックは雨に濡れるのも構わず外に飛び出した。


(ああ、やっぱりか)


 プラタナスの木陰にうずくまる人影に駆け寄ったジャックは、舌打ちを堪えなければならなかった。


「こんなところで、何をしている? リディア・クラウン」


 責めるつもりはなかったけれども、ついつい厳しい口調になってしまった。

 リディアは、ビクリと肩を震わせて顔を上げる。ジャックを映したジャスミンよりも深い緑の瞳は、暗くよどんでいた。


「ジャック、様? どうされたの……」

「どうもこうもあるか! 風邪を引くぞ。ここは、お前たちの神の奇跡がない国だと、わかっているだろうが!」


 彼女の瞳がよどんでいることに気がつかないまま、ジャックは彼女の腕を掴み立たせる。


「雛菊館まで、送っていく」


 有無言わせず、ジャックは馬車まで彼女の細い腕を引いていく。本来は明るめの藍色の大人しめの服だったのだろうけれども、雨に濡れて黒っぽく白い肌に張りついている。


「ケイン。ブランケットがあったよな」


 御者台を降りたはいいものの、どうしたらいいのかと戸惑っている若い御者が、急いで茶色いブランケットを用意する。


「歩けるか?」

「……はい」


 弱々しい声なのに、ジャックは拒絶されたように感じた。それでも、おとなしく馬車までついてくるのだから、気のせいだろうと思いこんでしまった。


(教会にでも行っていたなら、魔女のクスリの件を確かめたかったが、無理そうだな)


 彼女のために馬車を止めたのは、メリッサの懸念もあった。もちろん、この雨の中、うずくまる人を放っておけなかったことが大きい。


(しかし、前回会ったときは、もっとたくましい感じだったのにな)


 それに、これほど頑なな様子ではなかった。彼女なりに、この国を理解しようとしてくれている。そう、ジャックは感じていた。それなのに、今はなぜか青い唇を引き結んで、全身で拒絶されている。ジャックに言われるがまま馬車まで行くのも、他に方法がないからだと、無言の主張を続けていた。

 いったいどれだけの時間、雨に打たれていたのだろうか。大粒の激しい雨ではないけれども、昨日から絶え間なく降り続いている雨だ。枝を広げたプラタナスは、ほとんど雨よけの役目を果たしていない。

 御者から受け取ったブランケットを頭から被せて、ジャックは先にリディアを乗せる。濡れてしまった彼を心配そうにしている御者に、大丈夫だと笑った。

 病弱な父の方針で、幼い頃から丈夫な体をと鍛えさせられてきた。少なくとも、折れそうなほど細い体のリディアよりも丈夫な体だ。


「雛菊館に向かってくれ」


 そう言ってジャックも、馬車に乗りこむ。

 リディアは、黒いカバンを抱えてうつむいている。


(礼くらい言ったらどうなんだ)


 息が詰まると、ジャックは首元のクラバットを緩めた。彼はうんざりして、また動き出した馬車の窓の外を眺める。早く雛菊館に着かないかと考えたところで、距離が縮まるわけがない。リディアに気を遣って、若い御者は先ほどよりもゆっくり馬車を進めている。


「月虹城まで乗合馬車が出ているのを、知らなかったのか?」


 沈黙に耐えられなくなったジャックが、窓の外を眺めたまま尋ねる。少し待ったけれども、返事はない。窓がまた束の間白く曇る。


「この時期は雨が多い。晴れる日を選んでられないのはわかるが、雨の日くらい……リディアっ?」


 ドサッという音に驚いてジャックは振り返る。

 反対側の窓に頭を押しつけズルズルと崩れ落ちるリディアを、慌てて抱き寄せる。


「おい、しっかりしろ!」


 ぐったりとしたリディアは、悪夢にうなされるのか聞き取れない声で、苦しそうにブツブツと繰り返している。


「まったく……っ!!」


 床に転がっていた鞄の中から、散らばった中身の中に見たくもない物があった。

 ギリッと音が聞こえてきそうなほど奥歯を噛んで、ジャックはありったけの悪態を飲みこむ。


「……、の、……子……」


 そんな彼の耳は、リディアのうわ言を聞き取ってしまった。その途端、冷水を浴びせられたように固まったジャックは、すぐに御者に鋭い声で行き先を変更させた。



 その日、いつもよりも若干早く七竈館の車寄せに滑りこんできた馬車が完全に止まる前に、ジャックはドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び降りてきた。その腕の中にはぐったりとしたリディアがいた。

 幼少の頃より見守ってきた従僕のアーサーでも、このような振る舞いは驚きを隠せなかった。


「ジャック様、いったい……」

「デイブを呼んでくれ! アーサー、カサブランカの間に彼女を運ぶから、デイブをよこせ」


 カサブランカの間と聞いて、大股で先を急ぐジャックを年老いた彼は慌てて思いとどまらせようとする。カサブランカの間は、王太子妃のための寝室だ。


「カサブランカの間はなりません。他にも今すぐに使える部屋はございます」

「わかった。案内してくれ」


 腕の中のリディアは、もう意識がなかった。

 何事かと慌ただしくなる七竈館を大股でリディアを運びながら、ジャックは矢継ぎ早に指示を繰り出していく。


(くそ、こんなに早く連中が動くとは……もっと早く、メリッサから魔女のクスリの報告があったときには、動くべきだった)


 状況ゲームを完全に見誤っていた。

 ジャスミンは絶対に巻きこむまいと決めていたのに、彼女に付き従ってやってきた従姉の命を脅かしているではないか。

 うたた寝から叩き起こされた老医デイビッドは、リディアを見るなり顔つきを変えた。それほどまでに、深刻な状況なのだろう。


「ジャック様、それで、雛菊館のほうには、どのようにされますか?」

「あ、あー」


 一通り指示を出し終えて、従僕のアーサーにせっつかれて濡れた服を着替えたジャックは、すっかり雛菊館に連絡することを忘れていた。正確には、後回しにするうちに忘れてしまっていたのだけれども。


「いちおう、雛菊館の主任医師に来てもらおう。しばらく、こちらでリディア・クラウンを預かると、今はそれだけでいいだろう」


 それからと、顔を曇らせたジャックは非常に残念そうに続けた。


「ジャスミンには、明日は会えないとも伝えてくれ」


 次に会えるのはいつになるだろうという無言の嘆きを、彼はこのあと無用だったと思い知らされることになる。

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