雛菊館の女たち

 ジャスミンがジャックを見送って力なく椅子に座りこむのと、メリッサがメイドを一人連れてやってくるのは、ほぼ同時だった。


「ジャスミン様」

「うひゃ!!」


 素っ頓狂な声に、メリッサの後ろのメイドが笑いを必死でこらえる。もちろん、メリッサはあいかわらず無表情の仮面をかぶったままだ。


(そ、そういえば、お茶を淹れ直してもらおうって、呼んだわね)


 とりあえず、自分のお茶だけでもと考えていると、メリッサが首を傾げた。


「ジャック様のお声がしたので、二人分のお茶をご用意いたしましたけど、ジャック様はどちらに?」


 そう言われてみれば、後ろのメイドはそのようにワゴンを運んできてくれているではないか。


(案外、中まで声が聞こえてしまうのね)


 気をつけなくてはと、ジャスミンは右手で胸元をおさえる。


「ジャック様は、輝耀城にやり残したことがあるとかで、戻られましたわ」

「そうですか」


 ジャスミンの答えに、メリッサは眉間に軽く皺を寄せたのを誰も気がつかない。


「あのぉ、せっかくですから、ジャスミン様だけでもお茶を淹れ直させていただいてもよろしいでしょうか?」


 おそるおそるといった様子で、メイドが提案する。ジャスミンは、顎のニキビが目立つ亜麻色の髪の若いメイドの名前をまだ覚えていない。何度か見かけているので、顔は覚えているけれども。


(そういえば、あの赤薔薇を届けてくれた双子のメイドは、あれから一度も見かけていないわね)


 まだまだこの雛菊館の生活に慣れていない。早く、使用人たちにとっても良き女主人にならなくてはと、ジャスミンは微笑みを作る。


「ええ、もちろんよ」


 亜麻色の髪のメイドの肩の力が抜ける。つまり、ジャスミンに対して、まだ肩の力が入っているということだろう。


(まだまだ距離がありますわね)


 使用人たちとの適度な距離はたもたなくてはならない。けれども、いちいち肩の力が入ってしまうようでは、お互い疲れてしまう。

 ジャスミンも、無意識のうちに肩の力を抜いていた。

 テーブルの上には、まだ本を入れたままの巾着袋が口を閉じずに放置してある。メイドは新しくお茶を用意するためにテーブルを片付けようと、巾着袋に手を伸ばすのを許してしまった。ようするに、油断していたのだ。


「あっ、そ、それは……」

「えっ?」


 慌てて大きな声を出したのが、よくなかった。驚いたメイドは、巾着袋を落として中身をテーブルの上にぶちまけてしまう。


 ひと呼吸分、時が止まったように感じた。


「きゃぁあああああああああああああ!! こ、これは、そ、そんなっ」


 突然、メイドは興奮した。いや、発狂したと言えるかもしれない。あまりの興奮ぶりに、ジャスミンはあっけにとられて本を取り返すことを失念してしまった。


「いぁああああああああああああ!! 『秘密の庭園』!! ジャスミン様、そ、そそ、その、失礼ですが、お好き、なのですか?」


 興奮するメイドに気圧されて、ジャスミンは考えるよりも先に首を縦に振ってしまう。

 すると、メイドはこれでもかと目を見開き大きく息を吸って――ゆっくりと吐いた。てっきり、三度目の絶叫が鼓膜を痛めつけるのではと恐れていたジャスミンは、構えていた手を下ろす。


「なんということでしょう。ジャスミン様が、腐女子だったとは……」

「スザンナ」

「は、はい!」


 声は落ち着いたものの、興奮にギラついた目のままのメイドは、メリッサに名前を呼ばれるだけで飛び上がった。すぐに、いそいそと自分の仕事に戻る。とはいえ、飲みかけのカップを片づけ、新しいお茶を用意している間も、ずっと落ち着きは戻らない。


(よくよく考えたら、これはチャンスじゃない。そういえば、『秘密の庭園』シリーズは月虹城のメイドが書いているって噂もあって、お兄様が贈ってくれたんですもの)


 もしかしたら、目の前のメイドが作者かもしれない。その可能性だって、充分あったのだ。


(これは、雛菊館の使用人たちと距離を近づけるチャンスではないかしら)


 ジャスミンはテーブルの下で拳を握りしめて、決意する。


「スザンナ、でよかったかしら?」

「は、はいっ!!」


 カップを置くいた震えるスザンナの手を両手で包みこんで、ジャスミンはニッコリと最高の笑顔を浮かべる。


「スザンナ、教えてほしいのだけど、この国にはこういった小説がたくさんあるのかしら? どうしたら、手に入るの? わたくしの手元には、この四冊しかなくて……」


 スザンナの体に衝撃が走る。それこそ、彼女の脳天に雷が落ちたような、激しい衝撃だ。

 ふらぁっと倒れそうになった彼女は、相手が次期王妃ということも忘れて身を乗り出す。それはもう、ようやく見つけた同志を離すまいとするように。


が持っている本でよろしければ、今すぐにでも取ってきますわ! 『秘密の庭園』シリーズは、最新刊の十巻まで全部揃えてますし……」

「えっ、四冊までではなかったの?」

「何を仰るんですか! 『秘密の庭園』シリーズは、十巻まであります。シリーズは完結してませんけど、マクスウェルを主人公にしたスピンオフも、ララが執筆中です。あ、ララに教えなきゃ! ララ、ジャスミン様が読んでいらっしゃると知ったら、卒倒するかもしれないわ」

「ララ?」

「衣装係のララです。眼鏡をかけたおさげの彼女が、『秘密の庭園』シリーズの作者です」

「そ、そんな、彼女が? 嘘、そんな近くにいたなんて、どうしましょう」


 ジャスミンは、すっかりどこにでもいる若い女の一人になってしまった。雛菊館の女主人ではない。


「ジャスミン様も腐女子だなんて、布教が捗ります」

「婦女子? 布教?」


 神なきこの国では、ヤスヴァリード教に限らず、どんな宗教も布教は禁じられている。それなのに、なぜと首をかしげるジャスミンに、スザンナの目が光る。


「そうですね。ララたちを呼んで、まずはジャスミン様にめくるめくボーイズラブの世界を深く知ってもらわないと!」

「ボーイズラブ? ええ、ぜひ、教えてちょうだい」


 ボーイズラブという単語を、ジャスミンは初めて耳にした。それなのに、聞いただけでどういうものか理解してしまった。


「あ、ジャスミン様、今日はご予定がないそうですし、せっかくですからもっと同志を集めても、よろしいでしょうか? あたしだけでは、緊張しますし」

「もちろんよ」


 スザンナは、心得たと館内の同志たちを集めて回る。その中にはもちろん、衣装係のララもいる。

 メリッサは、黙って見守っていた。




「そこは、止めろ! というか、なんでそうなるんだ!」


 ジャックは、わめかずにはいられなかった。

 頭を抱える彼に、メリッサは軽く首をかしげる。


「ですが、ジャスミン様は、純粋に小説として『秘密の庭園』シリーズをご愛読していらっしゃったようですし、作者のララともジャック様が聞くに堪えない掛け算の話で盛り上がってました」

「聞くに堪えない掛け算……」

「お話したほうがよろしいでしょうか?」

「勘弁してくれ。もう聞きたくない」

「わかりました」


 ジャスミンのとんでもない趣味嗜好を知ってしまったジャックは、ただひたすら頭を抱え続ける。


(ま、まぁ、俺がゲイだと誤解されていないだけ、よしとしなければだが……)


 どうもスッキリしない。


「ジャック様、これでジャスミン様と使用人たちとの距離が縮まったのでよかったではありませんか。喜ばしいことです」

「……理解はできるが、納得はできない」


 胸にたまった鬱憤をため息として吐き出してから、ジャックは頭を振って顔を上げる。


「ジャスミンは、雛菊館でうまくやっていけそうか?」

「ええ。今日だけでも、四割の使用人たちの心をがっちり掴みました」


 もう力なく笑うことしか、ジャックにはできない。

 それでも彼は、テーブルに手を伸ばして水をついでおいたコップを手に取る。思っていたよりものどが渇いていたらしく、ジャックは口の端から水が一筋溢れるのも構わず一気に飲み干す。おかげで、一時的にでも気分を切り替えることができた。

 メリッサは、少しだけ残念そうに瞳が揺れる。


「おっしゃってくれれば、新しい水を差し上げましたのに」

「お前は、もう俺のメイドではない。雛菊館の女中頭だ。それに、水を飲む手くらい、俺にはある」


 顎を伝う水を手の甲で拭って、ジャックは首を横に振って笑う。先ほどまでのような力ない笑みではなく、どこか面白がるような、愉快な企みごとをしているようだった。それでいて、何を考えているのかは見せない。父親によく似た笑い方だと、ジャックは気がついていない。


「それで、わざわざ俺をからかいに来ただけではないだろう?」

「はい」


 メリッサはあいかわらず無表情だったけれども、一瞬にして仮面のように硬化する。

 お気に入りとして側に置いておいたジャックでなければ、先ほどまでの彼女との変化に気がつかなかっただろう。それほど、彼女の感情の起伏はかすかだった。


「リディア様のことで、気がかりなことが一つ」


 ジャックは、散々な晩餐のあとで釘を刺しに来たジャスミンの従姉の顔を思い起こす。第一印象は、痩せて神経質そうだったから、ジャスミンの従姉に見えなかった。


(俺と従兄上あにうえは、似すぎているだけなんだろうがな)


 ところが、晩餐のあとで第一印象は早くも上書きされてしまった。

 あの細い体のどこにあんな強い芯を隠しているのだろうかと、不思議に思うほど、強烈な印象に変わってしまった。


「今日、城外の教会から帰ってきたとき、かすかですが魔女のクスリの臭いがしました」

「魔女のクスリ、か。教会帰りでは、珍しいことではないが……わかった。心に留めておこう」

「わたくしも、リディア様のほうにも注意しておきます」

「ああ、そうしてくれ」


 かしこまりましたと、頭を下げたメリッサは、忘れるところだったとわざとらしい嘘をついて、エプロンのポケットから手紙を取り出した。


「ジャスミン様が、『秘密の庭園』シリーズのローズ嬢を真似て、ジャック様と手紙のやり取りをご希望しています」

「メリッサ、そこは黙っていてくれたほうが、ありがたかったんだがな」


 受け取ったはいいものの、『秘密の庭園』シリーズでジャスミンをモデルにしたジョージの赤毛の婚約者の真似をするなどと、理解したくない動機を聞かされては純粋に喜べない。たしかに、作中のジョージと遠く離れた異国の婚約者ローズと手紙のやり取りをしている。


(なんだか、今さらだが、新鮮でいいかもな)


 それでも、初めての手紙だ。嬉しくないわけがない。一人になってから封を開けようと、ジャックはテーブルに手紙を置く。


「ところで、メリッサ。ジャスミンは、俺のことをどう思っているんだ?」


 実は、ジャックはこれが一番聞きたかったのだ。

 まだ、ジャスミンが雛菊館にやってきて二回しか顔を合わせていない。そのどちらも、あまり好印象を与えられたとは考えられない。だからこそ、気になってしかたがないのだ。

 父親に似た笑顔からそわそわしだした彼を見て、メリッサの瞳が揺れた。


「ジャック様、そういうことは、ご自分で直接お尋ねになったほうがよろしいかと」

「……そう、だな。それもそうだ」


 余計なことを聞いてしまったと苦笑するジャックに、メリッサは拳を握りしめたまま頭を下げる。


「ジャスミンを、よろしく頼むよ」


 すっかり薄暗くなった部屋で、ジャックは一人目を閉じる。


「魔女のクスリ、か。厄介なことにならなければいいが」


 思案にふけるジャックをあざ笑うかのように、その予感は的中する。それも、最悪の形で。

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