ジャックの悪夢
ジャックが『秘密の庭園』シリーズと出会ったのは、ジャスミンよりも一年前のこと。当時彼は十四歳。
それまで、従兄のマクシミリアンが父王の補佐の役割をつとめていた。けれどもその年の春先、彼は遠く離れた王国内では王都に並ぶ大都市リセールの行政長官として赴いている。
地方の大学都市で少年時代を満喫していたジャックは呼び戻され、マクシミリアンの代わりに父王のかたわらに立つこととなった。
父王に振り回される毎日を送っていた彼に、ある日与えられたのが、『秘密の庭園』シリーズ第一巻となる『秘密の庭園〜青薔薇の君へ〜』だった。
「同人誌、ですか?」
製本技術が発達しているヴァルト王国では、ツテやお金さえあれば、著名な作家でなくても、本を作ることはできる。部数さえ限ってしまえば、低資金で誰でも本を作れる。少なくない国民がちょっとした贅沢な趣味として、同人誌は作られている。中にはそうした中から、後世まで読みつがれる名作も誕生することもある。
ただし、部数は限られているせいか、一般の書店に並ぶことはほとんどない。年に何度か、各地で市場のように作者が直接売るのが、一般的だ。あるいは、アスターのような大都市にはそういう専門の書店もあるらしい。ジャックが同人誌について知っているのは、その程度のことだ。
そんな同人誌を父から読むように渡されても、ジャックは困惑するしかなかった。
「今、アスターの腐女子たちに人気の一冊らしい」
「それが、どうかしたんですか?」
首をかしげつつも、ジャックは本を開こうとした。
「ここで読むな。七竃館に戻ってから読みなさい」
「え?」
ジャックはますます困惑し戸惑う。面白がるようにコーネリアスは笑った。
「宿題だ。その本は、月虹城が舞台になっている。作者は匿名だが、月虹城のメイドだという噂もあるらしい。どういうことだか、わかるか?」
嫌なことをたくらんでいると確信したジャックは、しばらく考えてから答えた。
「外部に漏れたらまずい事実が書かれていないか、確認しろ、ということですね」
「まぁ、そういうことだ。もし、問題があるようなら、出回ってしまったものをすべて集めて、匿名の作者を探し出さなければならないからな」
ジャックの答えに、コーネリアスはますます笑みを深める。
(あ、絶対なにかある)
そう確信に近い嫌な予感を覚えながらも、ジャックは前から興味があった同人誌がようやく読めるという期待に胸を膨らませた。
未知なる同人誌への好奇心と少しの不安から、その日のうちにジャックは黄色い表紙をめくる。
まさか、自分をモデルにした登場人物が男と恋に落ちる小説だなんて夢にも思わなかった。従兄をモデルにした男に押し倒される前に、限界を迎えて放り投げるほど、ジャックには耐え難いものだった。
(俺はあんな気色悪いこと言わない。
翌日、ジャックは収まらない怒りに顔を真っ赤にして、父王の机に『秘密の庭園〜青薔薇の君へ〜』を叩きつけた。
「今すぐに、全部回収して燃やしてください!!」
「なぜ?」
涼し気な顔で首を傾げる父王が腹立たしいと思ったことは、これまでも何度もある。けれども、これほど腹が立ったことはなかった。
「なぜ? とぼけないでください!! 父上は、この吐き気をもよおす中身を知った上で、俺に読ませたんでしょう? こんな、こんな、こんなっ……」
「わめくな、うるさい」
コーネリアスは顔をしかめてみせるけれども、目が笑っている。
「わめかずにいられるか! こんな、胸糞悪い本、今すぐに集めて燃やしてしまえ!」
「ほぅ、胸糞悪いから、燃やすべきだと?」
左目のモノクルを外して、コーネリアスは呆れたとため息をついた。
「わたしはこう伝えたつもりだ。外部に漏れては困る内容が書かれていないか、確かめろ、と」
ジャックはますます顔を赤くして、口を開いて閉じるを三度繰り返したあと、ようやく言い返す言葉を見つけた。
「ですが、父上!! あ、あんな胸糞悪い本、有害です! 国民の風紀が乱れます!」
「小説はあくまでも小説だぞ。ジャック、お前は現実と小説の区別もついていない馬鹿か?」
悔しそうに地団駄を踏むジャックに、コーネリアスはいよいよ意地の悪い顔をする。
「ジャック、もう一度言うが、あの本を取り締まりたければ、月虹城の機密事項が書かれていないか、隅から隅まで読み通して、探し出すのだな」
「なっ!」
「もっとも、問題の記述があれば、の話だがな」
途中で放り投げた鳥肌モノの本を、まだ読まなければならないのか。そう考えただけで、めまいがする。
「わかりましたよ。見つけて、全部燃やしてやりますよ!」
肩を怒らせて、ジャックは再び忌々しい本を手にする羽目になった。
(今すぐにでも、燃やしてやりたいっていうのにっ)
七竃館に帰ってきたジャックは、非常に不本意ながらも読み進めようと努力した。
(俺はジョージじゃない。俺はジョージじゃない。俺はジョージじゃない。……俺は、こんな気色悪いこと言わない!
自分のことではないのだと言い聞かせていないと、心が折れそうだった。
病弱な未婚の父王に、世間的には私生児。それだけで、ジャックがこれまで知らなかった一部の国民に、悲劇の主人公として受け入れられている。そのことが、どうしても理解できなかった。
(俺はジャック。俺はジャック・フィン=ヴァルトン。俺はジャック)
何度も壁に叩きつけてやりたい衝動をこらえながら、ジャックはページをめくる。
同性愛というものくらい、ジャックも知っている。
学院にいた頃だって、学生街の一部では若い学生に春を売るのが女に限らないのも知っている。学友の中には、両方イケる愉快な奴もいた。
(無理無理無理! なんでそんな簡単に尻の穴に……うへぇ)
言い聞かせているうちに、小説の主人公と自分は別だと認識できるようになったけども、好みというものがある。ジャックが好んで読むのは、少年らしい冒険活劇だ。
世間の婦女子たちに人気だというこのジャンルは、ジャックは生理的に合わなかった。ただそれだけのことだ。
だから、さっさと自分は受け付けないけど、そういうものを好む人もいると割り切ってしまえば、それでよかったのだ。
けれども、やはり複数の男たちから尻の穴を狙われる主人公のモデルが自分だったというのが、割り切るのを邪魔をしてしまう。
たしかに、主人公は自分とは別人だと認識はできるようになった。けれども、少なくともこの『秘密の庭園』シリーズの匿名の作者と、読者は自分がモデルだとはっきりわかっているはずだ。現実の自分に、そういう妄想を重ねられたらと考えたら、恐ろしくて震えてしまう。
それでも、本をこれ以上流通しないようにするためには、父王が言う問題の箇所を見つけ出さなければならない。たとえば、彩陽庭園の道筋や、普段の警備が手薄になりがちな場所などだ。
一冊目ではどうしても見つからず、二冊目に手を伸ばす彼に、音もなく近づく人影があった。
「ずいぶん、熱心に本を読んでいるんだね」
「あ、
顔をあげると、目の前に従兄のマクシミリアンがいた。五つ年上の彼は、コーネリアスの長兄と、辺境伯の娘を母に持つ。幼い頃に両親を喪っている。けれども、私生児のジャックよりも、王にふさわしいと言う人も少なくない。
ジャックと違うのは人好きしそうな雰囲気くらいで、外見は兄弟のようによく似ていた。見る人が見れば、在りし日の六王子の長兄と末弟が並び立っているようだと言うだろう。
「いつの間にと言うほど、俺の存在に気がついてくれなかったのは、悲しいな、ジャック」
大仰に肩をすくめる従兄に、ジャックは違和感を覚えた。
(なにか、おかしい)
そもそも彼は遠く離れたリセールにいるはずで、七竈館にいるわけがないけれども、ジャックは気がつかない。
「
俺をすぐに驚かせようとすると、続けようとして声が出てこなくなった。
(えっ!)
声が出ないだけでない。体が動かせない。指一本、思い通りに動かせないのだ。
わけがわからないジャックは、いつの間にかベッドの端に腰掛けていた。たしかに肘掛け椅子に座って、読みたくもない本を読んでいたはずなのに、だ。
「なぁ、ジャック。お前は、俺がいないと駄目なんだろう? それなのに……」
「〜〜っ!」
妖しく光るマクシミリアンの瞳と、艶っぽい声の響きに、ジャックは悲鳴を上げたつもりだった。
(俺の知ってる
瞬き一つままならないジャックの隣に腰を下ろしたマクシミリアンとの間には拳一つも入らない。
「それなのに、お前は俺に気がついてくれなかった。こんな悲しいことはない。愛しい俺のジャック。またその体に教えこまなくては。ああそうか……可愛いジャック、そうしてほしいと誘っているんだな」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
突き飛ばしてやりたいのに、言うことを聞いてくれない体は、妖しく光る従兄の瞳に見入っている。
マクシミリアンの手が、ジャックの顔に伸びる。右手で顎を捕らえて、左手がゆっくりと右頬に近づいて包みこ――パァン!
鋭い衝撃が、右頬を襲った。それこそ、上体が傾いで肘掛け椅子ごと床に左頬が激突しそうなほどの衝撃だった。あまりの衝撃に、頭が真っ白になる。
目の前の人物に平手打ちされたのだと理解するのに、時間がかかった。そして、目の前に立っているのが誰なのかを理解するのには、もっと時間がかかった。
「…………メリッサ?」
「はい」
じわじわと遅れてやって来た痛みに顔をしかめる。それにしても、なぜいるはずのないメイドが目の前にいるのか、まだ衝撃の余波で頭がよく回らない。
「
「まだ寝ぼけておられるようですね」
すっと手を上げるメリッサに、ジャックはようやく悪夢を見ていたことに気がついた。
マクシミリアンが夢だったことに安堵するとともに、メリッサの手を下げさせなければならなかった。
「だ、大丈夫だ、メリッサ。今、目が覚めたよ」
「そうですか」
手を下ろすメリッサは、あいかわらずの無表情なのに、残念そうに見えた。
今度こそ、ジャックは胸を撫で下ろした。今いるのは、妖しく光る目の従兄に迫られたベッドがある寝室ではなく、その続き部屋の一つだ。懐中時計で時間を確認すると、意外にも書斎を出てから、三十分ほどしか経っていない。
(ああ、そうか。あの忌々しい本の封印を解いたんだった)
その経緯も必然的に思い出してしまって、げんなりする。
(もしかしたら、ジャスミンはあの忌々しい本のせいで、俺がゲイだと誤解している可能性が……)
ジャックは、一人で頭を抱える。そんな彼をメリッサは、かつてはガラス玉のような無機質だった目に若干の軽蔑の念を宿して見下ろしていた。もちろん、頭を抱えているジャックは気がつかない。
「遅くなりましたが、なかなかお目覚めにならなかったので、少々乱暴に起こしてしまって申し訳ございません」
「あ、いや……起こしてくれて感謝しているよ」
本当はまったく少々でなかったと言いたいのを、まだ痛む頬を押さえながら、ぐっとこらえた。あのまま悪夢を見続けていたらと考えるだけで、吐き気がする。
「雛菊館で何か問題でも?」
メリッサが来たということは、そういうことだろうと、ジャックは顔を上げる。
「ええ。なんの連絡もよこさず訪問されたジャック様が、わたくしどもがもてなす前に帰られるという問題が発生しました」
彼女なりの嫌味なのか、ジャックは判断に困った。
(雛菊館にやれば、人並みに表情豊かになると考えたが、そう簡単にはいかないよなぁ)
とはいえ、呼び鈴まで鳴らしておいて慌ただしく席を立ったのは、よいことではない。
「すまなかった。強引に時間を作ったんだが、やり残していたことがあってな」
「嘘ですね」
ジャスミンには通用した嘘を、メリッサは即看破されてしまった。
表情が乏しいまま、彼女は続ける。
「これは推測ですが、ジャスミン様が『秘密の庭園』シリーズを読んでいたことを知ってしまったから逃げ出しただけでしょう」
「うっ」
「ジャック様は、ジャスミン様はもしかして自分が主人公のジョージのようにゲイだと誤解されているのかと考えたのでしょう」
「……」
「でも、もしかしたら、俺の勘違いかもしれない。『秘密の庭園』によく似ているけど、健全な別の本かもしれない。でも、ジャスミンにこの場で本の中身を尋ねるわけにはいかない。どうする? どうすればいい。気になってどうかなりそうだ」
「…………メリッサ」
無表情のまま、メリッサはジャックの口調を真似る。ジャックが制止の念をこめて名前を呼んでも、彼女は止まらない。
「ジャスミンと愛情を育むために作った貴重な時間をふいにするのは、気が進まないが、このままでは気になって気になってそれどころじゃない。ここは、非常に残念だが、一度七竈館で本を確認しなくては。俺の見間違いということもあるだろうし。よし、帰ろう」
「…………」
言い返す気力もなくなったジャックは、膝頭に額がくっつきそうなくらい頭を抱えていた。
「というのが、わたくしの推測です。あくまで推測ですので、図星でも気になさらないでください」
「気にするわ!!」
図星だと言わんばかりに勢い良く顔を上げたジャックは、彼女が例の本を抱えていることに気がついた。彼の視線に気がついた彼女は、すっと本を差し出す。
「落ちておりましたので、拾っておきました」
「あ、ああ」
いまだに、手に取るのも忌々しい本だが、放置しておくわけにはいかない。
「ところで、ジャスミンが読んでいたのは、これで間違いないんだな。その口ぶりから察するに」
「ええ、間違いございません。この『秘密の庭園』シリーズです」
ジャックは、思わず天を仰いだ。神の施しを否定し、神に見放されているというのに、この王国でも嘆きを表す仕草としてよく天を仰ぐ人をみかける。余談だが、ヤスヴァリード聖教の信徒が神に救いを求める仕草だということで、建国以来たびたび天を仰ぐ行為の禁止運動が行われている。
「もし、わたくしの推測通りのことを懸念していらっしゃるようでしたら、杞憂です」
「え?」
間抜けな声を上げたジャックに、メリッサはもう一度繰り返す。
「杞憂です。ジャスミン様は、ジャック様をゲイだと誤解しておりません」
「本当か?!」
「本当です」
神妙な面持ちでメリッサはうなずき、あのあと雛菊館で起こったことを話始める。
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