『秘密の庭園』

 雛菊館に新しい女主人を迎えた三日目からしとしとと降り続いた雨が上がったのは、それから二日後の朝だった。


 ジャスミンは、毎朝の検診にも慣れてきた。いまだにお通じのことを答えるのは恥ずかしいけれども、そのうち慣れる。そんな確信めいた予感がある。

 朝食のあとの、ヴァルト王国に関する勉強の時間は、彼女にとって補完的な時間でしかない。それでも、興味深い話はたくさん聞ける。異国の祖国で教えられるのと、王国で教えられるのとではやはり違うのだ。

 勉強の時間のあとは、軽運動の時間。なかなかハードな時間ではあるけれども、美容と健康のためとあれば、励むしかない。なにしろ、ジャスミンはヤスヴァリード教の信徒ではない。もう神の奇跡に頼ることはできないのだから。

 それから、昼食の時間。

 午後は、その日によって予定が様々だった。


 久しぶりに晴れたこの日の午後、ジャスミンは庭園に面したテラスに出てきた。


「んー、いい天気ねぇ」


 今日は予定もない上に、リディアとイザベラがいない。彼女たちは、五日に一度の休みの日に、花の都アスターにある教会に通うことになっている。

 神なき国に教会があるのは、矛盾している。けれども、外交、交易など、外の国と関わりを維持していく上で、矛盾していても教会は必要だった。布教は禁じられているけれども、リディアたちのように、国外からやってきた信徒たちには、神官と祈りの場が必要だったのだ。

 神の力を借りた奇跡を起こせない神官たちに、なんの意味があるのかと、イザベラが愚痴をこぼしていたのを、ジャスミンは思い出してクスッと笑ってしまう。


「この国に来るまで気がつかなかったけれども、わたくしたちは考えているよりもずっと奇跡に頼って生きてきたのよねぇ」


 神の代理人である皇帝が君臨している神聖帝国では、もっと多くの奇跡があるという。空を飛んだり、風や炎を操ったり、他人の心を読んだり操ったりもするという恐ろしい話もある。けれども、マール共和国では怪我や病気を治す癒し手くらいしかいない。


 大きく伸びをした彼女は、二人がいない間にどうしてもやっておきたいことがあった。

 テラスに出したテーブルの上には、すっかりお気に入りになったブレンドティーと焼き菓子、それから大きめの黒い巾着袋。

 椅子に座ったジャスミンは、周囲に人がいないか確認してから、巾着袋の口を緩めた。出てきたのは、四冊の本だった。


(今日こそ、最後まで読まなきゃ)


 ようやく捻出した一人きりの貴重な時間。

 今はまだ、雛菊館の生活に慣れることが課題となっているけれども、これから先は忙しくなるのがわかっている。


 ひと口、ブレンドティーをすすって、ジャスミンは読み途中の本を開く。

 黄色の表紙には、『秘密の庭園 〜蒲公英の約束〜』とある。『秘密の庭園』シリーズの三巻にあたる本だ。


 もともとこれらの本は、アスターの大学に留学中の下の兄が贈ったものだった。

 作者は匿名だ。けれども、月虹城のメイドが執筆したのではという噂がある。『秘密の庭園』は、王族の日常が詳しく書かれていると花の都のたちに大人気だったらしい。

 妹思いの兄は、その評判だけを聞きつけて内容を知らないまま贈ったに違いない。そうでなかったら、当時十二歳だった妹に読ませられる本ではなかった。

 実際、まだあどけなかったジャスミンが受けた衝撃は、計り知れなかった。恋愛というものは、男と女がするものだと疑うことも知らなかった少女には、男と男の濃厚な恋愛小説はあまりにも刺激が強すぎた。けれども、すぐに愛憎渦巻く男と男の恋の駆け引きに胸を高鳴らせて、濃厚な絡みには赤面しつつも目が離せなくなってしまった。敬虔な母に見つかったら燃やされかねないという、背徳感もあいまって、彼女は『秘密の庭園』シリーズにどっぷりとハマってしまった。


 とはいえ、敬虔な母でなくても読んでいるのがバレたら、燃やされて怒られるに決まっている。

 一人の時間は、とても限られていた。別にそのことが不満だったわけではない。この十年、ジャックを見返してとりこにするために、学べることはすべて学び、自分のものにしてきた。そういう時間に、不満などあるわけがない。けれども、市民に比べたら圧倒的に自由な時間は少ない少女時代を送ってきた。貴重な一人の時間は、ほとんど『秘密の庭園』シリーズの読書に費やしてきたと言っても、過言ではないかもしれない。


 隠れるようにして読んできたわけだけれども、ここは故郷ではないという開放感から、ジャスミンは明るいテラスで読むことにした。

 なにより、『秘密の庭園』の主な舞台の一つになっている彩陽庭園が目の前に広がっているのだ。隠れるようにして読むのは、馬鹿馬鹿しく思える。


 あれから、ジャスミンは一度もお茶を口にしていない。焼き菓子だって、その存在すら忘れている。


「ああ、ジョージ、駄目よ。そんな卑劣な男なんかに……」


 太陽の下で読書している解放感からか、ジャスミンは時折声を出してしまう。


 そもそも、『秘密の庭園』シリーズは、月虹城を舞台に繰り広げられる男と男の恋愛小説ボーイズラブだ。

 主人公のジョージは、病弱な未婚の国王の私生児で七竈館の主人という、ジャスミンにも非常に馴染みのある設定だった。

 ジョージの他にも、従兄のマクスウェルや、異国にいる婚約者ローズなどなど、明らかに実在の人物をモデルにした登場人物たちがいる。


 ジャスミンは夢中になって読みふけるあまり、庭園に続く小道から近づいてくる人影に気がつかなかった。


「やぁ」

「ひゃあっ!」


 椅子から飛び上がらんばかりに驚いた彼女に、声をかけたジャックも驚いた。


「す、すまない。驚かせるつもりはなかったんだ」

「こ、ここ、こちらこそ……」


 何がこちらこそなのかジャスミンにもわからない。とっさに問題しかない本を閉じて、立ち上がるときにさりげなさをよそおって椅子の上に置く。


「わ、わわ、わたくしこそ、ジャック様がお見えになるご予定を……」

「すまない。予定はなかったんだ」

「え?」


 うわずった声で狼狽えるジャスミンを、ジャックはどうなだめたらいいのかわからなかった。


「予定はなかったんだ」


 キョトンとしている彼女に、ジャックはもう一度繰り返した。


「庭園を散歩していたら、君がテラスにいるのが見えてね。いや、本当に驚かせるつもりは、まったくなかったんだ」

「そうでしたの」


 ジャックは、嘘をついた。


(無理やり時間を作って来たなんて、恥ずかしくて言えるわけがないだろ)


 連日、国内の施療院で不正が行われていないかをくまなく確認したり、ジャスミンとの結婚を確実にするために、自分の支持者を増やす工作にいそしんだりと、朝早くから夜遅くまで輝耀城にこもりっぱなしだった。強引に時間を作らなければ、こうしてジャスミンに会いに来ることもままならない。

 この二人が会うのは、あの晩餐以来のことだった。


(やはり、嫌われているのかな。そんなに驚くこともないだろうに)


 内心、ちょっぴり傷ついていたジャックはもちろん知らない。ジャスミンは驚いただけではなく、読んでいた本を知られたくなくて、動揺していたことを。

 胸元を右手で押さえて、ジャスミンは気持ちを落ち着かせている。

 そんな彼女を見て、ジャックは胸が疼いた。

 もうすがることもできない神への信仰の証である聖石はないのに、彼女は他の神の信徒と同じように気持ちを落ち着かせようとしているのが、わかってしまった。


(神にすがるというのは、どういう気持ちなんだろうな)


 ジャックは疼きがもっと醜いものに変わる前に、その感情を胸の奥底に追いやった。

 とにかく、今は気まずいこの空気をどうにかしなくてはならない。

 近くにあった椅子をテーブルに引き寄せて、ジャスミンにも座るようにうながしながら、ジャックも腰を下ろした。


「ところで、一人で本を読んでいたようだけど、雛菊館は居心地が悪いかな?」

「とんでもない!」


 ジャックが言ったことは的外れだけれども、そう思われてもしかたがないことだった。

 つい、大きな声を上げてしまったことが恥ずかしくて、ジャスミンは膝の上にのせた『秘密の庭園』に折り目がついてしまうほど両手に力が入ってしまった。


「まだ慣れないことも多いですけれども、居心地が悪いなんて、とんでもないですわ」

「そうか。しかし……」

「たまたま、ですわ」


 巾着袋を被して表紙を隠している他の本にジャックの視線が移動するのを察知して、ジャスミンは慌てて言葉を紡ぎ出す。言い訳を考えている暇はない。言葉を紡ぎながら、言い訳を考えるしかない。


「久しぶりに晴れましたし、日光浴も兼ねて読書をしたかったのです。わたくしは、先ほどのように、読書に没頭するあまり、周りが見えなくなってしまいますので、一人きりのほうが気が楽なんですの。今日、ようやく、時間ができましたので、少しでも読みかけの本を読んでしまいたかったんですわ。これから、忙しくなると聞かされておりますし、今のうちにと思いまして、無理を言って一人きりにさせてもらったんです」

「そ、そうだったのか」


 一人きりになる時間が少ないのは、ジャックもよくわかる。彼自身、そうなのだから。


(それにしても、ものすごい勢いで話してくるな。あぁ、もしかして……)


 一気にまくしたてられて引き気味だったジャックは、すぐに納得のわけに気がついた。


「もしかして、君は恥ずかしいところを見られたと……」

「えっ!」


 読んでいた本のことがバレたのかと、ジャスミンの背中に嫌な汗が流れる。


(どうしましょう! どうしましょう! さすがに何を読んでいるかまでは、バレていないと油断していましたわ。恥ずかしいなんてものじゃないわよ。ジャック様に絶対に嫌われてしまうわ)


 引きつった笑顔の裏で、彼女がパニックを起こしていることとは、実はジャックはこれっぽっちも気がついていなかった。

 ジャックは、許嫁を安心させるための笑顔を浮かべて、こう言ったのだ。


「突然声をかけたのは、わたしのほうだ。ここは月虹城だし、着飾っていないことを恥じる必要なんて、まったくないよ」

「……っ!」


 的外れもいいところだけれども、ジャスミンはそう言われてようやく自分の外見に注意を向けた。

 前回の晩餐ときに、赤薔薇とたたえた新緑のドレスではもちろんない。

 淡い紫の室内着は、袖口とスカートのボリュームも抑えた実用的なものだ。綺麗に結わえていた燃えるような赤い髪も、読書の邪魔にならないようにと、低い位置で一つにまとめているだけだ。もちろん、化粧もしていない。


(いやぁああああああああああ!!)


 ジャックの的はずれな誤解は、ジャスミンにさらなる羞恥心をもたらすことになった。


「わたしとしては、ジャスミンは華やかに着飾らなくても、充分すぎるくらい素敵だ」


 ジャックの混じり気のない本心は、引きつった笑顔の裏で羞恥心に悶え苦しんでいるジャスミンに届かなかった。

(いやぁああああ!! もう、絶対にお世辞に決まっているじゃない。無理無理、無理!)


 的はずれな誤解をしているジャックだけれども、さすがに本心が届かなかったはわかった。


(あ、わざとらしかったな? 早いところ話題を変えなければ、予定もなしに訪問した俺が嫌われてしまう)


 ジャックとしては、毎回毎回あらたまって訪問するのは、どうかと考えている。今すぐにでも結婚したいのに、それではなかなか距離が縮まらないからと。


 そう、彼はあえて突然声をかけたのだ。そのほうが、打ち解けやすいという打算があったのだけれども、ものの見事に失敗した。

 タイミングが悪かっただけなのだけれども、ジャスミンの衣装に触れたのはいただけないにも程がある。反省して次回に活かすのも、今することではない。今は、なんとかなごやかにジャスミンと楽しいひと時を過ごさなければならない。


「お茶が冷めているようだから、淹れなおしてもらおう」

「そうですわね。ジャック様も一緒に飲みましょう」


 ジャスミンも、早いところ話を切り替えたくてしかたなかった。急いで呼び鈴に手を伸ばしたとき、無意識のうちに膝の上の本をテーブルの上に置いてしまった。


(しまったわ)


 呼び鈴を鳴らしたジャスミンはすぐさま、本を隠す言い訳を考えた。


「読書はまたにしますわ。本はどこにも逃げませんもの」


 つとめてさり気なく、なるべく明るくジャスミンは言いながら、巾着袋の中に四冊の本を押しこんで、テーブルの端に追いやる。


「……ああ、そうだね。本に足は生えたりしないから」


 なぜかやや間を置いてから、ジャックは微笑みながら答えた。そして、すぐに申し訳なさそうに顔を曇らせる。


「すまない。まだ貴陽城でやり残したことがあったのを思い出してしまって……」

「え?」


 慌ただしそうに席を立ったジャックは、心の底から残念そうに続けた。


「また、突然、声をかけてしまうかもしれない。いつもいつもあらたまって晩餐というのは、疲れてしまう。忙しいというのもあるけれども、時間ができたらこうしてふらりとくることを、どうか許してほしい」


 ジャスミンにとって、ジャックの申し出は願ってもないことだった。


「もちろんですわ。わたくしのほうこそ、みっともなく取り乱してしまって……わたくし、まだまだね」


 申しわけなさそうに目を伏せた彼女に、ジャックの胸がキュンと音を立てる。


(あ、ヤバいな、その顔)


 抱きしめたい衝動にかられる。


「では、また近いうちに」


 その衝動を振り払いたくて、ジャックは不自然にならないように気をつけながら、急いでジャスミンに背を向ける。


「いつでも、お待ちしております」


 振り返らないジャックの背中に、ジャスミンは手を振る。


 雛菊館からある程度離れた途端、ジャックはジャケットを脱いで、ステッキとともに脇に抱えた。

 そして、広大な迷路のような庭園を、西から東へと最短ルートを全力で走り抜ける。

 脇目も振らずに向かうのは、彼の居館、七竃館だった。

 実は、やり残した仕事などなかったのだ。

 それなのにジャックは嘘をついてまで、七竃館に帰ったのには、ちゃんと理由がある。


「アーサー、誰も書斎に近づけるな!」


 息をきらして戻ってきた主人に驚く執事に、ジャケットを押しつけて書斎に引きこもる。

 書斎に駆けこんだジャックは、息を整えるのもそこそこに、背の高い振り子時計グランドファーザークロックの振り子を止めた。そして、手慣れた様子で、文字盤の上の長針と短針を回していく。時折針を止めては、行ったり来たり回していくと、カチリと小さな音がした。

 時計の左にある本棚との間に、わずかな隙間ができていた。力を込めて本棚を押すと、小さな空間があらわれる。


(たしか、ここに封印したはずだ)


 本棚の隠し扉の向こう側は、ジャックの前の主たちが秘密の隠し場所としてきた。もちろん、ジャックもだ。

 ひと目を避けたい物は、何も金品とは限らない。

 ジャックの場合は、子どもっぽい冒険小説が一番多い。

 大人三人入るのがやっという小部屋は、入り口を除く三方の壁が棚になっている。

 普段めったに使わないせいで、目的の物を発掘するのにてまどってしまう。


「あった」


 ホコリがついた手で額の汗を拭った彼が探し出したのは、黄色い表紙の本。

 題名は、『秘密の庭園〜蒲公英の約束〜』と書いてあった。

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