雛菊館、事始め

 ジャスミンは、目を覚ましてしばらく見慣れない明るい天井を眺めていた。


(えーっと、ここは雛菊館、よね。わたくし、いったい……えーっと、えーっと……)


 状況がよくわからない。頭はすっきりしているはずなのに、どうもおかしい。


「着替えて、リディからビスケット貰って、それから、そう! ジャック様と……あれ?」


 順を追って、状況を理解しようとするけど、どうしても晩餐が始まってすぐのあたりから曖昧になる。


(ジャック様のお話も、途中からほとんど覚えていないなんて……)


 いつ寝巻きに着替えたのか、食堂からどこをどう通ってこの寝室に着たのか、曖昧どころかまったく思い出せない。


「お嬢様、やっとお目覚めになられましたね」

「ベラ、おはよう」


 いつものように、イザベラが起こしに来てくれたのだと、ジャスミンは体を起こす。

 イザベラは困ったように微笑みながら、風邪を引かないようにとジャスミンの肩にガウンをかける。


「おはようございます、と言うには、ずいぶんとお休みになられていたようですけど」

「へ?」


 きょとんと目を丸くしたジャスミンに、イザベラは懐中時計を取り出して見せる。


「十三時、過ぎて、る?」

「ええ。昨夜は大変でしたし、長旅の疲れもあるだろうと……」

「十三時、過ぎてる」


 ジャスミンは、イサベラの声なんて聞こえてなかった。


「十三時、過ぎてる! いやぁああああああああああああああああああ!!」


 寝坊なんてしたことがないジャスミンにとって、悲鳴ものの失態だった。


 雛菊館中に響き渡るような悲鳴だったけれども、このあと、イザベラから昨夜の晩餐で酔っ払ってしまったと聞かされて、さらにすごい悲鳴をあげることになる。


 朝の検診にきたカレンにもう大丈夫だと太鼓判を押してもらってから、ようやく遅い朝食――いや昼食をとりながら、ジャスミンはため息をついた。


「もう、いや。帰りたい。最悪よ、最悪。絶対、嫌われたわよ」


 朝食は、昨夜の食堂ではなく寝室の続き部屋となる私室でとっている。先ほどメリッサから聞いた話では、来客がないとき、普段はこの私室で食事をすることになっているようだ。

 ジャスミンのために張り替えられた壁紙も、窓際の花瓶に生けられている昨夜の花束も、今の彼女は全く見えていない。

 今、明るいこの部屋は、彼女のどんよりとしたオーラに支配されている。

 イザベラは居心地が悪くてしかたがなかった。


「お嬢様、せっかく温め直していただいたのに、スープが冷めてしまいますよ」

「うん。そうね」


 上の空ではあるけれど、ジャスミンは返事をする。


(聞こえては、いらっしゃるのよね)


 イザベラは、かれこれ九年ほどジャスミンに仕えている。けれども、ここまで落ち込んでいる彼女は初めてだ。祖国にいた頃は、負けず嫌いな性格もあって、なにか失敗してもすぐ次は失敗しないようにと、前向きに考えを切り替えていた。


(どうしたものかしら……)


 今、この部屋にはイザベラとジャスミンしかいない。

 昨夜のことがあって、今日はジャスミンにゆっくりしてもらおうということになったのだ。本当は、雛菊館を案内してもらったり、まだ会っていない使用人たちと顔合わせがあったり、衣装係の採寸があったり、と予定がたくさんあった。それらすべてが急遽キャンセルとなった。

 そして精神的にも休めるようにと、雛菊館の使用人たちはジャスミンと距離をおいている。気を遣わせないようにということだろう。


(いやぁ、でも、あたしもこの空気はきついんですけどねぇ)


 他の使用人たちは、急に自由時間が増えて喜んでいることだろう。そう考えると、イザベラまで憂鬱な気分になってきた。


「ねぇ、ベラぁ」

「なんでしょうか、お嬢様」

「ジャック様、怒っていなかったかしら?」

「お嬢様……さっきから三回目ですよ」


 ジャスミンは、ずっとジャックの反応を気にしている。


「わたしは、お倒れになったお嬢様が気がかりで気がかりで、ジャック様が怒っていらっしゃったかどうかなんて、知りませんよ」

「そうだったわね。あーあ……ほんとに、最悪ぅ」


 手元の懐中時計で時間を確認すれば、もうそろそろリディアがやってくる時間だ。


 イザベラとリディアは、昨日ジャスミンがうんざりした健康診断を順に受けている。


(あれが、三ヶ月に一度とか考えるだけで、恐ろしいわ)


 嫌なことを思い出しかけて、軽く首を振る。


「ところで、お嬢様。お召し上がりになられないようでしたら、片付けますよ」

「え、あ、ちょっと待って」


 すっかり冷めきったスープを、ジャスミンは慌ててかきこむ。どうやら、空腹はしっかり感じていたらしい。パンもサラダもあっという間に食べてしまう。

 綺麗に食べ終えた頃には、どんよりとしたオーラはおさまっていた。どうやら、空腹のせいもあってネガティブになっていただけのようだ。


(そういえば、晩餐のご馳走には、ほとんど手をつけられなかったものね)


 実際にはたった二杯のワインで酔い潰れたとはいえ、病み上がりということで、胃腸に優しい軽い食事にしてあった。けれども、この様子では、夕食は軽くしないほうがよさそうだ。

 ジャスミンは、こうみえて結構食べる。食べるくせに、太りにくいという実にうらやましい体質でもある。


 食器をワゴンに乗せ廊下に出して戻ってくるころには、憂鬱なジャスミンから、ほとんどいつものジャスミンに戻っていた。


 昨夜の失態のショックから立ち直ったジャスミンは、ようやく新しい私室のあちこちに目を向ける余裕ができた。

 張り替えられたばかりだろうクリーム色の壁紙は、無地だ。けれども、目に優しい色合いで、部屋を明るくするのに一役買っている。

 立派な暖炉もある。花の都アスターの冬は、北国の祖国とは別の厳しさがあると聞いている。黄金山脈から吹き下ろす風と雪だ。冬になれば、炎を絶やさない日も来るかもしれない。

 黒っぽい暖炉の上には、一枚の鏡がかけられている。反対側のテラスに通じる窓から差しこんだ陽の光を、角度を変えて反射し、より一層部屋が明るくなっている。

 それから、暖炉のそばの小テーブルの上の花瓶。青いガラスの花瓶には、ジャスミンが生まれて初めてもらった花束が活けてあった。

 先ほどまで朝食が並んでいたテーブルは、同じ家具職人に作らせたのだろう。寝椅子の脚の細工に統一感がある。

 壁際の背の高い振り子時計グランドファーザークロックの横には、本もまばらな書棚と、チェスト。

 午後の明るい日差しが、これほど似合う部屋もそうないのではないか。


 ジャスミンは、ようやくこの部屋の居心地の良さに気がついた。

 戻ってきたイザベラを見上げて、それほど憂鬱でもないため息をこぼした。


「ねぇベラ。さっきカレンに言われたんだけど、本当にお酒は控えたほうがいいのかしら?」

「ええ、もちろん」


 何を今さらとイザベラが肯定すると、ジャスミンはむくれる。


「でも、ジャック様はお酒がお好きなのよ」

「駄目です」


 今度は、きっぱりとはねのけなくてはならなかった。


(まったく、お嬢様ったら、ちっとも懲りてないのね)


 童顔で愛らしい顔では、威厳もへったくれもないけれども、二度と酒を飲もうなどとは思わせないように、厳しい態度を作らなくてはならない。


「お嬢様、お酒は、二度と駄目です。ワインもウィスキーも、東方の珍しいお酒も、全部駄目です。今後、調理に使うときにも、気をつけるように言いつけてありますからね」

「えー」

「えー、じゃありません。お嬢様、昨夜の晩餐は、ジャック様とお二人のものでした。それが、大勢の前で同じことをしてご覧なさい。お嬢様は、王妃になられるのですよ。これから、そういう機会も増えていくでしょう。ジャック様とラブラブになりたいというのは構いませんけど、どうか、そのあたりもお忘れなく」

「だから、少しくらいなら……」

「駄目です」


 ジャスミンは、諦めきれない様子でため息をつく。

 健康診断を終えたリディアがやってきたのは、そんなときだった。


「リディア様からも、ガツンと言ってやってください」

「何を?」


 イザベラは、ジャスミンが母から押しつけられた従姉に苦手意識を持っていることを知っている。

 実際、効果はてきめんだった。なんのことと、首を傾げるリディアに説明する前に、ジャスミンは降参した。


「わかったわよ。わかった。二度とお酒は飲みません! これでいい?」

「よろしい」


 鷹揚にそういったのは、イザベラだけではなかった。どういうやり取りがあったのかはわからないものの、リディアも声を揃えたのだ。


(ベラったら、いつの間にリディと仲良くなったのかしら)


 シュンと落ちこんだジャスミンは、テーブルに両肘をつき組んだ両手の上に小さな顎を乗せる。


「ジャック様に愛されるなら、好きなものは少しでも多く分かち合いたかったのになぁ」


 そのために、毎回毎回ぶっ倒れられていてはたまったものではないと、イザベラとリディアはお互いを見合う。


「イザベラ、喉が渇いたけど、何かないかしら?」

「お茶でしたら、すぐに用意できますわ。お嬢様は、いかがされますか? もちろん、王室御用達のブレンドティーです」

「今すぐ淹れてちょうだい!」


 王室御用達のと聞いて、ジャスミンは若草色の瞳を輝かせる。


(呆れるくらい、単純ね)


 続きの使用人の控えの部屋にお茶を淹れに行くイザベラを見送りながら、リディアは昨夜のことを思い返していた。


(ジャズは、ジャック様に嫌われていると言っていたけど、どうなのかしら。昨夜の様子では、そんな感じではなかったと思うけど。むしろ……)


 彼女は考えごとをするときの癖で、首から下げている聖石を両手で押さえる。


「そういえば、リディ、昨夜、ジャック様と何かお話したそうじゃない?」

「たいしたことじゃないわよ」


 訊かれるだろうと思っていたけども、リディアはため息をついてしまった。


「ジャズは、負けず嫌いだから、もっと気を遣えって言っただけよ」

「負けず嫌い……」


 自覚がなかったジャスミンは、ショックを受けた。

 天井を仰ぐジャスミンの嘆きは、優しい匂いが鼻孔をくすぐるまでだった。イザベラがワゴンにティーセットを乗せて、戻ってきたのだ。


「え、わたしは、もっとすごいことをガツンと言ってたって聞きましたけど」

「そんなことないわよ」


 謙遜もせずにきっぱりと否定するあたり、ガツンとと言うのは噂話特有の尾ひれだったとジャスミンとイザベラは落胆した。実際のところ、王太子のジャックにひるまずに言ってのけるだけでも、充分ガツンと言ってやったになる。けれども、ジャスミンもイザベラもそのことを知らない。

 イザベラは、黄味がかったブレンドティーを注いだティーカップ、焼き菓子を盛りつけた器を手際よく並べていく。


「これが、王室御用達、ね」

「はい、お嬢様」


 雛菊館の女主人として迎えられたとはいえ、ジャスミンは新国の娘だ。大陸西部の一二を争う大国の贅沢には、まだ珍しさがつきまとう。

 王室御用達のブレンドティーは、少々苦かった。苦味と清涼感のおかげで、スッキリした気分になる。


(美味しいかと訊かれると、ちょっと困るけど、薬草の中にはお茶のように煎じて飲むものもあるらしいし。さすが王国のお茶ね)


 リディアは右手を聖石から離して、ナッツが香ばしそうなビスケットをつまむ。


「ところで、ジャズ。気になっていたけど、ジャック様をとりこにするって、具体的にどうとりこにしたいの?」

「具体的?」


 ジャスミンは、きょとんと首を傾げる。

 何を尋ねられたのか、理解できなかったのだ。


「つまり何をもって、ジャック様がジャズのとりこになったって判断するのかってことよ」

「それは、キス、とか?」


 リディアは軽いめまいを覚えた。


「わたしたちが出発する前に、あなたのご両親がキスをするのを見たわ。あなたのご両親って、冷え切っているって有名よね」

「……うっ。そ、そうね、別に、愛がなくてもキスくらいはできもるものね」


 それに、口だけならなんとでも言えることにも気がついてしまった。なにしろ、夫婦になるのだ。世継ぎのこともある。


(リディに言われるまで、考えたことなかったわ。でも、たしかに、なにか、これっというのが、ほしいわね。見返してやったとわかる具体的な何かが……)


 真剣に考え始めたジャスミンに、リディアはやっぱりと小さくため息をつく。


(無理もないかもしれないわね。ずっと見返してやることを目標に自分を磨くことに、全力だったもの。だから、やっぱり気がついていないだけじゃないかしら。ジャック様が、とても好意的だったことに……)


 控えめなノックが聞こえてきた。


「失礼します」


 よく似た声が、二つ重なって聞こえてきた。


 今日は、雛菊館に慣れないジャスミンのために、使用人は極力関わらないようになっていたはずではないのか。

 怪訝そうに首を傾げながら、イザベラが応対する。

 廊下にいたのは、どう見ても双子の若いメイドたちだった。


「ジャック様より、昨夜の晩餐のお詫びのお品を届けるように言いつかってまいりました」


 ぴったりと、十代の少女にはやや低めの声を揃えて、双子の片方が赤い花が一輪乗った銀盆を示す。


 ジャック様からと聞いて、ジャスミンの目の色が変わったのを、イザベラは背中で感じた。

 しかたがないと、イザベラは双子たちを部屋に通した。


 銀盆の上の赤い花を差し出す双子を、ジャスミンは席を立って笑顔で迎える。

 第一印象が肝心だ。横柄な女主人ととられてしまっては、困る。


(ジャック様から、と聞いて、無下にはできないわ)


 なにより、ジャック様からと聞いて気になってしかたなかった。


「ジャスミン様、ジャック様より昨夜のお詫びの赤薔薇です」

「お受け取りください」


 ジャスミンにとって、初めて手にする薔薇だ。お詫びだとしても、嬉しかった。棘を取り除いた茎を手に取る指先が震えるほどに。


「これが、赤薔薇」


 双子たちは、赤薔薇に見とれるジャスミンに満足げな笑みを浮かべて、声を揃える。


「では、わたくしどもはこれで失礼いたします」


 ジャスミンは、双子たちが完全にいなくなった途端に、相好を崩す。


「これが、赤薔薇ですって!!」


 ジャックから贈られなくても、ジャスミンは薔薇の花が好きになっていただろう。

 テーブルに戻っても、しばらくうっとりと薔薇の花を見つめている。


(薔薇には棘があると聞いていたけど、今はジャズに言わないでおこう)


 お茶が冷める頃になって、ジャスミンはようやく顔をあげた。


「わかったわ!」

「何がわかったのよ」


 突然の大きな声に、リディアは驚き顔をしかめる。


「さっきの話よ。ジャック様がとりこになったという具体的な目標よ」


 ジャスミンは薔薇を両手で握りしめ、若草色の瞳をキラキラ輝かせながら目標を高らかに宣言する。


「結婚したいって、言わせるのよ。今すぐ結婚したい。春まで待てないって、ジャック様に言わせるの」


 それは一段とハードルを上げてしまったなと、リディアとイザベラが顔をひきつらせる。


 と、廊下で、かすかだけれども、物音がした。足音でも、物を落としたりぶつけたりするような音でもない。まるで、勢いよく息を吐き出すような、そんな奇妙で不気味な物音だ。

 驚いた三人は、顔を見合わせる。


「失礼いたします」


 メリッサがやって来て、三人とも知らず知らずのうちにひそめていた息を吐き出す。


「どうかされましたか?」


 今日もあいかわらずの無表情で、彼女は尋ねる。


「あ、いえ、なんでもないですわ」


 イザベラがわざとらしいにもほどがある様子で、首を横に振った。

 人形のような表情を変えることなく、メリッサは主人のジャスミンに視線を移す。微妙な笑顔でなんでもないと首を横に振るジャスミンが、赤薔薇を手にしていることに気がついた。


「その薔薇は、どうされたのですか?」

「あ、これは……」


 ジャスミンは、ジャックからお詫びの気持ちとしてプレゼントされたのだと、説明した。


「双子、ですか」

「そう、あんなによく似た双子、初めて見たわ」


 メリッサが、かすかに眉間に不機嫌な皺を寄せたことに、三人は誰も気が付かなかった。それほど、本当にかすかな動きだったのだから、無理もない。


「ジャスミン様、赤薔薇は、寝室に活けますが、よろしいでしょうか?」

「ええ、もちろんよ。今夜こそは、素敵な夢が見られそうね」


 もうすっかりジャスミンは薔薇の花のとりこになっていた。



 ジャスミンに赤い薔薇を届けた双子のメイドは、女装した庭師のトムとサムだった。

 雛菊館と月桂樹館の中間あたりにある薬草園まで急いでやってきた二人は、腹を抱えて笑いだした。ここまで我慢してきたぶん、そうとう笑った。


「なぁ、トム、聞いたか?」

「聞いた聞いた!」


 呼吸困難で窒息する寸前まで笑った彼らは、それでもクスクスと笑い続ける。


「にしても、『今すぐ結婚したい。春まで待てないって、ジャック様に言わせるの』って、やばくないか?」

「やばいやばい。今朝ジャック様なんて言ったか覚えているよな」

「ああ覚えているに決まってるだろ。『今すぐ、ジャスミンと結婚したい!』って、たしかに言ったよな」


 それから、またひとしきり腹を抱えて大笑いした双子は、意地の悪い顔をした。


「どうする? サム」

「決まってるだろ、トム」


 にやりと笑った彼らは、声を揃えてこう言った。


「面白そうだから、放っておこう」


 うんうんと首を縦に振った双子の片割れが、不意に困ったように頭をかいた。


「でも、コーネリアス様にはこのことどう報告する?」

「あー、笑い死んだりしたら、洒落にならないよな」


 知らなければよかったと、ほんの少しだけ後悔した双子たちであった。

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