『秘密の庭園』
ジャックの懊悩
厚いカーテンの隙間から朝日が差しこむ。
ゆっくりと部屋の奥へと、白い光の筋が伸びていく。寄木細工の床から、毛織の黒っぽい絨毯の上へと這うようにして、ベッドへと向かっていく。絨毯の上を進み、やがて白いベッドの足に光の筋が触れたときだった。
シャッと音を立てて、カーテンが勢い良く開かれる。光の筋は一瞬にして、黒い人影と主役を交代した。
「眠れなかった!」
カーテンを開けた部屋の主は、寝不足のストレスを叫ばずにはいられなかった。
窓ガラスに映ったジャックの目は、うっすら充血している。
「なんなんだ! いったい、なんなんだ彼女は!!」
頭をかきむしりながら叫んでから、はっと自分の声の大きさに驚く。
がっくりと肩を落として、ふらふらとした足取りで近くにあった寝椅子に近づいたかと思うと、ボスンと腰を下ろす。頭を抱える彼が一睡もできなかったのは、もちろん昨夜の晩餐のせいだ。
「なんなんだ。なんなんだ、本当に……」
外にもれないようにと、声は小さくしたけれども、とても黙ってなどいられなかった。
目を閉じなくても、昨夜の赤薔薇のようなジャスミンの姿をありありと思い出せる。
「眠っているようです」
メリッサのそのひと言に、ジャックはどれほど安心したことか。
駆けつけた雛菊館の医師団が、彼女の無事を確認する間も、彼は立ちすくしていた。
主任のカレンが、祖国よりジャスミンに付き従ってきたメイドから一つ二つ聞き出すと、助手にジャスミンを担架にのせるように指示をした。そのあとで、カレンはまだ動けないでいるジャックに進み出た。まだ若い女医に、先ほどのメイドがついてくる。
「ジャック様、よろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
状況が理解できずに呆けていた彼は、慌てて居住まいを正す。
カレンの眼差しには、控えめではあったけども、しっかりと批難がこめられていた。
「ジャスミン様ですが、おそらく長旅の疲れや、不慣れな環境におけるストレス、他にもいろいろと精神的な負担はあったでしょう。ですが、何よりお酒に弱かったというのが、今回は大きかったでしょうね」
「お酒に弱い?」
「ええ、そうです」
呆れたようにため息をつくカレンに限らず、この国で医者は王族にも遠慮がない。そして、王族でも健康のこととなると、医者に頭が上がらない。
(ジャスミンが酒に弱いなんて、知らないぞ)
ジャケットのポケットに入れたリストの項目を思い出すけども、どこにもジャスミンとお酒のことはなかった。
うろたえるジャックに、カレンは続ける。
「おそらくジャスミン様ご自身も、自覚がなかったのでしょう。なにしろ、今まで飲酒する機会はなかったそうですから」
ちらりと視線を向けられた童顔のメイド――イザベラは、困ったように、けれどもしっかりと首を縦に振った。
「せっかくの晩餐の途中ですが、ジャスミン様にはこのままお休みいただきます」
医者は、よろしいですか、などと尋ねたりはしない。医療に関わることの多くの決定権は、国王よりも握っているのだから。
こうしている間に、ジャスミンは食堂の外に運び出されたようだ。
失礼しますと頭を下げたカレンの後を追うように、イザベラも足早に食堂を去る。
ずっと立ちつくしていただけのジャックは、体中から力が抜けて椅子に腰を下ろした。
食堂に残っているのは、ジャック、メリッサ、ジャスミンの従姉で私室付き女官のリディアと、それから給仕係のメイドたちだ。
(俺が、一緒に飲もうなどと言ったのがいけなかったのか?)
たしかに、そう言ってメリッサにワインを預けたときに、ジャスミンは一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべていたのを思い出す。ただ、そのときは、緊張しているだろうしと、早く食卓で打ち解けるほうが優先で、気にもとめなかった。
額に手をやるジャックに、メリッサは静かに近づいた。
「お食事のほうは、続けられますか?」
「いや、いい。七竈館に戻るよ」
「承知しました。お見送りいたします」
立ち上がるのも億劫で、自分が思っていたよりも、疲れたのだとジャックは苦笑する。とりあえず帰って休もうと、彼は食堂をあとにしようとした。
そんな彼を、引き止める者がいた。
「お待ち下さい!」
足を止めて振り返ると、リディアが迫ってきたではないか。
ジャックを引き止めた彼女に、メリッサはあいかわらずの無表情であしらおうとした。けれども、ジャックは目でメリッサを後ろに下がらせる。
「君は、たしか、ジャスミンの従姉で……」
「私室付き女官のリディア・クラウンです」
落ち着いた橙色のドレスのスカートを摘んで、リディアは一度軽く膝を曲げる。彼女は胸元の聖石に手を添えて、ジャックをまっすぐ見据えた。
(ここまで物おじしないのも、珍しいな)
お世辞にも友好的とは言い難いリディアの態度に、ジャックは感心する。ジャックを見据える深緑の瞳は、まっすぐ彼を批難していた。
「ジャスミンにワインを無理やり飲ませたのは、ジャック様です。わかっていますか?」
「わたしが、無理やり?」
ジャックは、なぜ批難されなければならないのかわからなくて、不機嫌さを隠そうもしないで眉間に皺を寄せる。
「ええ、そうですとも。ジャスミンは、今まで酒なんて飲んだことがなかった」
「だが、そのようなこと、彼女は言わなかった。そんな素振りも見せようとはしなかった」
たしかにジャスミンの様子に少しも注意を払わなかったのは、自分の落ち度だとジャックは後悔している。
「だからといって、無理やり飲ませたなど、いわれのないことだ」
必要以上に冷ややかなジャックに、リディアは少しも引かなかった。逆に、ずいと一歩前に出た。
「いわれのないことですって? 神の教えがないとはいえ、この国の男でも少しは常識があると思っていましたのに」
「なに?」
聞き捨てならないと、ジャックの声が低くなる。
ジャスミンか、イザベラがいれば、力ずくでもリディアを黙らせただろう。残念ながら、二人ともここにはいない。だからこそ、リディアは今のうちに言っておかずにはいられないのだ。
「あの子が飲んだことがないから乾杯は別のものでなんて、言えるわけがないわ。少しはこちらの立場も考えなさいよ」
リディアは一気にまくし立てる。言葉遣いも、いつもよりも乱暴になっているけども、今、口を閉じたら後悔する。彼女は、怖いもの知らずというわけではない。本当は、逃げ出したいくらいだ。ジャックも、後ろに控えて冷たい敵意を剥き出しにしているメリッサも、思わず手を止めて目が離せなくなっている給仕係のメイドたちも、誰ひとりとしてリディアの味方ではない。ちょっとでも間違えれば、彼女だけでなく、ジャスミン――ひいては、祖国の立場が悪くなる。そんなことくらい、リディアはわかっている。気を抜けば細い足が震えだしそうなくらい、勇気を振り絞って彼女は大国の王太子に立ち向かっていた。
彼女はまくし立て続ける。
「ジャスミンは、きっとこう考えたんでしょう。あのワインを飲まなければ、よからぬ物の混入が疑われてしまう。だから、ここはとりあえず『はい』と答えるしかないって」
「そんなこと、君の想像ではないか」
そう言い返しつつも、ジャックはリディアの言うことももっともだと納得してしまった。
「ええ、想像です。たしかに、その通りです。わたしはジャスミンではありませんから」
リディアは、ジャックの気持ちが揺らいだのを感じた。ようやく肩の力が少しだけ抜けた。
「ジャック様、あの子の夫となるなら、覚えておいてください。あの子は、とても負けず嫌いで、意地っ張りなところがあります。独りよがりのわがまま娘ではないですけど、つまらない意地を張らないよう、少しでも心を配ってあげてほしいのです」
ジャックは、少し考えてから、ひと言だけこう返した。
「…………覚えておこう」
「ありがとうございます」
失礼しますと、ジャスミンたちの後を追いかけるようにリディアも食堂を去る。
しっかり手を止めて、しっかり聞き耳を立てていた給仕係のメイドたちは、精一杯何食わぬ顔を取り繕って、片付けを再開する。
(明日には、月虹城中に広まってしまうな…………)
人の口に戸は立てられない。ましてやジャスミンに合わせて、雛菊館には他の館よりも若いメイドが多い。中止になったことによって、予定よりも使用人たちの遅い夕食は豪勢なものになるだろう。その豪勢な食事に、いったいどんなふうにこの失態が面白おかしく語られるのか。考えるだけで、ジャックはめまいがする。
重い足取りで食堂を後にしたジャックに、メリッサは影のようにつき従う。
「なぁ、メリッサ……」
「たとえ、今夜のことでジャスミン様に嫌われたとしても、これから挽回の機会はいくらでもありますから」
「ありがとう、メリッサ。そうだな、これから、だな」
メリッサは、慰めるときも淡々としている。
それでジャックには、充分だった。
少なくとも、彼が一人で広大な庭園を最短距離で突っ切って、七竈館に帰り着くだけの気力は回復したのだから、とりあえずは充分だったといえるだろう。
けれども、その気力も寝室に引きこもるまでのことだった。
悶々と眠れない夜を過ごす羽目になったのは、再会の晩餐が失敗したからだけではない。
何度も思い返した昨夜の出来事を、朝日の中で性懲りもなく反芻したジャックは、また頭をかきむしる。
「あー、絵姿なんかよりも、百倍は俺の好みとか、反則すぎるだろ」
なんのことはない。
ジャスミンがとりこにすると決めている相手は、すでに充分すぎるほど、とりこになっていたのだ。
「なんだよ、ジャックしゃまって、しゃまって。可愛すぎかよ。可愛すぎだろ」
一晩中、再会したジャスミンにベッドの上で悶え転がっていたというのに、また思い出しては寝椅子の上で綴織のクッションを抱きしめて悶えるている。
とてもとても、人には見せられない姿だ。王太子としてではなく、人として見せられない姿だ。
だから、従僕と幼少の頃から担当してくれている老医が起こしに来る前に、いつもの朝に切り替えなくてはと、努力しているつもりだ。あくまで、つもり、だ。
「あー、結婚したい。今すぐ、ジャスミンと結婚したい!」
ついまた声が大きくなってしまい、また顔を覆う。そのまま、大きく息を吸って時間をかけて吐き出す。
少しは、頭がすっきりしてきた。
(しかし、俺は間違いなく嫌われているだろうな。なにしろ、十年前だって、俺が口をきくなり泣き出したくらいだし)
ジャケットに忍ばせていたメモは、昨夜のうちに破り捨てた。実は、ジャスミンの趣味や好きなもの嫌いなもののリストが書かれていた。結局なんの役にも立たなかったのだが。
「あー、結婚したい」
今度は嘆くようにぼやいて体を起こしたジャックは、だらしなく寝椅子の背もたれに体を投げ出す。
「なんだって、この忙しい時期に彼女を呼び出したりなんか……いや、忙しい時期だから、雛菊館に呼び出したのか」
あの父が考えそうなことが、以前に比べてわかるようになってきた。
雛菊館は、王妃の館だ。夫は国王ただ一人。
本来、王太子妃は、この七竈館の別棟を与えられることになる。それなのに、ジャスミンを雛菊館に迎えたのは、療養中のコーネリアスがいよいよ退位を考えているということだ。
来年の春の結婚。それはつまり、コーネリアスが月桂樹館の主ではないということだ。
少しでも、王家の習わしを知っていれば、誰にでもわかることだ。
早ければ新年を迎える時期に、戴冠が行われるだろうと、噂されている。その証拠にと、結婚前に雛菊館に王太子の婚約者を招いたのだとも言われている。
その噂は事実だ。
遅くとも、十一月の終わりには、コーネリアスは退位する意思を正式に発表する。
ただし、王位を譲る相手が、ジャックでない可能性もある。
十一年前まで南の柊館でともに過ごした従兄かもしれない。
ジャスミンと結婚するためにも、確実に王位を譲ってもらわなくてはならない。ただでさえ忙しい時期だというのに、やらなくてはならない課題が多すぎる。
「さっさと、片付けたいんだがな」
もうしばらくすれば、一日が始まってしまう。
ようやく気持ちが落ち着いてきた。顔でも洗おうと髪をかきあげて腰を上げようとして、彼は気がついた。
「……いつからいたんだ」
あからさまに嫌そうな彼に、クスクスとベッドの方から答える笑い声は二つ。
「サム、いつからだったかな?」
「たしか…………そう、絵姿なんかよりも百倍可愛いのあたりからじゃないかな。トム」
考えていたよりもずいぶんと前から、庭師の双子の侵入に気がつかなかったと知って、ジャックは恐ろしい唸り声をあげた。
「…………死ね」
ありったけの怒りをこめたというのに、双子たちはクスクスと笑うだけだ。
(まったく、まともな庭師はいないのか。まぁ、まともな奴に王国の庭師がつとまるわけがないがな。…………あきらめるか)
ここまで徹底的に笑われると、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなる。
「で、なんのようだ? リセールの
げんなりとした態度は、あからさまに用を済ませて出ていってくれと言っているようなものだった。
「違うよな、トム」
「僕らは、ただジャックの様子を見に来ただけだよ」
「あ゛?」
ジャックの中で、再び怒りに火がついた。
「あとで、昨夜の晩餐の様子をコーネリアス様にご報告に行かなきゃならないんだよな、サム」
「そうそう、そこで今朝のジャックの様子もってことで……」
こらえきれなかったのか、クスクスと双子たちは笑い出す。
「くそったれが」
昨夜の晩餐をやり直せるものなら、やり直したくてしかたがなかった。けれども、どんなに後悔してもやり直しなどできるわけがない。やり直せないから、後悔しているのだ。
頭を抱えたジャックは、双子たちを追い出すことにした。
「トムとサム。一つ頼みたいことがある」
双子がピタリと笑うのをやめた途端、空気がピンと張りつめた。
「我ら庭師の主は、国王のみ。国王の御心に背かないようでしたら、お聞きいたしましょう」
うやうやしく声を揃えるけれども、双子は決して膝を折ったりはしない。
「赤い薔薇を、昨夜の謝罪として雛菊館に届けてくれ」
「拝命いたしました」
ジャックが顔をあげると、寝室には彼一人だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます