晩餐は失敗?

 ジャスミンは、ヴァルト王国は祖国と比べ物にならないほど豊かな国だと思い知らされた。十年前は、幼すぎてわからなかったことも多かったのだ。


(さすが、神聖帝国をしのぐほどの王国、ね)


 食堂と、メリッサは言ったけれども、とんでもない広さと豪勢さだった。

 シミひとつない赤い絨毯に、明るすぎないよう上品に計算され調節された照明。テーブルクロス一枚で、いったいどれほどの貧困層が凍えずにすむかと考えて、ここは別の国なのだとそっと考えを改めた。

 今さらではあったけれども、ジャスミンは自分の結婚の重みを感じた。それは、祖国の未来と同じ重みだった。


(わたくしの結婚に、マール共和国の未来がかかっているのね)


 長テーブルの両端に座ったのは、ジャスミンとジャックの二人だけだ。

 たった二人の晩餐のために、目で確認できた給仕係のメイドは、五人。主人の席についたジャスミンを、リディアたちが見守っている。

 たった二人の晩餐だというのに、まったく心細くない。


(そう、お父様やみんなのためにも、この国の王妃にならなくては)


 ジャスミンをエスコートしたジャックは、実はそれほど嫌われていないのではと考えていた。


(突然泣き出すような人だから、嫌われているのかと考えていたけど、そうでもなさそうだ。緊張はしているようだけど、神に見守られている国で育ったのだから、多少の認識の違いで戸惑うのはしかたないだろうしな)


 文化の違いに、彼女が戸惑うのはしかたない。なにしろ、ヴァルト王国は神がいない唯一の国だ。

 少しずつでもこの国を理解してくれればと、ジャックは前向きに考えている。

 ジャスミンが持ってきてくれた帝国産のワインが注がれたグラスを手にとって、緊張を隠しきれていないジャスミンに掲げる。


「では、我が国の未来の王妃に、乾杯」

「……か、乾杯」


 ジャックは、三つ編みの貴公子と呼ばれるだけのことはある。王太子でもある。自分の見せ方は、しっかり学んできた。特に女性に対しての見せ方は、十年前の一件以来、しっかり身につけてきたつもりだ。


(それなのにどうして、彼女の前にすると自信がなくなってしまうのだろうか)


 それだけ、ジャックにとってジャスミンは特別だった。


 ジャスミンは、初めてなのだと悟られないように努力しながら、グラスに口をつけた。


(ちょっと酸味があるけど、不味くはないわね)


 むしろ美味しいと、ジャスミンは拍子抜けしたほどだった。


「やはり、帝国のワインは飲みやすいな」

「ええ、美味しいですわ」


 ジャックが舌鼓に素直にうなずいてしまってから、ジャスミンはやはり帝国産の手土産はよくなったのではないかと、不安になった。表面上は、喜んでいるけど、本当はどうなのかと、気になって前菜に手をつけられなくなってしまった。

 そんな彼女の心中を察したわけではないけれども、ジャックはいかに帝国のワインが素晴らしいか語り始めた。


「そうだな。だが、飲みやすくて、美味しいだけじゃない。そもそも……」


 それはもう、上機嫌に。好きなものを不機嫌に語れる人なんて、そうはいない。国境も関係ないし、信仰だって関係ないだろう。


(ジャック様は、本当にお酒がお好きなのね)


 ジャスミンにはワインのよさなんて、正直なところよくわからなかった。けれども、いかに素晴らしいか熱弁をふるうジャックに、気がつけばジャスミンは聞き入っていた。

 前菜の葉物のサラダとチーズが、とても美味しい。


「こんな素晴らしいワインがなかなか手に入らないのが、悔しくてならない。だから、帝国との関係を改善しなくてはならないわけだ」


 ジャックの話は、帝国のワインから次第に因縁の帝国そのものの関係に変わっていった。


「そのためにも、君を王妃に迎えて、マール共和国の力を借りられるのは、それだけで素晴らしいことだ」

「ヴァルト王国は、帝国をしのくほど豊かな国ですのに、わたくしの祖国の力など……」

「帝国をしのぐだなんて、とんでもない!」


 ことさら大きな声で否定したジャックの声に、ますます熱がこもる。


「帝国からは、せいぜい一目置かれている程度だ。四百年だ。神からの独立戦争の終結から、もう四百年。因縁だのどうのと言われているが、そんなもの今を生きる我々には、縁のないことではないか。まだ一目置かれている程度だから、こうして帝国のワインを楽しむこともままならない。対等な交易関係を結びたいのだが、なかなか……」


 苦笑するジャックもなかなか様になっていると、ジャスミンはぼんやりと思った。


「それに、ここ百年ほど特にだが、国民の寿命も伸びている。もちろん、喜ばしいことだ。健康な国民が増える。人口増加だ。今はまだ、たいした問題になってはいないが、貧困問題や衛生問題……このまま何も対策を講じなければ、ヴァルト王国の豊かさは失われてしまう。おおらかで楽観的な国民性は、守らなくてはならない」


 出される料理をちゃんと口に運びながらも、ジャックの熱弁は止まらない。


(なんだか、楽しくなってきましたわ。ジャック様は本当に……)


 ジャスミンは、なんだか楽しくなってきた。実は、ジャックが何を言っているのかよくわかっていない。普段なら、とても素晴らしい話をしているのだと内容も理解できるし、わからないことがあれば尋ねることもできる。それなのに、なんだか楽しくて楽しくて、頭がうまく働いていない。


「人口増加に耐えゆる豊かさのためには、何か新しい産業が必要なのだ。医療の次に、機械発明の国として知られる我が国には、それこそ川向こうの帝国が羨むような産業が求められている。俺の孫の代まで続く長期的な政策ではあるが、その要の一つが海洋国家のマール共和国との関係強化だ。我が国には、海がないからな。ともに、新しい力を見つけだし発展していこうではないか、というわけだ。なにかと、医療は異端だのとヤスヴァリード教と相容れないものとされているが、俺はそうは考えない」

「ふふっ」

「あ……」


 短いジャスミンの笑い声に、ジャックの舌がようやく止まった。すっかり相手のことなど気にもとめないで、自分ばかり喋っていたことに、ようやく気がついたのだ。


「すまない。つい、話しすぎてしまった」


 気まずくなって、つい視線を手元に下げてしまう。


(くっそ、こんなはずじゃなかっただろ。なんで、長期政策の話をしてるんだよ)


 女性と接する機会は少なくなかったジャックだが、実は一対一でというのは、これが初めてだった。


 急に黙ってしまった彼も、ジャスミンには楽しくてしかたがなかった。


(なんでしょう。ふわふわ楽しいわ。しっかりしなくてはいけないのに)


 しっかりとした表情を取り繕うとしても、無理だった。


「ふふ、うふふっ」

「ジャスミン? ……っ」


 何がおかしいのだろうかと、顔を上げたジャックの手から、フォークが滑り落ちる。

 頬をほんのり赤く染めて妙に色っぽくなったジャスミンに、ジャックの頭は真っ白になってしまった。


「ふふ、なんだか、よくわからないのですけど、楽して楽しくて……ふふっ、それにしても、この部屋、なんだか暑いわね」

「ジャスミンっ!」


 ジャックが音を立てて席を立ち、誰もがジャスミンの異変に気がついたときには、もう手遅れだった。


 ふわふわと体が前後に揺れ始めた彼女の耳に、悲鳴のように名前を呼ぶ声も、駆け寄る足音も届かなかい。


「ふふっ、うふふっ、眠くなってきましたわ。ジャックしゃまが……」


 ジャスミンの意識はそこでプッツリと途切れる。


「ジャズ!!」

「お嬢様!!」


 メインの鶏肉のローストのソースがけに顔面が衝突するのを、寸前のところで後ろから抱きかかえるようにして阻止したのは、メリッサだった。


「眠っていらっしゃるようです」


 気持ちの良さそうな寝息を確認したメリッサは、冷静に席を立ったまま動けなかったジャックに伝える。


 初めての晩餐は、こうして最悪な形で終了した。


 長旅の疲れ、緊張、プレッシャー、不安にくわえて、初めての飲酒。

 ジャスミンは、翌日の昼ごろまでぐっすりと眠り続けた。

 当然、その間に起きたゴタゴタを知ることもなく、ひたすら眠りを貪り続けた。

 目を覚ましたジャスミンは、この失態を思い出して雛菊館中に響き渡るような悲鳴を上げることになるのだが、それはまだ少し先のこと。

 今はただひたすら、気持ちよさそうに眠り続けている。


 一方、ジャスミンが夢も見ずにぐっすり眠る雛菊館から最も遠い七竈館では――。


「…………眠れない」


 ジャックは、また寝返りをうって枕を叩いた。


 出ていったときと同じように一人で戻ってきた彼は、口数少なく足早に寝室に引きこもってしまった。

 そのジャックの様子を見かけた使用人たちは、口を揃えて怖いほど深刻な顔をしていたという。

 七竈館の使用人たちは、晩餐の様子を早く知りたかったけれども、ますます気になって数人は巻き添えを食う形で眠れない夜を過ごす羽目になった。月虹城では、夜間の外出は基本禁じられているため、雛菊館で何があったのかを知るには朝まで待つ必要があるのだ。


「くっそ、どうしてこうなるんだ」


 また一つ寝返りをうって、枕に顔を沈めたジャックが、一睡もできないまま朝を迎えるのは、もう少し先のこと。


「ジャックしゃまとか、反則だろ」


 無自覚に振りまいた色気と呂律が回らずに噛んでしまったジャスミンを思い出しては悶ていたとは、ジャスミンは夢にも思わなかっただろう。

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