再会は順調?

 リディアがビスケットを持ってきてくれなかったら、ジャスミンは十年前のあの日以上の失態をさらしていただろう。


「よく我慢していたわね」


 嫌味抜きで呆れてしまうほど、あっという間にビスケットがなくなってしまった。


「我慢していたわけではないのよ。リディに言われるまで、空腹だと気がついていなかっただけで……」


 ジャスミンの言い訳は嘘ではないのに、まるで説得力が感じられない。


「なるほど、途中で軽食を持ってこさせるということも、思いつかなかったわけね」

「そう、そういうことになるわね。……気をつける。本当にありがとう、リディ」


 素直に感謝の言葉を口にするジャスミンに、自然にリディアの口元に笑みが浮かぶ。


(そういう素直なところ、ちょっとうらやましいわ。きっと、ここでもうまくやってけるんでしょうね)


 彼女がビスケットを包んできた布を几帳面に畳んでいると、イザベラがやってきた。

 イザベラは、早速着慣れたメイド服にきがえていた。けれども、その童顔のせいでとてもジャスミン付きには見えなかった。

 疲れをにじませつつも目を輝かせているから、少女みたいだ。


「本当に広いお屋敷ですわね。わかっていましたけど、わたしの部屋から、ここに来るだけで、もぉ……」

「イザベラ、ちょっと落ち着いて。ね?」


 ジャスミンにたしなめられて、イザベラははっと口を閉ざす。


(イザベラの気持ちもわからないでもないのよね……というか、さきほどまで、わたくしもこんなでしたんでしょうね、きっと)


 これはリディアが呆れるのも無理もないと、ジャスミンは苦笑する。


「そ、それにしても、まだ灯りはよろしいのですか?」

「そうね、そう言われてみれば……」


 強引に話題を切り替えたイザベラに言われて、ジャスミンは室内を見渡す。

 いつの間にか、明るかった部屋は、茜色に染まっていた。

 明り取りの窓から差し込んでいる夕日の角度の加減で、ジャスミンたちが小テーブルを囲んでいる中央のあたりは、イザベラが言うとおり薄暗くなっていた。そろそろ灯りをどうするか考えなければならない。


 壁掛け時計を見れば、まもなく五時の鐘が鳴る頃だ。


(きっと、晩餐の準備で忙しいでしょうし……)


 決めかねていると、女中頭のメリッサがやってきた。


「まだ早いですけれども、階下でお待ちしますか?」

「あ、はい!」


 あいかわらずメリッサはニコリともしない。ジャスミンは反射的にスツールから立ち上がる。

 ビスケットを食べて空腹はまぎらわせても、緊張まではごまかせなかった。


(やっぱり、ガチガチに緊張していたのね)

(お嬢様、いよいよですわね! 今のお嬢様なら、誰がどう見ても、素敵なレディです!!)


 気合の入ったジャスミンに、リディアは微笑ましくなり、イザベラはこっそり心のなかでエールを送った。


 ではと、案内してくれるメリッサに、ジャスミンは問いかける。


「ところで、お供の方はどういった方をお連れしてくるのかしら?」

「お供の方は、おりません」

「え?」


 キョトンと思わず足を止めそうになったジャスミンに、メリッサは続ける。抑揚のない淡々とした彼女の声が、ほんのりと熱を帯びている。


「ジャック様は、ぞろぞろと有象無象のクズを引き連れて歩き回るような方ではございません。ましてや、ここは月虹城です。王族の唯一と言っていい私的な場所です」


 あいかわらず無表情なのに、声だけは熱を帯びて饒舌になっている。


「同じ月虹城の中で、わざわざ供の方だなんて、よほどな事情がない限り、ありえません」


 十年ぶりに婚約者と再会するのは、たいしたことではないと言われたような気がして、ジャスミンは凹んだ――りはしなかった。


(そうよね。化け物じみた婚約者なんかって考えていらっしゃるのでしょうね)


 逆に見返してやろうと決意を新たにするのが、ジャスミンだ。


「でも、王太子ともあろうお方がお一人というのは、あまりにも不用心すぎませんか?」


 イザベラの疑問は、至極当たり前なことだった。

 いくら王族の私的な場所といえども、庶民の暮らしとはまるで違う。実際、わざわざ王妃一人のために、一つの館があるくらいだ。使用人もそうとうな数でなければ、維持できるわけがない。護衛の一人もいないというのは、あまりにも不用心だ。

 けれども、メリッサはそんな当たり前な疑問を一蹴する。


「ご心配いりません。ジャック様は、病弱なコーネリアス様の言いつけで、幼少の頃よりお体を鍛えています。ご本人も、じっとしていらっしゃるよりも、お体を動かされることを好みます。手練の刺客など、何人も返り討ちにしてきましたわ」


 メリッサは、まるで自分のことのようにジャックを誇らしげに語る。表情はとぼしいけれども、声は熱を帯びているし、目が少し輝いている。


(もしかして、彼女、ジャック様のことが好きなのでは……)


 ジャックのことを語るときは、少しだけイキイキするメリッサに、ジャスミンは少しだけ胸がざわついた。

 入浴のときのメイドたちの会話が、脳裏によみがえる。


(ジャック様がいる七竃館で、特別……)


 メリッサは女中頭には若すぎる。

 もしかしてと、婚約者と目の前のメイドとの関係に疑惑がうずまいた。だから、メリッサの次の言葉を聞きのがすところだった。


「ジャック様は、ジャスミン様が来られる日を、ずっと心待ちにしておりました」

「えっ」


 心臓が跳ね上がったのがわかった。


「そ、それは、ど、どど、どういうこと?」


 動揺するあまり声が裏返ってしまった彼女を、メリッサは足を止めて振り返る。


「ジャック様が心待ちにしておられたジャスミン様が、どのような方かと、わたくしはずっと気になっていたのです」

「そ、そう、じゃなくて……」


 心待ちにしていたという意味が知りたいと、ジャスミンが叫びたかった。

 けれども、その前に近くの階段をメイドが上がってきた。玄関ホールで迎えてくれた二人のうちの一人だ。


「ジャック様が、お見えになられました」

「わかりました」


 そう答えたメリッサの声には、さきほどまでの熱はなかった。

 心待ちにしていた意味を尋ねることはできなかったけれども、ジャスミンの心臓は乱れたままだ。


「お嬢様、深呼吸ですわよ」

「そ、そうね。ありがとう、イザベラ」


 長年付き従ってくれているイザベラに言われたとおり、深く息を吸って吐く。


(何を期待しているの、ジャズ。わたくしを化け物呼ばわりした男が、心待ちだなんて心にもない話よ)


 気持ちを切り替えたジャスミンは、今度こそと婚約者が待つ玄関ホールに向かう。


 蔦模様の深緑のドレスに、ジャスミンが生まれもった燃えるような赤い髪。若草色の瞳は、強い光を宿している。

 ジャックの到着を知らせに来たメイドも、誰もがジャスミンを振り返らずにはいられなかった。

 そのくらい、今のジャスミンは鮮烈な印象を与えていた。


 花束を持ったジャックも、例外ではなかった。

 三つ編みの貴公子は、許嫁の鮮烈な姿に、不覚にも何ヶ月も前から用意してきた歓迎の言葉を忘れてしまった。

 ジャスミンは、そんなジャックにあでやかに微笑んでみせる。


「お久しぶりです。ジャック様、あいかわらず凛々しくいらっしゃるようで、何よりですわ」


 再会の言葉にしては、いささか挑発的だ。

 本当は、十年前のジャックの姿などおぼろげにしか覚えていない。何しろ、直接的ではないにしろ、化け物よばわりされたのだ。その暴言がことさら印象に残ってしまい、他のことなどほとんど忘れてしまっている。


(ふふん。言ってやったわ。言ってやったわよ。ずっと、ぎゃふんと言わせてやるって、神に誓ってきたもの)


 すっかり言葉を失っているジャックに、彼女はもう守ってくれない神に感謝する。

 心の中で勝ち誇るジャスミンだけれども、ジャックには再会を喜ぶ許嫁にしか見えなかった。ジャスミンの挑発的な態度は、まったく通じなかったのだ。

 ふっと口元を緩めた彼は、花束を差し出す。


「ようこそ、我が王国へ。ジャスミン・ハル。ささやかだが、庭園の花だ」

「ありがとう」


 ジャスミンが花束を受け取るのは、これが初めてだった。

 大陸の北に位置するマール共和国では、まだ経済的にも不安定ということもあって、花を贈り合う習慣は豊かさの象徴として憧れでしかない。たとえそれが、最高権力者の娘のジャスミンであってもだ。


(花束って、想像していたよりも素敵ね)


 白いアスターや、ピンクのダリア、赤いハイビスカス、彩りも香りも豊かな花束だ。さすがのジャスミンも、肩の力がすっかり抜け落ちてしまった。

 うっとりと花束に表情をゆるめた彼女に、ジャックは完全にさきほどまでの態度を緊張していたのだと思いこんでしまった。たしかに、緊張していたのだけども、挑発的な部分がすっかり見落とされてしまったのだ。


「赤薔薇がなくて、本当に良かった。今夜の君には、赤薔薇もしおれてしまう」

「……」


 ドレスが深緑の蔦模様ということもあって、ジャックはジャスミンを赤薔薇だと絶賛する。


 けれども、ジャスミンの反応がイマイチだった。


(あかばら、あかばら……えーっと、聞いたことあるというか、何かで読んだことがあるような気が……)


 笑顔を張り付かせて戸惑うジャスミンに、ジャックは焦る。


(あれ、俺、またやらかした? 泣かないよな。泣かないよな)


 泣きじゃくるジャスミンは、あのあと厳しい罰を与えられたこともあって、ジャックにとってのトラウマといってもいい。

 焦らなければジャックでも、ジャスミンが薔薇を知らないと気がついたはずだ。王国内でも、高級品種の薔薇を実際に目にする人は限られているのだから。


 戸惑うジャスミンと焦るジャックに、見かねたイザベラが助け舟を出す。


「お嬢様、こちらを……」


 ジャスミンに耳打ちしながら差し出したのは、細長い筒状の包みだった。故郷から持ってきた手土産をここでジャックに手渡すてはずだったと、ジャスミンは思い出した。しかし、手にはジャックにもらった花束がある。初めて贈られた花束を、どうしたらいいものかわからないでいると、今度はメリッサが助け舟を出してくれた。


「ジャスミン様、花束はお部屋に飾らさせますので、一度こちらに」


 名残惜しい気もしたけども、ジャスミンはメリッサに花束を預けてイザベラから手土産を受け取る。


(あとで、花束のことを勉強しておかないと。今は、どうにか押し切って晩餐よ)


 ジャスミンは、包みから細い瓶の口をみせて、居住まいを正した。


「ジャック様はお酒がお好きだとお聞きしましたので、お口に合えばいいのですが」


 伏し目がちにしていたジャスミンは、ジャックの次の言葉には心臓が止まるかというほど、驚いた。


「帝国のワインじゃないか」

「えっ、あ、帝国のものとは知らず、し、し、失礼しました」


 顔を真っ赤にして頭を下げたジャスミンは、故郷に逃げ帰りたくなった。


(なんで、お父様ったら、よりにもよって帝国産を取り寄せるのよぉ)


 飲酒は罪だと考える母親のせいで、ジャスミンは酒の類とはまったく縁のない人生を送ってきた。あらかじめ下調べしていた中に、ジャックが酒好きだとあって、わざわざ父に頼んで珍しくて高級なものを取り寄せてもらったのだ。


(どうしましょう。どうしましょう。間違いなくお怒りよね……あら?)


 ちらりと頭を下げたままジャックの様子をうかがうと、少しも怒ってなどいなかった。むしろ、正反対だった。


「失礼だなんて、とんでもない!」


 顔を上げてほしいと言われて、おずおずと顔を上げれば、ジャックの藍色の目が輝いているではないか。


「君が気にしてくれたように、川向こうの帝国と我が国は、なかなかうまくいかなくてね。ワインは大陸一と名高いのに、なかなか手にはいらないのだよ。実を言うと、わたしもまだ一本しか手に入れたことがない」


 よくわからないけれどもとにかく喜んでもらえたようだと、ジャスミンは胸をなでおろす。

 けれども、本当の試練はこれからだった。

 すでに花束を他のメイドにわたしたメリッサに、ジャックは早速ワインのボトルを預ける。


「メリッサ、今夜の晩餐に出してくれ。記念すべき晩餐だ。これで乾杯しよう」


 せっかく取り戻した笑顔のまま、ジャスミンは固まってしまった。


(乾杯にって、わたくしも、ですわよね。酒乱は恐ろしいと、お母様は口うるさかったけど、大丈夫よね。お父様やお兄様は、好んで飲んでいるもの。それに、ここでわたくしが断れば、毒をなどと余計な誤解をまねいてしまうかもしれないわ。だから……)


 一瞬で、これだけのことが頭を駆け巡ったことに、ジャックはまるで気がつかなかった。


「はい」


 満面の笑みで、人生初めての飲酒を決断したジャスミンを、リディアは心配そうに見つめる。もちろん彼女も、自分が同じ立場だったら、笑顔でそう答えるしかないとわかっている。それでも、嫌な予感としか言いようのないものに、胸元の聖石のペンダントを握りしめた。


「では、そろそろ食堂のほうへ」


 胸の内はどうであれ、表面上はおおむね順調な再会の挨拶を終えたところで、メリッサが晩餐へと誘う。

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