三つ編みの貴公子
いつもよりも早く
そのかわりというわけではないが、彼は重い足取りで書斎にこもるなり机に突っ伏した。
「……どうしてこうなったんだ」
他に誰もいないとわかってはいるが、たまりにたまった憂鬱を吐き出せないでいる。悪態をついて、適当なものに八つ当たりして気が晴れるなら、そうしていただろう。
(俺にどうしろっていうんだ)
暗澹たる思いで右手で鍵をもてあそぶ。
雛菊館での晩餐まで、まだ時間がある。それもわずかな時間だが、まだある。
王太子ジャックは、十年前にこの政略結婚が嫌で泣いた婚約者と向き合う覚悟がまだできていない。
半年――正確には、五ヶ月と十日も時間があったというのに、ジャックは婚約者に会う覚悟ができなかった。
そもそも、彼としては婚約者が婚約者として月虹城に招かれることになろうとは、夢にも思っていなかった。
「普通は、結婚と同時だろ」
恨みがましく声に出したところで、諸悪の根源である父の耳には届かない。むしろ、届かないほうがいいと彼はわかっている。
妻ではなく、婚約者という微妙な距離感に、ジャックは頭を悩ませ続けてきた。嫌がらせとして、これ以上ない絶妙な距離感でもある。
脳裏に浮かんだ愉快そうに笑う父の顔を振り払おうと、右手の鍵を握りしめて顔を上げた。
「くっそ」
骨ばった拳で机を叩きつけてから、彼は机の一番上の引き出しにもてあそんでいた鍵を差しこむ。
引き出しに入っていたのは、婚約者のジャスミン・ハルの絵姿だった。
当たり前だが、十年前の泣き顔ではなく現在の彼女が描かれている。国内に出回っている絵姿と同じものだ。
波打つ赤毛を最大限に活かしたまとめ髪に、アーモンド型の若草色の瞳が見る者の目をひきつける。完成された美しさはないが、親しみやすい愛らしさがそこにあった。
父親譲りの藍色の
「どんな顔をして会えばいいんだ」
十年前の泣きじゃくるジャスミンの姿は、まぶたを閉じなくてもありありと思い起こせる。
(俺と結婚するのが、そんなに泣くほど嫌だったとか、俺のほうが泣きたかったよ)
ジャックは、決して女性が苦手ではない。いつの間にかトレードマークとなった背中の三つ編みと合わせて、三つ編みの貴公子と婦女子にもてはやさるのを、楽しむだけの余裕はある。と、本人は考えているけれども、周囲の人は女心に対しては鈍感だと評価されていた。
そんなジャックでも、ジャスミンは特別だった。
「それもこれも、全部父上のせいで……」
結婚前のこれから半年、どう接したらいいのか、まったくわからない。
本棚に埋まるように立っている
重い腰を上げる前のわずかな逡巡のあとで、ジャスミンの絵姿の下にあった一枚の紙を取り出してから、引き出しを閉める。
「そろそろ行くか」
一語一句を頭に入れたリストが書かれた紙を折りたたんで、ジャケットのポケットにしのばせる。
ようやくジャックは書斎から出る決意をした。もっとも、十年ぶりに婚約者と会う覚悟はできていない。
そもそも、晩餐の身支度のために早めに輝耀城から戻ってきたのだ。引きこもっていた彼は、衣装係のメイドと年老いた執事の小言を聞き流しながら、ほとんど代わり映えしない衣装に着替えさせられる。その際、書斎から持ってきたあのリストも新しいジャケットに移し替えるのを忘れない。
(やはり、メリッサを雛菊館にやったのは失敗だったかな)
流行りのスタイルだとしめられたクラバットが鬱陶しくて、お気に入りのメイドのことを思う。彼女を雛菊館の女中頭にしたのは、他でもないジャックだ。今でもそれが最善手だと確信しているが、やはりお気に入りのメイドを手放した後悔は別だ。
黒髪の三つ編みと、切れ長の目、それから幼少の頃より鍛えさせられてきた体躯が映えるようにとあつらえられたアイボリーのジャケットに袖を通す。
最後にジャックは、執事が差し出した愛用のステッキを手にとった。
「もう、泣かせやしない」
自分に言い聞かせるためだけの声は、もしかしたら執事の耳に届いたかもしれない。温和な顔に苦労をシワという形で刻まれた彼の表情で、確かめることはできなかった。
「アーサー、行ってくる」
「いってらっしゃいませ。小耳に挟んだ話では、ジャスミン様はとても元気なご様子で雛菊館にお入りになられたそうです」
「そうかい」
だからどうしたと続けてもよかったが、ジャックはやめておいた。
王太子として七竈館の主人になる前から見守ってくれている
いつもよりも好奇の視線を浴びながら、七竈館の廊下を歩く。
(一人で行くと決めて正解だったな)
にしてもと、四つの館が囲む庭園に踏み入れたジャックはため息をつく。
(にしても、だ。どうして、誰も彼もジャスミンに期待するんだろうな)
いくら一世代ぶりの王妃となるからとはいえ、辟易せずにはいられなかった。
夕闇に包まれた庭園を東の七竈館から西の雛菊館に向かう。迷宮庭園とも呼ばれる広大な
十年前に泣きじゃくった婚約者と結婚まで、どう接すればいいのかと悩み続けてきた。だが、彼の足取りはしっかりしている。
結局のところ、彼もまた楽観主義のヴァルトン王国の人間だ。自分の容姿にも、社交術にも、自信を持っている。
(ま、十年もたてば、さすがにいきなり泣くようなことはないだろうしな)
そんな今にも鼻歌を口ずさみそうなジャックは、庭園の中央にある噴水の側で一度だけ足を止めた。
水しぶきを上げることをやめた噴水では、少女の姿をした妖精の彫像が水面を飛び跳ねている。
神の存在は否定されても、妖精や小人といった幻想動物は信じられている。人を支配しない彼らは、めったに出会えない隣人たちとしておとぎ話の中で愛され続けているのだ。
ジャックは、特にこの妖精の彫像がお気に入りだった。
お気に入りの彫像の向こう側から、不意に二つの声が投げかけられる。
「あのさ、急いだほうがいいんじゃない?」
「いきなりディナーに遅刻とか、最悪だぜ」
王太子に対して、あまりにもフレンドリーすぎる声の持ち主たちは、まるで夕闇の中から湧いて出てきたようだった。
ほんの数瞬前まで気配すらなかった二つの人影に、ジャックは器用に片眉を持ち上げる。
「なら、いちいち声をかけることもないだろう」
「つれないなぁ〜」
声を揃えて噴水の左右に分かれて回り込んできたのは、麦わら帽子を背中におろした少年たちだった。
金色の綿毛のようなふわふわした髪に、金色の猫のようなつり目。肘まで袖をまくった黒いシャツに、深緑のダボついた吊りズボン。何から何まで、そっくりな双子たちだ。歩調までそっくりなので、妖精に惑わされているような不思議な錯覚に襲われるかもしれない。もちろん、彼らが人間だと知っていれば、そんな錯覚はありえない。とはいえ、声を上げるまで気配を感じさせなかったのと、何気ない足取りのように見えて、実のところ隙きがない体運びには、得体のしれないものがある。
そっくりな二人を、ジャックはまだ見分けがつかない。
(まぁ、トムもサムも、いつも一緒だから困らないわけだが……)
何とも言えない居心地の悪さがある。
彼らが幼子だった頃から見知っているだけに、いまだにどちらが兄で弟か見分けがつかないのは、何とも言えない罪悪感がある。
本人たちは気にしていないようだから、割り切るしかないとわかっていても、簡単に割り切れるものではない。
「コーネリアス様が花束くらい持って行けってさ」
「急ごしらえだけど、手ぶらで行くよりいいでしょ」
「ああ、そうだな」
双子の片方から、花束を受け取る。
(手ぶらは、よくなかったな)
明るい彩りの花束を眺めながら、ジャックは素直に落ち度を認める。
(アスターとダリア、それからマリーゴルド、か)
真剣な目つきで花束を観察するジャックに、双子たちは本当に時間を忘れているのではと不安になってきた。
「兄さん兄さん、本当に遅刻したら、洒落にならないんじゃない?」
「それは大問題だな、弟よ」
とはいえ、不安になってもおどけてみせるのが、双子のトムとサムだ。
「大問題というか、また泣いちゃうんじゃないの?」
「あー、十年前の惨劇、再びってやつか、弟よ」
「黙れ」
唸るような声をあげたジャックは、花束の中からマリーゴールドを引き抜いた。
「マリーゴルドの嫉妬も、絶望も、悲しみも、この花束にはふさわしくない」
「おっ、お見事!」
花言葉を理由に突き返されたマリーゴルドを受け取って喜んでいるのは、弟のサムだろう。そう見当をつけたすぐあとには、兄のトムのような気もしてくる。
(双子も、ここまで似てくると面倒だ)
将来、この双子のどちらかが庭師の頭領になると考えるだけで、頭が痛くなりそうだった。
「父上に伝えろ、あなたの思い通りにはならない。だから、俺はもう彼女を泣かせはしない」
おどけていた双子は、胸に左手を当てて敬礼する。
「仰せのままに、王太子殿下」
うやうやしく声を揃えた双子の金色の目は、それでもなお愉快そうに輝いていた。
小さく鼻を鳴らしたジャックは、花束片手に今度こそ雛菊館に急ぐ。
たとえ目指す結果が同じでも、ジャックは父の思い通りになるつもりはなかった。父の駒ではないとわからせてやろうと心に決めてからこの十年、密かに布石を置いてきたのだ。
これから先、半年の間にすべての布石を使い切る覚悟で臨まなければ、とてもとても父のゲームに勝てない。
そうでなくても、もう十年前のような泣き顔は見たくなかった。
ようやく覚悟を決めて許嫁のもとに急ぐジャックが再会初日からつまずくとは、さすがの父も想定外だっただろう。
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