雛菊館の洗礼

 ヴァルトン王家の居城、月虹城の西の館、雛菊館に到着してから、ジャスミンは目が回るほど忙しかった。


 午後一時半に、雛菊館に到着。

 最初が肝心と、毅然として馬車を降りたのに、車寄せの周りには誰もいない。


「お気を確かに、お嬢様」


 すかさずイザベラが察して小声で励ましてくれなかったら、ジャスミンは心が折れていた。


(わたくしは新しい主人なのに、誰も出迎えてくれないなんて……)


 雛菊館の優美な外観が、急に恐ろしく見えてきた。

 左右対称の二階建ての白亜の館。二十三年ぶりの主人を迎えるために塗り直したばかりの漆喰の白のまぶしさが、とりわけジャスミンの心の影を濃くした。


(わたくしが、この館の女主人……)


 雛菊館のたたずまいに心から見とれているリディアが、少しだけ羨ましくなった。

 けれども、玄関の手前でいつまでも呆けているわけにもいかない。


 メリッサの案内で、階段を上り開け放たれた玄関に向かった。


「時間に余裕がありません。ジャスミン様には、まず健康診断を受けてもらいます」

「けんこう、しんだん? あ、健康診断ですわね」


 メリッサの聞き慣れない単語に、思わずオウム返ししてから、ジャスミンはこの国の医療行為の一つだと思い出した。

 ジャックと相思相愛の仲になるため、ジャスミンはヴァルト王国に関することを、頭の中に詰めこめるだけ詰めこんできた。


(それでも、実際に見聞きして覚えていかないとね)


 ヤスヴァリード教の信徒が病に冒されたときは、神に祈るか、神の奇跡で治癒をほどこせる神官に依頼する。幸い、ここまでの道中、怪我も病気もしなかった。だから、まだ医療というものは、漠然として実態が見えない。


(きっと、初めてのことばかりでしょうね)


 二階まで吹き抜けの玄関ホールには、二人のメイドたちが待っていた。ジャスミンよりも年下の少女たちは、異国からやってきたジャスミンたちに目を輝かせたが、姿勢を正したままだ。


「リディア様とイザベラ様のお部屋は、今から彼女たちにご案内してもらいます」


 メリッサは、リディアが物申す前に続ける。


「時間がございません。ジャスミン様は、わたくしが医師団のもとへご案内します」


 時間が押しているのは、事実だ。

 馬車の中で、晩餐の時間は五時半だと聞かされている。つまり四時間しかない。

 ここは、メリッサにまかせるしかないのだ。


 イザベラとリディアと分かれて、一人メリッサのあとについていくと、二階の一室に案内された。

 ジャスミンの私室となる部屋の一つだと聞かされたけれども、実感は今ひとつ。

 それほど広い部屋ではないが、家具がスツールと小テーブル、それから壁際の衝立が一つずつしかない。窓は、明り取りのはめ込み式が一つ。殺風景な部屋で待っていたのは、白い腕章をつけた三人のメイドたちだった。


「彼女が、雛菊館の医師団の主任医師カレン・ダート。体調に関することは、なんでも彼女に申し付けください」


 メリッサが紹介してくれたのは、三十過ぎくらいの褐色の髪のメイドだった。背が高くてきつそうな印象は、笑顔が払拭してくれた。心からの笑顔には、えくぼがあるのだ。


「ジャスミン様、雛菊館にお迎えする日を心待ちにしておりました。お時間が押しておりますので、早速取り掛からせていただきます」

「よ、よろしくお願いします」


 戸惑い立ち尽くすジャスミンは、まだ知らなかった。

 雛菊館の主任医師カレン・ダートが満面の笑みを浮かべるときは、素敵な体を前にした時だということを。


 一時間。

 健康診断には、きっちり一時間かかった。

 身長、体重、触診、問診などなど。戸惑っているうちに服を脱がされて、体のあちこちを調べられるのはいい気分ではなかった。ヘレンの笑顔がことさら恐ろしくて、助手の二人のメイドが淡々としているのもあいまって、医療に対しての第一印象は最悪だった。


(まさか、あんな恥ずかしいところまで診られるなんて……)


 聞けば、毎朝必ず問診があるというではないか。

 奇跡がないこの国では、日頃の体調管理が重要だ。軽い風邪でも引いても、神に祈りを捧げれば治るわけではない。


(でも、毎朝、お通じの回数を尋ねられるとか……わたくし、気が狂いそう)


 精神的に疲れたジャスミンが、次に案内されたのは浴室だった。


 浴室は、先程の部屋の続き部屋になっていた。白いナイトガウン姿で、廊下を歩かずにすむようにと、もともと脱衣室だった場所で健康診断が行われていた。もっとも、今のジャスミンにその配慮に気がつくだけの余裕などなかった。


 入浴にも、一時間。

 今度は、文句のつけようがないくらい素晴らしい一時間だった。旅の疲れも、汚れも、臭いも、全部きれいに洗い流せた。

 浴室係のメイドたちは、とてもおしゃべりだった。


「ようやく、この雛菊館も賑やかになります。わたくしは、無人の館を管理してきた側なので、今日を楽しみにしてました」

「ジャスミン様がお若いので、わたくしたち使用人も、若い人がほとんどです」

「わたくしが前にいたところなんて、オバサンが本当に口やかましくて、困ったものでしたわ」


 初めは、適当に聞き流したり相槌を挟んだりしていただけだった。けれども、疲れや緊張で凝り固まっていた体がほぐれていくにつれて、ジャスミンも積極的におしゃべりに参加するようになった。


「でも、女中頭のメリッサは、口やかましいオバサンよりも、厄介ではなくて?」

「メリッサ様は、特別ですから……」

「だって、ねぇ……」


 ほんの少ししか接していないものの、ジャスミンはメリッサが苦手だと感じていた。いや、ほぼ確信していた。

 しかし、どうやらメリッサに対して、メイドたちは別に思うところがあるようだ。

 さり気なく話をうながすと、困ったようにメイドたちは顔を見合わせる。


「まぁ、人事には、わたくしどもはわかりかねますし……」

「ええ。メリッサ様は、わたくしどもよりも仕事はできる方ですし、ね」


 髪を洗ってもらった、ジャスミンはメイドたちのスッキリしない物言いに、少しだけ顔を曇らせる。


(彼女、あまり評判はよくないようね。でも、わたくしは、まだ来たばかりですもの。第一印象だけで、人を判断するのはよくないわ。わたくしも、反省しないとね)


 もともとジャスミンは、陰口とかそういうものが苦手だった。

 まったく誰かの陰口を言わないというわけではないけれども、その場の雰囲気に流されて喜々として陰口を叩くのが嫌なのだ。


(それにしても、神がいない国でも人間というものは変わらないのね)


 入浴の次は、健康診断をおこなった部屋に戻って着替えだ。

 ジャスミンが故郷を離れる前に送っておいた衣類の中から、衣装係のメイドが今夜の晩餐にふさわしいドレスを選んでくれていた。


 二十代前半の三人のメイドたちは、自分たちの仕事が好きなのだと、ジャスミンはよくわかった。

 喜々として飾り立ててくれるのは、嬉しいやら恥ずかしいやらだった。


 先に故郷から十着ほど届けられているドレスの中で一番お気に入りのドレスが選ばれたことも、とても嬉しかった。


(これなら、もうジャック様にあんな目で見られなくてすむわ)


 深緑のドレスの袖は、肘から先が大きく広がっていた。薄緑の細かい連続模様があしらわれたレースが、その幅広の袖口を縁取っている。ペチコートは、ドレスと揃いの布だ。深緑の布地に、若干濃い緑の光沢がある糸で蔦の模様が織り込まれている。その蔦模様が浮かび上がったり沈んだりと、スカートのプリーツまでしっかりと計算されているのではと、感嘆の息を漏らしてしまうほどだ。また、光のあたり具合でも、蔦模様の陰影が違って見える。上半身の身頃には、数十個のガラスビーズが、まるで朝露のようにキラキラと輝いていた。


 衣装係たちが退出したあと、ジャスミンは一人で姿見の前で角度を変えては、ポーズを決めて楽しんでいた。

 赤い髪は、うず高く華やかにまとめ上げてある。髪飾りのたぐいは、今夜はなしだ。

 衣装係のメイドたちが言うには、ジャスミンの赤い髪はすでに国内で燃えるように美しいと人気を集めているらしい。


(燃えるような、ですって。ふふっ、この国でも赤毛は珍しいみたいね)


 もっとも父親譲りの赤毛は、祖国でも多くはない。珍しいほどではないけれども、目立つのが嫌で軽いコンプレックスだった。

 それが、この国では強みになる。

 ジャスミンが浮かれるのも、無理はない。


「楽しそうでなによりよ、ジャズ」

「ひゃっ!! リディア、びっくりさせないでよ」


 慌てて居住まいを正すけれども、しっかりリディアに浮かれているところを見られてしまった。


「いいんじゃない。緊張でガチガチになっているよりは。心配して損したわ」

「心配?」


 意外な思いが、ストレートに声に出てしまった。


「わたしだって、心配くらいするわよ。たしかに、あなたとはそんな仲がいいわけではないけどね」


 呆れたと肩をすくめた従姉に、ジャスミンはすぐに言い返す言葉が見つけられなかった。


「座ったら? まだ時間があるし、立ちっぱなしでいることもないし」

「そ、それもそうね」


 たしかに、まだ晩餐まで一時間ほどある。ジャスミンは、リディアに言われるままにスツールに腰を下ろした。

 メリッサは晩餐の準備に忙しいのか、入浴を始める前から姿を見ていない。


 それほど広くない部屋に、それほど親しくない従姉妹同士で二人きり。

 居心地が悪いと感じているのは、ジャスミンだけはないようだ。

 赤い外出着から、おとなしめの橙色のドレスに着替えたリディアは、壁際の衝立の向こうにあったスツールを自分で持ってきて腰を下ろした。小テーブルを挟んでも、若干距離がある。


「あなたが、どう思っているのかは知りませんけど、あなたの私室付き女官として来たからには、少しは仲良くなったほうが過ごしやすいと思うの」

「まずは相手を知れ、ですわね」

「そうよ。そういうことよ」


 ヤスヴァリード教の教えの一つだ。神の教えには、当たり前すぎることも多い。でも、リディアには、神の教えであることが何より重要な事なのだ。

 リディアはポケットの中から取り出した生成りの布の包みを、テーブルの上に広げる。

 出てきたのは、ビスケットだった。


 ぐぅううううううううう〜


 たちまち、ジャスミンのお腹が空腹を訴えてきた。


「……食べなさいよ。朝に軽く食べてから、何も食べていなかったでしょう?」

「え、ええ。ありがたく、いただくわ」


 リディアに心から感謝したのは、初めてのことだった。


(第一印象だけで決めつけるのは、本当によくないわね)


 入浴時にも言い聞かせたことを、あらためて意識する。

 道中、馬車の中で何度かつまんだことがあるビスケットが、なんだかとても美味しく感じた。


 異国の地での新生活。

 良好な人間関係を築いていかなければならないのは、なにも新しい顔ぶれとは限らない。


「リディ、あらためてよろしくね」

「こちらこそよ、次期王妃様」

「やだ、リディったら」


 きつそうだと思っていたリディアの表情が、初めて柔らかく見えた。


 従姉のおかげで、ジャスミンは残り一時間を切った晩餐で、お腹を鳴らすという失態を回避できたのだった。

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