第一章 ぎこちない序盤戦

再会の日

三人の娘達

 あくまでも次の春までは王太子の婚約者が、ジャスミン・ハルの肩書きだ。本来、王太子妃は、月虹城の東の館――つまり、王太子が住まう七竈ななかまど館で暮らすことになっている。王妃以外の者に雛菊館を与えられたのは、特例中の特例だった。いや、そもそも前例のないことだった。


 昼前に禁門に到着したジャスミンは、かれこれ三十分ほど馬車の中で待たされている。

 特別に許された者以外は、通ることを禁じられているから、禁門。月虹城の北側の城壁にあり、王城の南と西に広がる城下の町並みを通ることなく、直接都の外と出入りできる門だ。年に数回しか開くことのない門とはいえ、立派な門だ。ジャスミンは、曲がりくねった細い坂道を登り跳ね橋を渡れば、そこはもう月虹城だとばかり思いこんでいた。けれども、落とし格子の門をくぐると、そこはまだだった。月虹城を守る灰褐色の城壁は、四頭立ての馬車をまるまる飲み込んでも余裕があるほど、分厚かった。マール共和国にはない堅牢な造りに、ジャスミンは早速圧倒されてしまった。

 朝から興奮していたジャスミンは、薄暗い禁門の中でようやく落ち着きを取り戻した。

 ジャスミン付きの侍女としてマール共和国から同行しているイザベラは、これでしばらくは耳にタコができた話を聞かずにすむと胸をなでおろした。


(それにしても、いつまで待たせる気かしら)


 父から餞別せんべつにと贈られた懐中時計を取り出したけれども、すぐにポケットに戻す。時刻を確かめたからといって、先へと進めるわけではない。二十二歳になったというのに、五つ年下のジャスミンよりも幼く見える童顔を曇らせる。茶色の髪をきっちりひっつめて高い位置にまげを作ったのも、少しでも舐められないようにという心構えからだ。


(郷に入っては郷に従えって言うじゃない、イザベラ・ガンター。ちょっと待たされたくらいで、イライラしてたら、いい男に逃げられちゃうわよ)


 第一印象が肝心だと、大きすぎる紺碧の瞳に闘志を宿す。


(相手が神なき国の男でも、構わない。このまま行き遅れるわけにはいかないわ。ええ、ええ、そうですとも、考え方もまるで違う殿方のほうが、新鮮で刺激的じゃない。ヴァルト王国の殿方にも、あたしは刺激的なレディに見えるかもしれないわ。いいえ、かもしれないじゃないわ。そうに違いなもの)


 イザベラは神への信仰を捨てていないけれども、いい相手が見つかれば、肌身離さず首から下げている信徒の証――二重の円が刻まれた聖石を捨ててもかなわないと考えている。どのみち祖国に帰ることはない。ならば、少しでも早く第二の祖国となるヴァルと王国に染まってしまったほうがいいに決まっている。そのほうが、結婚の近道だ。


 いよいよとなって落ち着きを取り戻したジャスミンと、自身の目的に期待と意欲を燃やすイザベラ。気心知れた主従の二人を、冷めた目で見ているのは、私室付き女官として同行してきたリディアだった。


(イザベラは、やっぱり男のことしか頭にないのね)


 ジャスミンの母方の従姉いとこだが、ジャスミンとリディアが並んでも、ひと目で二人が親族だとわかる人はいない。

 前向きで明るいジャスミンは、ほどよい丸みを描く豊かな曲線が魅力的な愛くるしい体つきだ。

 くらべて、リディアはほっそりとしている。几帳面で真面目な性格が隠しきれない体つきだ。裕福な商家で育ったにもかかわらず、ヤスヴァリード教の規範どおりに食生活でも倹約してきたのだろう。ジャスミンよりも濃い緑の瞳は、キラキラ輝いたりしない。今だって、新生活に期待と不安で胸がいっぱいの二人を冷めた目で見ている。


(おば様が反対するのもわかるわ。けど、おば様仕込みの神の教えを、そう簡単にジャズが忘れるわけがない、はずよね)


 そう言い聞かせてみたはいいけれども、ジャスミンの道中での興奮ぶりに辟易させられたあとでは、確信が持てない。


(まぁ、ジャズのことばかり心配する前に、わたし自身のことも大事にしなくては)


 敬虔なヤスヴァリード教の信徒である彼女は、首から下げている聖石に両手を重ねて目を閉じ祈った。神が守ってくれるようにと。

 たとえ神なき国であっても敬虔な信徒の祈りは届くはずだと、彼女は信じている。


 ジャスミンはこの期におよんで神へ祈る従姉に、呆れを通り超えて尊敬の念を抱いていた。リディアの信仰心には、足元にもおよばないことくらいわかっていたつもりだ。だからこそ、彼女がヴァルト王国に馴染めないのではないかと、心配でしかたない。


(お母様には悪いけど、リディアがうまくやれないようでしたら、帰ってもらうわ)


 本当は、リディアを連れてきたくなかった。ジャスミンとリディアは、それほど仲がいいわけではない。険悪というわけでもないし、話しをすればそれなりに話しをする。そういう関係だ。

 お互いのことをよく知らないけれども、人には向き不向きというものがある。彼女よりも私室付き女官にふさわしい友人を、ジャスミンは三人ほどすぐに思い浮かべられる。

 すでに不安材料になっているリディアを選んだのは、ジャスミンの母シェーラだった。


 ヤスヴァリード教の敬虔な信徒であるシェーラは、初めからジャスミンの婚約に反対している。神なき国に娘を輿入れさせるなどと、猛反発した教会側の旗印が母だった。当のジャスミンは、幼かったこともあって詳しいことはわからない。だが、おぼろげではあるけれども両親が口汚く罵り合っている姿を覚えている。十年前の春には、母シェーラと父ダニエルの関係は修復不可能なくらい冷え切っていた。

 共和国でありながら、最高権力者の議長は、ハル家が代々つとめている。もっとも、旧体制が崩壊してから八十年。父ダニエルが三代目の議長だ。少しでも国が傾くようなことはあってはならない。マール共和国の民は、自分の世代でさらなる飛躍的な発展をと、向上心を燃やしている。


 そんな新国に、神聖帝国と並ぶ大国から王太子の嫁を迎えたいと申し入れがあった。たとえ神なき国だろうとも、充分すぎるほど魅力的な申し入れだ。

 もちろん、教会側は反対した。というよりも、教会だけが反対した。

 国政を担う最高議会だけでなく、ほとんどの国民も知っていたのだ。

 ヴァルト王国をのぞくカロン大陸西部の国々が、ヤスヴァリード教を国教としている。つまり、ヴァルト王国と親密な関係にある国も一つや二つではないことを。そうした国に、マール共和国が加わる好機を逃すわけにはいかなかった。


 なにがともあれ、ジャスミンの婚約は成立した。

 ヴァルト王国からの要請で、ジャスミンはヤスヴァリード教の信徒の証である聖石を教会に返した。もう神の奇跡は与えられない。それなのに、敬虔すぎる信徒のシェーラは、ジャスミンに神の教えを守らせ続けるためのお目付け役として、リディアを私室付きに選んでしまった。リディアの性格から問題を起こさないわけがないと、父に訴えたりとできることはしたが、結果はご覧のとおりだ。

 これまでの道中、特に国境を超えたあたりから、ジャスミンはこの懸念が杞憂ですまないのではと考えている。とはいえ、四六時中ずっと年上の従姉に頭を悩ませているわけではない。一日のうち、ほんの少しだけだ。今はまだ。

 軽く頭を振って、リディアの懸念を頭の隅に追いやる。今は、そんなことに頭を悩ませている場合ではないのだ。これから、いよいよ王太子の婚約者として、禁門を抜ける。その先は、もうヴァルト王家の居城、月虹城だ。

 ジャスミンは、膝の上で拳を握りしめる。


(とにかく、わたくしはジャック様のハートをがっちりつかまなくては)


 沈黙の馬車の中でうら若き乙女たちは、それぞれ胸の内で不安を押さえて、決意を新たにしていた。


 しばらくして、イザベラが懐中時計で時刻を確認した。もうすぐ午後一時になろうとしている。


(もう、一時間もたっているじゃない)


 彼女は、ため息をこらえられなかった。

 たしかに、予定よりも早く到着した。だからといって、一時間も待たされるのはおかしい。このままでは、予定よりも遅れて雛菊館に到着することになる可能性もある。


(何か、問題でもあったのかしら?)


 不当に待たされているとは、イザベラは少しも考えなかった。

 むしろ、待たされていることに不満をつのらせているのは、隣りに座っているリディアのほうだった。先ほどから、肌身離さず首からさげている聖石に両手を重ねて、気持ちを鎮めようとしている。神の力を借りて、心が静まっていると信じていた。けれども、同席しているジャスミンとイザベラは、リディアの不満を肌で感じている。


 ジャスミンは、目でイザベラに馬車の外の様子をうかがってくるように伝えた。小さく首を縦に振ったイザベラが馬車の扉に手をかけたときだった。


「お待たせいたしました」


 外から声をかけられて、イザベラはびくっと手を引いてしまう。驚いたからというのもあるが、男のいい声が彼女の耳には毒だった。


(落ち着きなさい。ベラ)


 火照りそうな頬を軽く叩いて、なんとか扉が開く前に平常心を取り戻すことに成功した。

 テノールの声から想像した若くてハンサムな男ではなかった。カイゼル髭のロマンスグレーのおじ様は魅力的だが、イザベラのタイプではない。


(やっぱり、そう簡単に出会いはないか)


 ため息をこらえて、イザベラは馬車を降りた。彼女のあとに、リディアとジャスミンが続く。

 薄暗い禁門の月虹城側の落とし格子は、上がっている。

 いよいよだと姿勢を正した三人は、カイゼル髭の衛兵の後を歩いて薄暗い禁門を抜けた。

 三人の緊張をやわらげようと、彼は禁門を抜けた先でほほえむ。


「ようこそ、月虹城に」


 はたして、ジャスミンに彼の歓迎の言葉は届いただろうか。おそらく、耳まで届いたとしても胸に響かなかったに違いない。


 禁門を抜けた先は、ちょっとした広場になっていた。

 ジャスミンたちは、禁門を抜ければすぐ目の前に月虹城を構成する四つの館が――少なくとも北の月桂樹館が、すぐそこに建っていると思いこんでいたのだ。けれども、広場は木立に囲まれているだけで、それらしき建物は見えない。彼女たちは、驚きとまどうしかなかった。


「ジャスミン様には、こちらの馬車に乗り換えていただきます」


 衛兵が慣れた身振りで示した先には、たしかに馬車があった。

 国境からずっと乗ってきた馬車とは違って、ほとんど新品ではないかというほど、きれいな白い二頭立ての馬車。その前には、一人の女が姿勢を正して待っている。

 黒いメイド服の紺色の腕章は女中頭の証だと、ジャスミンは知っていた。


(女中頭にしては、若すぎないかしら)


 女性使用人のまとめ役だというのに、年齢はイザベラとそれほど変わらないだろう。

 怪訝に思いながらも、ジャスミンはイザベラとリディアの後についていった。


(それに、なんだか性格がキツそう)


 黒い髪を高い位置にひっつめて作られたまげは、一本も緩むことを許さないと言わんばかりだ。なにより、金色の眼光が鋭すぎる。


「雛菊館の女中頭、メリッサ・リンドと申します」


 抑揚のない単調な声は、まるで感情を聞き取れない。


「初めまして、リンド様。わたくしは、ジャスミン様付きの侍女、イザベラ・ガンターです」

「ええ、おうかがいしております。イザベラ様。メリッサとお呼びください。月虹城では、国王であろうとも、肩書きでも姓でもなく、名前でお呼びすることが習わし。尊称も様付け程度でお願いします」


 ニコリともしないメリッサに、イザベラは早くも先行き不安になってきた。


(なにこの人、あたしと同い年くらいなのに)


 異国の地で侮られるわけにはいかないと、自分を奮い立たせなければ、逃げ出していたに違いない。十歳で奉公に家を出た彼女だったけれども、初対面でこれほど不安になったことは久しぶりだった。ぎこちない笑みを浮かべている彼女から、メリッサは後ろのリディアとジャスミンに目を向ける。


「ジャスミン様、お時間がおしておりますので、馬車にお乗りください」

「え、ええ」


 予定よりも早く到着したはずなのにと、ジャスミンは小首をかしげる。

 人形のように無表情だけれども、メリッサは彼女の疑問を察してみせた。


「雛菊館の新しい女主人を一目見ようとした輩を処理するのに、少々手間どいました。お迎えが遅れて、誠に申し訳ございません」


 三人は、納得するしかなかった。

 ここまで来る道中も、ジャスミンを一目見ようとする野次馬のせいで、足止めを食らったのは一度や二度ではなかったのだから。


「そんなに、ジャスミンが珍しいのかしら」


 メリッサに再度促されて、馬車に乗りこみながらリディアはぼやく。

 まるで、先が思いやられると言わんばかりに。

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