序盤戦の終わり

神なき教会

 寝室の扉がノックされたのは、ジャスミンが女中頭のメリッサと打ち解けられてから、しばらくしての朝の六時過ぎ頃だった。

 普段は、まだ朝の身支度に忙しい時間だ。


 対応に出たメリッサが、戸口で短いやり取りをして、最後に「わかりました。すぐにでも」と答えるのが、ジャスミンの耳に届いた。


 知らず知らずのうちに背筋を伸ばして、ジャスミンはメリッサが戻ってくるのを待った。


「ジャック様が、お話をされたいとのことです。ジャスミン様のお気分がすぐれないようでしたら、イザベラだけでもと言われましたが……」

「え、なんで、わたしだけでもなの?」

「知りません。ジャスミン様は大丈夫ですとお答えしましたので。よろしかったですよね、ジャスミン様」


 先ほどから、イザベラとメリッサが様付けをやめているのが、ジャスミンは嬉しく思いながら、首を縦に振る。


「ええ、もちろんよ」

「では、ご案内します」


 メリッサの案内で、移動したのはたった扉一枚分の距離だった。つまり、寝室の続き部屋だ。メリッサにここだと言われて、ジャスミンはドキッとしたけれども、まだ誰もいなかった。


(それもそうよね。さすがに、盗み聞きを疑われるようなことを、ジャック様がするはずないわよね)


 すぐには気がつかなかったけれども、昨夜ジャックがリディアの病状を伝えに来た部屋だった。この続き部屋は、王太子夫妻のための歓談の場としてしつらえられているのだと、メリッサが簡単に説明してくれた。


 南の窓から差し込む午後の日差しがあれば、たしかに夫婦の歓談の場にはちょうどいい広さだった。


「でもメリッサ、その割にはテーブルもソファーもなんだか……」

「他の部屋から運び入れたんです、イザベラ。月虹城では、どの館でも、新しい主人を迎える前に、ほとんどの調度品は売却されるか、廃棄され、新調します。今回、ジャスミン様を雛菊館にお迎えしたときも、同様でした」

「そう言われてみれば、ほとんど新品だったわね」


 ジャスミンとイザベラは、あらためて王家の――ひいてはヴァルト王国の財力に感服する。


「すごいわね。そんな贅沢、お父様が議長の実家でも無理でしたわ。さすが、帝国と比肩する王国ね」


 そんな誰もがうらやむような恵まれた環境を、ジャスミンは与えられたのだ。


(故郷のみんなにも恩恵が得られるように、わたくしはしっかりしなくてはね)


 十七歳の少女が背負うには、重たすぎる重圧だ。

 ジャスミンは頑固な一面もあるけれども、決して独りよがりではない。逃げ出したくなったときなどに、相談できる心強い味方がいる。今も、彼女が座るソファーの後ろに控えている。それも、二人もいる。


 この政略結婚が決められた時から、高貴な女性になるように育てられてきた。人の上に立つということは、それだけ多くの人に支えてもらわなくてはならない。自分が間違いを犯せば、その多くの人が不幸になる。だからこそ、ジャスミンは正しく強くありたいと考えている。


「贅沢と言ってしまえばそれまでだが、新しくするのは、大事なことだよ。家具も調度品も新しく発注することで、職人たちに仕事を与えられる。率先して経済を回すことを、我がヴァルトン家では美徳としてきたからね」


 割り込むように入ってきた声に、ジャスミンは驚き振り向く。


「ジャ、ジャック様、おはようございます」

「おはよう、ジャスミン」


 向かいの肘掛け椅子に座ったジャックは、身なりはきちんと整っているものの、やはり疲労を隠しきれていない。右手の包帯が痛々しいけれども、血は滲んでいない。


「メリッサとイザベラ、君たちも座ってくれ」


 ソファーの後ろで、イザベラとメリッサが目で短い相談をした結果、失礼しますとジャスミンの左右に分かれて遠慮がちに座った。

 まずはと、両手を合わせてジャックは申し訳なさそうにメリッサを見つめる。


「メリッサ、昨夜はとっさのこととはいえ、手を上げてすまなかった」


 ほんのわずかな沈黙も、今のジャックには苦痛だった。


(頼む。察してくれ、メリッサ。お前なら、ああするしかなかったと理解してくれているだろう。だが、だが、だが、今はとにかく察してくれ。これ以上、俺はジャスミンに嫌われたくないんだよ。な、頼む。許してくれ。ついでに、俺は女に手を上げるような男じゃないって、ジャスミンにアピールしてくれ。メリッサ、頼む。頼む、察してくれ)


 それほど必死だったのだ。

 彼の心の声が聞き届けられたのか――それはそれで、恥ずかしいだろう――さだかではないけれども、メリッサはかすかに口元を緩めた。


「ジャック様、わたくしのほうこそ取り乱してしまい、申し訳ございませんでした。ジャック様に止めていただいたことに感謝はいたしましても、謝罪してほしいわけではございません」

「そうか」


 理解してくれていたのだと、彼はほっと胸をなでおろす。


「ですが、ジャック様」

「ん?」

「決して、ジャスミン様に手を上げるようなことは……」

「するわけがないだろ!」


 メリッサに最後まで言わせるかと、彼は声を張り上げた。

 そんな彼に、ジャスミンはどう反応していいのかわからなかった。


 なんとも言えない沈黙が続く前に、ジャックはわざとらしく咳払いをする。


「リディア・クラウンのことだが、父から神聖帝国の伯父に癒し手を紹介してもらうように、手配してもらった」

「まぁ、これでリディは救われるのですね」


 従姉を見殺しにせずにすむと、ジャスミンは心から喜んだ。そんな彼女を、まぶしそうに目を細めてジャックは後ろめたくなった。


「正直に言えば、今彼女に死なれては困る。マール共和国だけでなく、諸国に医療への不信感を生じさせかねないからね。それだけは、絶対に避けたい」

「それでも、リディのためにここまでしてくださって、感謝しかありませんわ」

「そう言ってくれるだけで、報われたような気がするよ」


 ますます笑みを深めるジャスミンに、ますますジャックは後ろめたくなる。


「昨夜の一件だが、彼女は覚えていないそうだ」

「覚えていない?」


 思わず口を挟んでしまったのは、イザベラだ。


(そんなことって、あるのかしら? あたしには、リディア様が明確にジャック様を狙っていたようにしか見えなかったけど)


 不可解そうに首を傾げたイザベラに、ジャックは鷹揚に頷く。


「ああ。今朝方、彼女が意識を取り戻したときに、確認したよ」


 意識を取り戻したと聞いて、ジャスミンの目がますます輝いた。


「では、ようやくリディに会いにいけるのね」

「悪いが、そういうわけにはいかない」

「え、なぜですの?」


 落胆する彼女に、ジャックは唇を湿らせた。


「今朝方意識を取り戻したのも、ほんのわずかな時間だ。今は絶対安静だ。神聖帝国までの旅程は君の故郷までほどではないが、病人には負担が大きい。君が彼女を思う気持ちはわかっているつもりだが、会わせるのは難しい」

「そんなことって、あんまりよ!」

「わかっている。俺も、会わせてやりたかった。それで、昨夜の事態を招いた。俺を恨めばいい。だが、昨夜のことがなくても、医師団の判断は同じだったかもしれないがな」


 彼は、ジャスミンに責められても当然のことをしでかした。


(まだ取り返しがつくと、あの人には言ったが、やはりジャスミンには取り返しがつかないことをしてしまったな)


 けれども、ジャスミンは彼を責めなかった。声に出しては、という但し書きがつく。じっとジャックの藍色の目を見つめてくる彼女の目は、静かに燃えていた。


「話を続けましょう、お嬢様。ジャック様も、話を進めてください」

「そうね、ベラ」


 そう、まだ話は終わっていない。息を吐いてジャスミンは気持ちを落ち着けた。


(リディは、ジャック様に危害を加えた。王太子にそんなこと、許されるはずがないわ。それに、他にも気になることがあるしね)


 ジャックの右手の包帯は、嫌でも夢ではなかったと突きつけてくる。

 彼女の視線から隠すように、ジャックは右手を左手で覆い隠した。


「昨日、君に話していないことがある」

「全部、話していただけますわよね」


 もちろんだと、ジャックは重苦しいため息をつく。


「君たちを巻きこむつもりはなかったんだ。実は、俺が王になるのを快く思わない反体制勢力がいる」

「そんな話、初めて聞きますわ」

「だから、巻きこむつもりはなかったと言ったんだ。父は年明けには退位の意向を公にし、来年の春、俺が即位するまでにことを収める。だから、君に余計なことを教えることはないと、そう考えていた」


 額に手をやった彼を、ジャスミンは厳しい目つきで見据えている。


「その話は、また時間を取って詳しく話したい。今は、俺が王になることを快く思わない反体制勢力がいるとだけ、頭においておいてほしい。なんなら、メリッサに聞いてくれてもいい。今は、君の従姉の件だ」


 ジャスミンの瞳が揺れる。

 彼女は今、怒りや不安や疑惑、ジャックにぶつけたい激しい感情を抱えている。けれども、ぶつけたいのにどう言葉にすればいいのかわからない。ジャックの話を聞いていれば、胸に渦巻く感情が言葉を形作るかも知れない。

 今はジャックの話を聞き、何を隠そうとしたのかを知らなければならない。


「簡単に言ってしまえば、リディア・クラウンは、その勢力に利用された」


 イザベラの聖石をちらりと見やったジャックは、言いづらそうに続ける。


「魔女のクスリと呼ばれる製造を禁じられた薬物がある。もともとは、疲労回復効果等を目的に開発された薬だが、すぐに酷い幻覚妄想状態に陥る等といった副作用があることがわかった。加えて、強い依存性もある。人格すら壊す危険なクスリだ」

「危険なクスリなのはなんとなくわかりますけど、それをどうこうしてリディア様を動かせるとは、とても考えられません」


 首を傾げながら、イザベラが口を挟んだ。その両手は、聖石の上にある。


「催眠、暗示をかけやすくするために、利用したのだ。ついでに、ヤスヴァリード教の教会という場所も、彼女を操りやすくしたのだろう」

「教会?」


 なぜ、そこで教会という単語が出てくるのかと、ジャスミンとイザベラは声を揃えて驚いた。


(だから、話したくなかったんだ)


 二人は驚いているだけでなく、非難もこめている。当然の反応だとわかっているけれども、ジャックが昨夜全部話さなかった理由がここにあるのだ。


「ああ。この国でのヤスヴァリード教の教会は、ある種の無法地帯だ」

「そんなはずは……」

「ジャスミン、最後まで聞いてくれ。もちろん、ヤスヴァリード教の信徒が、無法者でないことくらい理解している。だが、教会は別だ。法で禁じられた魔女のクスリを製造する教会が、悪事に利用されていると、そう言ったほうがいいかもしれない」

「教会を悪用するなんて、許せませんわ!」


 最後まで黙って聞くなんて、ジャスミンには到底無理だった。国を出る前に、聖石を教会に返し、ヤスヴァリード教から抜けている。けれども、彼女は母の影響もあって、リディアと負けじと劣らない敬虔な信徒だった。


「ジャック様は、悪事に利用されていると知ってて、見逃しているのですか? そんなこと、ヤスヴァリード教の信徒でも望んでいません」

「落ち着いてくれ、ジャスミン」


 怒りに声を荒げて腰を浮かせたジャスミンに、ジャックは座るようにうながした。


「落ち着いたか?」

「落ち着いておりますわ」


 腰をおろしたものの、ジャスミンの若草色の瞳は怒りに燃えている。


(どこが落ち着いているんだ)


 神なき国の王子には、ジャスミンたちの怒りが理解できない。浮き彫りになった深い溝に、ジャックは戸惑う。


「魔女のクスリは、適切な量を焚けば軽い高揚感が得られる。言ってみれば、奇跡の代わりに使われてきた節もある」

「奇跡の代わりですって? 奇跡を捏造するなんて、神への冒涜です! なぜそのようなことが許されているのですか」

「知らん。どうせ、権威が欲しかったんだろ。ジャスミン、頼むから俺に怒らないでくれ。とにかく、だ。教会が魔女のクスリを製造し使っているのは、奇跡のない国で奇跡の代わりに使っている分にはと、当時の輝耀城が大目に見てしまった。もう百年近く前のことだ」

「それが、悪用されるようになった原因ですわね」

「そういうことになる。それに教会とはあまり関わりたくないというのもあっただろう。ヤスヴァリード教の信徒が廃人になろうが、知ったことではないという気持ちも、正直、わからないでもない。だが、魔女のクスリが教会の外で悪用されたのなら、話は違ってくる」


 ジャスミンが口を挟む前に、ジャックは語気を強めて続ける。


「教会内で何が行われていようが、関心はなかった。だが、次第に教会で製造された魔女のクスリを悪用するヤスヴァリード教の信徒ではない国民がでてきた。被害者も、同じ国民だ。これまでは、容疑者や被害者が魔女のクスリを所持していなかったりなどで、教会を隠れ蓑にしているとわかっていながら、証拠がなくて手が出せなかった」

「そんな、わかっていながら、悪人がうっかり証拠を残すまで待っているなんて、怠慢ですわ!」

「そう言われても、しかたがない。怠慢だと、俺もつくづく思うよ。だが、この数十年、何もしなかったわけではない。強引に教会から魔女のクスリを取り上げようと試みたのも、何度もある。だが、その度に教会の神官どもが、神罰が下ると立ちはだかる」

「神罰?」


 ジャスミンは首を傾げて、隣のイザベラを見やる。彼女たちは怪訝そうに眉間にシワを寄せている。けれども、ジャックは気がつかないままうんざりした様子で続ける。


「ああ、確たる証拠もないのに悪事をなしている決めつけ踏みこむなら、神罰が下って死ぬと言う。それも、神官たちが死ぬだそうだ。神に仕えるものでありながら、潔白を疑われた罰だとかなんとか、言い逃れにも程がある。だが、奇跡はなくても罰はあるとかなんとか、理解に苦しむ事ばかりでも、短剣を首に当ててそうなる前に死ぬとまで言い張る。正直、ヤスヴァリード教とは上手くやっていきたいが、ああ言った連中を見ると……」


 もちろん、ヤスヴァリード教の信徒の一面でしかないと、ジャックも理解しているつもりだ。そうでなかったら、大陸西部の九割以上の人間が頭がおかしいことになってしまう。


「ほぼ確実に加担しているとわかっていても、確たる証拠もないまま踏みこむのは、警邏隊の隊員たちに万が一無実だったらと考えさせてしまう。それで、神官たちが死んだらと思うと、二の足を踏みたくもなるだろう。だから、証拠が見つかるまで見逃すしかなかったのだ。連中もわきまえているのか、教会の外で魔女のクスリ絡みの犯罪が起きるのは、数年に一度くらいで、大事にならない。重要度も下がるのはしかたないだろう」


 忌々しげに語り終えたジャックを、ジャスミンは怒りではなく呆れと憐れみの目で見返す。


「ジャック様、つまり神が罰すると神官たちが言い張っているということですか?」

「そうだ、ジャスミン」


 ジャスミンは、これ以上ないほど盛大なため息をついて、拳を握りしめた。


「ジャック様、はっきり申し上げます。騙されていますわ」

「なんだって?」

「神罰なんてでまかせ、よくもまぁ考えついたと笑ってしまいますわ」


 口ではそういったものの、ジャスミンはニコリともしていない。


「神が信徒を罰するのは、死んだ後のこと。子どもでも知っていますわよ」


 ジャスミンは、経験したことのないほど怒りを覚えていた。

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