灰になっても
広大な彩陽庭園は、王国の真髄。そう呼ばれることもある。
ジャスミンは、庭園の様々な顔に驚かされ続けた。
トンネルのように頭上を枝で覆われた散歩道。
ケイトウ、イヌサフラン、クジャクソウ、コキアなどの彩り豊かな花壇。中央に立つ細かい幾何学模様の青銅の円柱は、日時計だ。
まるで水が踊っているかのような噴水にジャスミンが歓声をあげると、水の舞踏会とも呼ばれているとジャックは誇らしげに教えた。
庭師たちの次に庭園を知り尽くしているジャックの目にも、いつしかジャスミンと同じくらい新鮮な景色に映った。
そして今、二人はジャックのお気に入りの妖精の噴水の前の石のベンチで足を休めている。
「素晴らしいですわ。……なんて、聞き飽きましたわね」
「そんなことはないよ、ジャスミン。見慣れすぎた俺には、君が素晴らしいと言ってくれるたびに、新鮮に映る。ところで、疲れていないかい?」
「まったくと言いたいところですけど、少し疲れましたわ」
「なら、ここでゆっくりしようか」
「はい」
さすがの彼女も強がれなかった。
(こんなに歩いたのは久しぶりね。でも、なんだかデートって感じがするわ)
疲れたけれども、ジャックが横にいるからまったく苦にならなかった。
「喉が渇いているなら、まだ残っているから飲んだほうがいい」
そう言ってジャックがバスケットから取り出したのは、先ほどのレモネードの瓶だ。
三分の一ほど残ったレモネードを見て、ジャスミンは急に喉が渇いてきた。意識していなかっただけで、体は水分を求めていた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。俺の方こそ、けっこう歩かせてしまって申し訳ない」
ガラス瓶に口をつけて、ジャスミンはそんなことはないと首を横に振る。
「申し訳ないだなんて、そんなことはありませんわ。初めてでしたもの、こうして窓から眺めるばかりの庭園を散策したのは」
「楽しんでもらえたなら、なによりだよ」
ジャスミンは再びガラス瓶に口をつけて、ふと思い出した。
(そういえば、わたくしのはさっき全部飲んでしまったわよね。もしかして、このレモネードは……ジャック様が飲んでいた物なのかしら)
もしかしなくても、ジャックが差し出したレモネードは彼が飲み残した物だ。
(こ、これは、関節キスというものではないかしら)
意識したら、もう駄目だった。
ジャスミンがガラス瓶に口をつけたまま固まってしまったの見て、ジャックはようやくそれが自分の飲みかけだったことに気がついた。
「すまない。飲みかけをわたすなんて……失礼だったな」
「いえいえ、全然、気にしてませんわ!」
「そ、そう、か。気にしないならいいんだが」
何をそんなに動揺することがあるのかと、ジャックは不思議に思った。
(とても気にしていないように見えないが……次からは気をつけよう)
ガラス瓶を握りしめる両手に力が入ってしまったジャスミンは、いくらかの冷静さを取り戻した。
(ジャック様、きっと気がついていらっしゃらないのね)
やはりジャックは鈍感なのではないかと、彼女は小さくため息をつく。
(さっきのドキドキを、返してほしいわ)
気分が沈む前に、彼女は強引に頭を切り替えた。
「ジャック様が、ヤスヴァリード教のことを知りたいとおっしゃってくれたのは、本当にうれしいですわ」
「思い知らされたからね、この前の件で」
ジャスミンは居住まいを正して、正面の石の妖精を見つめた。
「わたくしは、神の加護を捨てなければならないことがわかっていました。それが、神なき国に嫁ぐという意味ですから。だから、わたくしは、ジャック様と違って祖国にいた頃から、学ばなくてはなりませんでしたの」
でもと、続ける彼女の横顔は、とても真剣だった。
「でも、ヤスヴァリード教を否定したのなら、当然なのでしょうけども、神の教えに代わる規範がないのでは、学べることなどわずかしかありませんでした」
悩める彼女に、ジャックは肩をすくめる。
「難しく考えることはない。善悪の基準など倫理観は、神の教えとはそう変わらないよ。独立したとは言え、英雄王ももとを正せば神聖帝国の信徒だったわけだしね」
「でも、神の教えを否定しましたわ」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ、ジャスミン」
肩を落としたジャックは、彼女の悩みを理解できていなかった。
「俺の祖先は、神に逆らったんだよ。今はそうでもないらしいが、川向うには非道な厳しい身分制度を強いていた過去がある。規範に定められた身分制度は、貧しき者は生まれて死ぬまで貧しいままだ。そんなのはおかしい。だから、ロバート王は神に逆らった」
「それは、教えに逆らったという意味ではないですか。身分制度は、神の教えを反映させたものだったはずですわ」
首を傾げて、ジャスミンは彼の言葉を否定した。
うまく伝わらなかったもどかしさもあったけれども、ジャックは苦笑いを浮かべる。
「俺はそうは考えていないが、そういう考え方もあるのだろう。俺はまだ教えをよくわかっていないから、そう言えるだけかもしれない」
「でも、なんとなくですけれども、わかったきがしますわ。根本にある善悪の基準などは、教えがなくても受け継がれている。そういうことですわよね、きっと」
「そうでなかったら、君はきっとこの王国の暮らしに耐えられなかっただろうね」
どちらからともなく、二人は倫理観がまるで異なる国を想像して笑ってしまった。
照れ隠しかの咳払いは、ジャックのものだった。
「おそらく、もっとも異なるのは、死生観だろうね」
「死生観……そういえば、この国には墓がないのよね」
「灰になって、大地の一部となるんだよ」
ヴァルト王国には、墓がない。死んだ人間は、火葬されるだけだ。
若いジャスミンには、祖国の教会で眠る祖先たちの墓も、王国の火葬もまだ実感をともなった理解ができていない。死後の神罰も、神の教えを通してでしか知らない。リディアの一件で、初めて死というものを身近に感じたほどだ。
「君が神罰の話をしてくれた時、俺はとても奇妙な話だと思ったよ」
「奇妙、と言いますと?」
「死後の世界のために、生きるというのが理解できなくてね。それって、なんというか虚しい人生ではないかなって。馬鹿にしたいわけではないが、正直なところ理解に苦しむ」
ジャスミンは、ジャックが言ったことを自分なりに考えてみる。当たり前だと疑わなかったことを、そうやって考えるのはなんだか楽しかった。
「死後の世界のために生きるというのは、語弊がある気がします。天国へ行くのも地獄へ行くのも、どう生きたかという結果ですわ。神の教えにもあります。今を懸命に生きよ、と。いちいち死んだあとのことを考えて生きている信徒のほうが珍しいわ。もちろん、天国に行ける方がいい決まっています。けれども、それがすべてではありません。今目の前にある試練や悩みを解決する答えは、今を生きるからこそ見いだせるのです。天国でも地獄でもなく、今生きているこの世界にありますわ」
「なるほど、俺の早合点だったわけだな」
「神の加護を捨てたわたくしが言うのもなんでしたけど」
困ったようにジャスミンが笑うけれども、ジャックは真剣だった。
「いや、ありがたいよ。今まで、医療と治癒の奇跡をあわせるのが理想だった。いや、理想でしかなかったんだな。俺は相手を知ろうともしていなかった」
「でも今は、知ろうとしてくださっている。わたくしも負けていられませんね」
フフッと嬉しそうに笑った彼女に、ジャックの難しそうな顔も崩れる。
(やはり、今すぐ結婚したい)
顔が緩みそうになって、慌てて唇に力をこめる。
「俺も、君に負けていられないよ。灰になっても、俺は理想を実現させるのを諦めない。ますます
彼の理想を、ジャスミンは心から実現してほしいと思った。
「あ、そうそう、『灰になっても』というのは、この国独特の言い回しらしいな。さっきも話したが、この国では死んだら灰になるまで焼かれる」
「そして、大地の一部になるのでしょう?」
熱弁を振るう彼の声は、ジャスミンに心地よく響く。
「それは、直接的な意味だけではない。この国では、死後の世界は存在しない。人間以外の生き物たちと同じさ。死は、生の終わり。死後に行く場所なんてない。だから、植物や他の生き物たちのように、次の世代への肥やしになる」
「肥やし、ですか」
「結局、死んだあとのことなど、ヤスヴァリード教の神官様だって確かなことは言えないだろう? 俺達だってそうだ。死は避けられない終わりで、死んだ人間は喋れない。だから、死がどのようなものか、誰も確かなことは知らない。生きている限りね」
ジャックは、ジャスミンよりもずっと身近に死を感じてきた。次の春に移り住むだろう月桂樹館に潜む死の影を、彼はいまだに恐れている。死ぬということがどういうことなのか、彼は自分が納得する答えを見つける必要があったのだ。
(死というものを知っていたから、ジャック様はリディを救えたのかもしれないわ)
熱弁を振るう彼の横顔を眺めているだけで、ジャスミンはなんだかとても気持ちが温かくなってくる。
「灰になっても、というのは、死んでもと言い換えてもいいかもしれない。だが、俺達の感覚ではそれでは違和感がある。君にうまく伝えられるかわからないが、俺を俺たらしめるのは、ヤスヴァリード教の魂ではない。この体だ。死んでも、この体が俺だと周囲に示してくれる。そして、炎の中で終わりを迎えた体は形を変えなくてはならない。火葬され、灰になって大地の一部になっても、俺だったことには変わりない。俺が別のものになっても、自分のままで守り通したいことがある。……そういう意味なんだ」
だからと、ジャックは膝の上の両手を握りしめた。
「俺は、灰になっても、君のことを……ん?」
突然、ジャスミンが彼に寄りかかってきた。心臓が止まるほど、彼が驚いたのは、言うまでもないことだろう。
「え、えーと、ジャスミン? これは、そのぉ……寝てる」
好意をはっきり見せてくれたのかとのぼせ上がったのも、つかの間のこと。
ジャスミンは、規則正しい寝息で気持ちよさそうに眠っていた。昨夜の寝不足と、樫の木の下でのランチ、お腹がいっぱい満たされたあとの散策の疲れ、なによりジャックの熱弁が心地よく響いたのが原因だ。
「ジャスミン、ジャスミン?」
ジャックが声をかけるけれども、寝息しか聞こえない。
「……ジャズ?」
思いきって、愛称で呼んでみたけれども、起きる気配はない。
(起こしたほうが、いいのか? それともこのまま起きるまで?)
彼女の顔を覗き込むと、とても気持ちよさそうにぐっすり眠っている。
ゴクリと生唾を飲み込んでしまうほど、彼女の寝顔は愛らしかった。
頬にかかる一筋の真っ赤な髪が、桜色の唇から漏れる寝息に吹かれて揺れている。それだけで、ジャックはずっと眺めていられると思った。
彼女の赤いまつげが、くるんとカールしていることを、初めて知った。
なにより、ジャケット越し伝わってくる彼女の体温と重みが、心地よすぎてたまらない。
とてもとても、気持ちよさそうに眠っているジャスミンを起こすなんてできない。
「きっと、いい夢を見ているんだろうな」
時間が許す限り、こうしていようとジャックは決めた。
しばらくの間、彼はじっとジャスミンの寝顔を眺めていた。それから、飽きたわけではないけれども、首が痛くなってきて正面にある妖精の像を見つめる。
「十年前、君は俺との結婚が嫌で泣いた。さすがに傷ついたよ」
胸の中にある想いが言葉になって口から溢れ出るまで、そう時間はかからなかった。一度溢れ出した想いを、彼は止められない。
「俺はね、ジャスミン。この十年、君に結婚するなら俺しかいないと夢中になってほしくて、父のくだらないゲームをやり通してみせると決めた。君のためと言ってもいいかもしれない。見返して、夢中になってもらいたい。そのためなら、なんだってできた」
一度言葉を切って、彼はジャスミンの寝顔を愛おしそうに見つめてから続ける。
「俺は、君に好きだって言ってほしいんだよ。俺と結婚したいって、さ」
たちまち気恥ずかしさに襲われたジャックだけれども、彼女の寝顔から目が離せない。
「君と再会するのは、正直不安だった。十年ぶりに会う君に、今までの気持ちを維持できるか、自信がなかった。俺だって十年前の俺じゃない。だが、俺は君をちゃんと好きでいられた。それどころか、ますます好きになっている」
軽くジャックはため息をついた。
「……なんで、君が起きているときに言えないのかなぁ」
どこかの木陰で、双子たちが死に物狂いで笑い声を押さえていたかもしれない、そんな平和なひと時だった。
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