樫の木の下で

 緑と白の迷路を抜けると、そこはちょっとした芝生の広場だった。なだらかな起伏の芝生の中心には、大きな樫の木がある。


「子どもの遊び場には、こういうところがうってつけなんだ」

「へぇ、そうなのね」


 従兄のマクシミリアンと遊び回ったとジャックは笑って、樫の木を指差す。


「あの木の下で、お昼にしよう。……だからもう少しだけ我慢してくれるかな」

「もちろんですわ」


 食い意地張ってる女だと思われてしまっているのかと、ジャスミンは内心焦った。


(そういえば今朝は、あまり食が通らなかったものね。しっかり食べておけばよかった)


 昨夜眠れなかったせいで、食欲がなかったのが原因だ。

 ジャックなりに、お腹を空かせた彼女を待たせてしまった気まずさを払拭しようとしたのだけれども、完全に裏目に出いている。そして、質の悪いことに、裏目に出ていることに気がついていない。ステッキを握る右手に力が入る。


(予定よりも遅れてしまったが、なんとか好感度を上げなくては)


 彼は、樫の木の根本に毛織の敷物を広げる。焦げ茶の丈夫な敷物は、ところどころ擦り切れていた。


「こうしてバスケットいっぱいに食べ物を詰めこんでは、この敷物の上で自由時間を楽しんだりもしたよ。ほら、座って」


 敷物はそれほど大きくなかった。ランチの支度をしているジャックの邪魔にならないように彼女が座れるスペースは、木の根元の近くに限られていた。せっかくの新しいドレスが汚れないように気をつけながら、木の幹を背にして腰をおろす。


(ジャック様、なんだか、とても楽しそうね)


 彼女はピクニックなんてしたことがなかった。


 彼女が生まれ育ったマール共和国は、ヴァルト王国の北にあり、大陸西部では北方諸国の一つに数えられる。十月の今頃は、すでに冬になっているだろう。あたりを眺めると、広場の縁を彩る花壇があった。ピンク色の花が風に揺れている。花壇の向こうは横に並んだトウヒの木々。その幹の隙間からまた整備された石畳と彫像がちらりと見える。


「わたくし、秋なんて季節は生まれて初めてですわ」


 ポツリと漏れた独り言が、ジャックの耳に届かないわけがなかった。

 丸っこい壺を取り出した彼は、苦笑して彼女の隣りに樫の木の幹を背にして座る。


「俺は、海や雪をまだ知らないよ」

「あっ……」

「君を責めたいわけじゃない。ただ、そのなんて言っていったらいいのかよくわからないけど……」


 失言だったかと焦るジャスミンに、ジャックは困ったように笑いながら木のボウルを差し出す。


「いつか俺も海や雪を見ることができたら、俺にとって当たり前の景色が新鮮に感じられた君の気持ちがわかるのかなぁって思ったりなんかしちゃったりして」


 気恥ずかしさに負けてジャックは、視線をそらしてしまった。


「まぁ、まず無理だろうけど」


 前回アスターで雪が降ったのは九十年前の冷害のときで、ヴァルト王国の外に出ない限り海は見えないからと、ジャックは早口で続ける。

 そんな彼に、ジャスミンはクスッと笑ってしまった。


「ジャック様にも、憧れるものがあるのね」

「もちろん、俺にだってあるさ。人間なんだから」

「なんだか、安心しましたわ」


 クスクス笑う彼女に対して珍獣か何かではないと不満だったけれども、ジャックはぐっとこらえた。


(まぁ、わからんでもないな。これでも俺は神の国に比肩しうる王国の王太子だし、人並みの感覚が抜けていると思われてもしかたないか)


 ムキになって嫌われるのは、大人げないと自分に言い聞かせた。


「少し冷めてしまっただろうけど、まずはこれから食べようか」


 ジャックが丸っこい壺を傾けると、ドロっとした白いポタージュがジャスミンの木のボウルに注がれる。

 湯気は立っていないけれども、ツルツルしたボウルから温もりが両手に伝わってくる。

 自分のボウルにポタージュを注いで、ジャックは顔を上げた。


「ほら、遠慮しないで」

「はい」


 とジャスミンはうなずいたけれども、スプーンがない。戸惑う彼女の目の前で、ジャックは片手でボウルの縁に直接口につけてポタージュをすすり始める。


(お行儀が悪い。はしたない。……って、お母様が見たら卒倒してしまうわ)


 なかなかポタージュを口にしない彼女に、ジャックはようやく気がついた。


「すまない。カトラリーも用意させておくべきだったな」

「大丈夫ですわ、ジャック様」


 彼女は、両手でジャックと同じようにボウルの縁に口をつけた。

 驚いたジャックだったけれども、すぐに嬉しそう笑う。


(よかった。スプーンもなしでは食べられないと嫌われなくて)


 ジャスミンは、胡椒をほどよくきかせたジャガイモのポタージュのザラリとした舌触りに驚いた。目の細かい裏ごし器で丁寧に裏ごしされたなめらかなポタージュにはない、素朴で優しい味。

 雛菊館で出される手間暇かかった料理に慣れていた彼女には、新鮮さがあった。


(まだたったのひと月と少ししか経っていないのに、わたくしはもうここの暮らしに慣れ始めているのね)


 別に素朴な料理は初めてではない。むしろ、故郷では質素な料理のほうが多かった。それなのに、新鮮だと感じた自分がなんだかおかしかった。


 ボウルを空にしたジャックは、早くもサンドイッチに手を伸ばしている。


「ジャック様も、お腹が空いていたのね」

「そう言ったではないか」


 憮然として答えたジャックを微笑ましく思いながら、ジャスミンもナプキンの上に並んだサンドイッチに手を伸ばす。


 チーズや燻製、もちろん庭園の一角にある菜園で取れた野菜、中にはフルーツまで挟んだバリエーション豊かなサンドイッチは、一口サイズに切り分けられているお陰で、ジャスミンも手が止まらなくなった。


(どれも美味しい。パンも固くないのに、味わい深いし)


 食い意地が張っているように見られていないかなんて、考える余裕などなかった。

 あっという間に二人の胃袋にサンドイッチは消えてしまうと、ジャックは二つあった小ぶりなガラス瓶の片方を差し出した。


「レモネードもあるよ」

「いただきますわ」


 栓を抜いて直接瓶に口をつける彼に、ジャスミンは意外だと思わなかった。けれども、レモネードが喉を通るたびに上下する喉仏に、ドキリと心臓が跳ね上がってしまった。

 なかなか口をつけない彼女に、ジャックはまた直接口をつけることに抵抗があるのかと誤解してしまった。


「ジャスミン、コップも……」

「いえ、大丈夫ですわ。わたくしも、このくらい……」


 慌てて栓を抜いて、ジャスミンは瓶に口をつける。ぬるかったけれども、レモネードは美味しかった。溶け切っていないはちみつのドロっとした舌触りに、なぜか余計に胸がドキドキした。


 一度、意識してしまったら、どうしようもなかった。


(よくよく考えてみればわたくしは、殿方と二人きりになるなんて初めてよね)


 以前、テラスで読書をしていたときにジャックがふらっと訪ねてきたときのことは、数えないものとする。


 ジャスミンは、これほどジャックを男として意識したことはなかった。

 男である前に、婚約者だった。


(ラブラブな夫婦になりたいって宣言してきたけど、わたくし、本当はあまり考えていなかったのではないかしら)


 そもそも、人間に見えないと言われたことに腹を立てて、絶世の美女になって見返してやろうと決めたのが、始まりだった。あれから十年たつというのに、ほとんど男というものを知らなかった。


(BLは別としても、わたくし、男女の関係ってよくわかっていなかったのね)


 おそらく、ボーイズラブ小説にハマっていたからこそ、七歳の頃からジャックに対する気持ちが変化しなかったのだろう。


(わたくし、夫婦というものを友人の延長線だと思っていたのかもしれないわ。ラブラブって、どういうことなのかしら)


 空になった瓶を膝の上に置いて、恋愛というものがどういうものか、ジャスミンは考えこんでしまった。


 ジャックを見返してやりたいと、彼のことばかり考えてきた。それこそが彼女がジャックに恋している証だということに、彼女はまだ気がついていない。


 悩める彼女の傍らでは、ジャックも柊館で言いそびれた話をどう切り出そうか悩んでいた。


 お互いの距離に悩める二人を、樫の木の木漏れ日が包みこんでいた。


 樫の木の下のゆるやかな沈黙は、それほど長くはなかっただろう。けれども、二人にとっては深い時間だったに違いない。

 沈黙を破ったのは、ジャックだった。


「俺は、医療と治癒の奇跡を合わせれば、もっと多くに人を苦しみから救える。そう考えてきた。それが、俺の理想だった」


 ジャスミンは、リディアに嘘をつかせてまで命を救ってくれた彼の真剣な姿を思い出した。


「それはやはりお父君の影響でしょうか?」

「いや、違う」


 きっぱりと否定されて驚く彼女に、彼は苦笑する。


「たしかに、父は生まれつき病気持ちだ。だが、それだけでは医療の発展だけを理想としただろう」


 敷物の側に、一羽の小鳥が降り立つ。申し合わせたように、二人は白い小鳥を眺める。首を傾げる姿が、なんとも愛らしい。


「かわいいな」

「ええ。……それなら、ジャック様はどうして医療と治癒の奇跡が相反するものではないと、お考えになったの?」

「神聖帝国に亡命した……といっても、密入国まがいだったらしいが、ギルバート王子がきっかけだ」


 ジャックは飛び立った小鳥を目で追いかけた。


「六王子の肖像には、本来描かれるはずのないものが描かれている。……ギルバート王子の右腕だ」

「えっ?」


 ジャスミンは絵画の中で、両手を膝において隣のコーネリアスと目線を合わせて快活そうに笑っていた少年を思い起こす。たしかに、両手があった。


「あの絵が描かれる二年前、彼は事故で負傷した右腕を切断している。かなりひどい怪我だったらしい。初めて事故の記録を読んだときは、右腕が痛くなったよ」


 自分の右腕を押さえたジャックを見て、ジャスミンもそっと自分の右腕に触れる。


「幻肢痛と呼ばれる病気がある。失った右腕の激痛に、彼は苦しみ続けた」

「失った右腕の痛み?」

「それほど珍しいわけではないよ。おそらくは、精神的な痛みだとされているが、実際には存在しない右腕を治療するなど、どんな名医にもできない」

「それで、神の奇跡に救いを求めて神聖帝国に亡命をしたのですね」


 さっきの小鳥が戻ってきた。チチッと鳴く声に、難しい顔をしていた二人の口元を緩ませる。


「考えついた者はいたかもしれないが、実際にやってのけたのは、ギルバート王子だけだ。俺がもし同じ立場だったらと考えてみても、絶対にそんな真似はできなかっただろうね。失った右腕の痛みに、苦しみ続けたと思う」

「……痛みも苦しみも知っているなら、リディをまかせても大丈夫ね、きっと」

「そう言ってくれて、ホッとしたよ」


 クスッと笑ったジャックは、小鳥から視線を外して空を見上げる。風が出てきて、樫の木の枝葉がざわざわと音を立て始める。


「神聖帝国は、謎に満ちている。空を飛ぶ船とか、炎を操るとか……」

「皇帝のすべてを見通すまなことか。元信者の私が言うのもなんですけど、おとぎ話めいている国よね」

「まったくだ」


 気にはなるけども、行ったら帰ってこられないのではという空恐ろしい国がフラン神聖帝国だ。独立戦争をしたヴァルト王国の民にとっても、ヤスヴァリード教の信徒にとっても。


(実際、奇跡の担い手の適性があるからと修行に行った子は、ほとんど帰ってこなったものね)


 そういうものだと思っていたけれども、よくよく考えてみれば、なんだか恐ろしい話だとジャスミンは気がついた。


「それで、ギルバート王子は、苦痛から解放されたのでしょうか?」

「らしい。実際に会ったことはないけどね。そうでなかったら、父に治してやるから来いなどと、しつこく手紙もよこさないだろうよ。もっとも、実際にその手紙も見たことはないけどね」

「弟思いなんですね」

「父は、鬱陶しがっているけどね」


 ひときわ強い風が、ジャスミンの山吹色の帽子をさらっていった。


「あっ」


 と、ジャスミンが声を上げたときにはジャックは走り出していた。

 緑の起伏を転がる帽子を追いかけて捕まえた彼は、誇らしげに帽子を振りながら戻ってきた。


「少し、歩こうか」

「ええ。せっかくですものね」


 帽子をかぶってジャスミンは照れたように笑う。

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