パーティーの前に

恋人たち

 十月の半ばにリセールを発ったマクシミリアンは、その日、花の都アスターと水の都リセールの中間を過ぎたあたりの町カロンにたどり着いた。

 花の都に通じる主街道沿いにあるカロンは、活気のある宿場町だ。マクシミリアンが贔屓にしている高級旅館の一室で、デボラはマクシミリアンに待っていた。


 夕日の色に染まる部屋で、彼女は深い溜め息をついて眼鏡を外す。細かい金の鎖にぶら下がった眼鏡は、ほっそりとして華奢なフォルム。

 机に広げた新聞を畳んで、水差しに手を伸ばして傾ける。

 頬にかかった一筋の金色の髪を耳にかけて、水を飲む。


「まさか、帰りたくなるなんて思わなかったなぁ」


 リセールで生まれ育った彼女にとって、初めての旅だった。

 国内とは言え、物珍しさで浮足立ったのは初めの三日ほどだけだった。


(覚悟はしていたのに)


 国王の甥でリセール公のマクシミリアンの恋人なんて、自分にとって過ぎた話だとわかっていた。彼女はわかっていたつもりだった。


「ジャスミン・ハル」


 畳んだ新聞の一面に載っている雛菊館の新しい女主人の絵姿が、憂鬱な青い瞳に映る。


 一人では広すぎるこの部屋で、彼女は恋人を待っている。

 マクシミリアンは今、この街だけでなく近隣の有力者たちと接待を受けている。


「今日も遅くなるだろうし、寝てしまおうかしら」


 カロン名物の夜市の賑やかさはここまで届かない。高級旅館は、喧騒から少し離れた高台にある。窓の外に目を向ければ、夜市の明かりが見えるだろう。けれども、近づくことすらできなければ虚しいだけだ。


 今朝、マクシミリアンと夜市に行こうと約束していた。もちろん、彼はお忍びでだ。彼は、リセールでも庁舎や居宅に閉じこもる生活を嫌っていた。お忍びで街に遊びに出かけていた。

 デボラとマクシミリアンと出会ったのは、そうしたお忍びの最中だった。


 また一つ、深いため息をついてしまう。


「ため息なんかついてどうしたんだい、デビー?」


 突然、暗澹たる空気を切り裂くような声がした。驚いて振り返れば、マクシミリアンの黒いジャケットがすぐそこにあった。もちろん、ジャケットだけではない。ジャケットを着ているマクシミリアンも、そこにいた。


「いたなら、声をかけてくれてもいいじゃない」

「怒るなよ」


 むくれたデボラに、彼は困ったように笑う。


(本当に、猫みたいな困った人)


 なにも気配を殺して忍び寄らなくてもと、頬を膨らますのはこれが初めてではない。


「にしても、これから夜市に出かけようっていうのに、何が君を憂鬱な気分にさせているんだい?」

「別に、待ちくたびれただけよ」


 それは申し訳ないと苦笑しながら、シミひとつないジャケットを脱いだ彼は、デボラが細い腕でそっと隠そうとした新聞に気がついた。


「さてはこれだな。俺の愛しい人を悩ませているのは」

「あっ」


 と声を上げたときには、彼は新聞を取り上げていた。


「期待の赤毛の次期王妃ジャスミン・ハルの近況」


 一面の絵姿の上に書かれた見出しを、彼は真面目くさった様子で読み上げた。

 彼は興味深そうに記事に目を通す。

 近況と言っても、雛菊館の女主人は月虹城から一歩も出ていない。まだ人前に姿を見せていない彼女について、この記事を書いた人物は雛菊館に出入りする使用人や商人から、聞き出した話をまとめているようだ。来月のガーデンパーティーのための衣装についてや、使用人たちの評判、それから彼女が好む香りや色や食べ物などが、好意的に書き連ねられていた。


「いまだに人気が衰えないどころか、ますます愛されているようじゃないか、赤毛の姫は」

「そのようですね」


 よそよそしく答えたデボラに、マクシミリアンは軽く唇を噛んだ。けれども、視線は新聞から離れない。


「ほぉ、面白いことが書いてあるな。『王妃以外の者を雛菊館に迎え入れたのは、異例中の異例である。多くの奇行が知られている先の王ロベルトと違い、実利の王コーネリアスがこのような異例をおこなったのには意味があるのではないか』、ね。なるほど、なかなか賢いやつもいるじゃないか」


 ククッと、彼は喉を鳴らして笑った。


「だが、続きは賢くない。『療養中のコーネリアス王自身が、ジャスミン姫を妃に迎えることもあるのではないだろうか』……叔父上に限って、それはないだろうよ」


 新聞をめくろうとした彼の腕を、デボラは掴んだ。


「ねぇ、早く夜市に行きましょう。楽しみにしてたんですもの」

「そうだな」


 ところが、彼は一面のジャスミンを称える記事の裏に書かれている記事を目に止めてしまった。


「ああ、これはいただけないな」


 形よく整えた眉をひそめて、彼は素早く目を走らせる。ようやく、恋人の憂鬱の種を理解した。

 その記事には、『リセールの伊達男を誑かす女デボラ・ウォンの正体』と見出しにある。恋人の経歴だけでなく、王の甥を誑かす悪女として書かれていた。


(デビーは、気にするよな)


 気にするなと言いかけて、マクシミリアンは唇を噛んで新聞を畳む。


 デボラは、リセールで印刷と製本に携わる家の娘だ。はっきり言ってしまえば、王族の恋人にはふさわしくない平民だ。

 王族のマクシミリアンではなく、彼女は彼の人となりに惹かれて愛している。身分違いだと言い聞かせても、どうしようもないほどに愛してしまっているのだ。


 うつむかせてしまった彼女の手を取って、マクシミリアンは肩をすくめた。


「デビー、俺はお前を妻にする。そう決めたと言ったろう」

「わたしは……」


 結婚できなくてもリセールでの類まれな幸運がもたらした幸せな日々が続けばいいとは、彼女はどうしても言えなかった。


(マックスは、きっと王になって赤毛のジャスミンを王妃に迎えるんだわ)


 口癖のように一番だと言ってくれるけれども、全然一番ではないか。

 彼女は、新聞の記者よりも実情を知っているつもりだ。マクシミリアンとともに過ごしていれば、嫌でもわかってしまう闇もある。


「デビー、そんな顔しないでくれよ」


 弱ったなと短い黒髪をかいた彼は、一度彼女の手を離して急いで着替える。そこそこ着古されて袖が擦り切れているぶかぶかの茶色いコートを羽織って、北方諸国で作られた臙脂色をした毛糸の帽子を被れば、お忍びで出かける準備は万端だ。年寄りと同じくらい年季が入って毛玉が目立つ帽子は、聡明な彼になぜかよく似合っている。まるで、冴えない学者だ。

 わざとらしいまでのぎこちなさで膝を折って恋人に差し伸ばした彼は、大根役者のふりをした貴公子だ。


「俺は腹ペコだ、デビー。夜市に行こう」

「そうしましょう」


 思わず吹き出してしまったデボラは、彼の手を取る。

 マクシミリアンのお忍び癖は、彼を取り巻く人々なら誰もが心得ている。どう思っているかは別としても、皆彼に協力的だ。

 贔屓の旅館ということもあって、彼も勝手をよく知っている。通用口を出て、あっという間に賑やかな通りの雑踏に二人は紛れ込む。

 デボラが彼のお忍びに付き合うのは、初めてではない。それでも、見知らぬ街でとなれば、新鮮なスリルがある。それは、マクシミリアンも程度は違っても同じだったかもしれない。

 夜市に繰り出す住人や旅人たちの流れに乗って、ようやくマクシミリアンは口を開いた。


「なぁデビー。決めたよ、俺は」

「何を?」


 マクシミリアンの真剣な声は、雑踏の中では腕を組んで歩くデボラにしか届かない。


「君には、このくだらないゲームの真相を明かしておこうって、今決めたんだ」

「くだらない?」

「ああ、こんなくだらないゲームに付き合わされている俺様に、君は同情するだろうよ」


 首を傾げた恋人の耳元で、彼は愛とは程遠い話を聞かせる。けれども、話を聞くうちに、デボラの胸の中から憂鬱さが消えていく。


 旅館の窓から虚しく眺めていた夜市にたどり着く頃には、彼女は笑顔で恋人と腕を組んで夜市を楽しんでいた。

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