リディアの後悔
リディアは、目を覚ました。
(また、別の場所に移されたのね)
見知らぬ天井を見上げるのは、これで三度目だ。
一度目の見知らぬ天井は、高かったせいかはっきりと覚えていない。
二度目は、白っぽかった。高さだったの何だったのか、根拠ははっきりしないけれども、一度目の天井とは違うと感じ取った。
三度目は、ずっと低い年季の入った板張りの天井。
(立ったら、頭をぶつけてしまいそうだわ)
しかも、天井は低いだけでなく狭い。
ベッドの右側は天井と同じような板張りの壁が迫っている。壁には、小さな窓がある。薄いカーテン越しの明かりでは、今が昼間だということくらいしかわからない。上体を起こせれば、薄いカーテンを開けて、外の様子をうかがえただろう。けれども、手をあげようにも、力が入らない。手だけではない。体全体に、力を入れられない。指一本動かすのもしんどいようでは、諦めるしかない。
首を反対側に巡らせてみれば、壁ではなかったけれども、ベッドの左端には頭一つ半ほどの幅の板が添えてあった。
(まるで、独房ね)
そうだったらいいのにと思いつつも、違うと彼女はわかっていた。
しかたなく天井に視線を戻して、ため息をつきながらまぶたを閉じる。
(わたしって、こんなに重かったのね)
見るからに神経質そうなくらい痩せていたのは、自覚があった。なかなか太らない体質のせいだったのかはわからないけれども、おかげで損ばかりしてきた。
「嫌なことばかり考えてしまうわね」
彼女は胸元に感じる聖石の重さに意識を集中する。本当は両手を添えたいところだけれども、今はそれすらままならない。
「神は、いつだって見守ってくださっている。すべてを見通す眼で、こんな愚かなわたしでも、見守ってくださっている」
神なきヴァルト王国でも、彼女はそう信じていた。今は、信じたい。
「わたしは、罪から逃れるために、嘘をついてしまいました。裁かれなくてはなら……」
懺悔は、途中で虚しく止まってしまった。
まぶたを押し上げる際に、ぎゅっと眉間にしわを寄せたのは苦痛のせいではない。
「本当に、腹が立つわ」
彼女の脳裏に浮かんだのは、三つ編みの男だった。
(あんな奴のせいで、懺悔もできないなんて)
腹立たしくて、悔しくて、情けなかった。
「嘘をついたなら、どんなによかったか」
嘘をついたなんて告白は、今の彼女にとって真実ではなかった。
リディアは、嘘をつかさせたジャックが恨めしい。
あの日――何日前かはわからないけれども、教会を一人で訪れたあの日のことを、はっきりと覚えていない。
ずっと体がだるくて、頭もぼうっとしていた。それでも、いや、だからこそ、教会に行った。
香の甘い匂いが立ちこめる教会で、他の信徒たちとともに祈りを捧げている間は、体が楽になった。神への祈りが通じたのだと、その時は信じて疑わなかった。
「まさか、花の都の教会が腐っていたなんて……」
祖国のよりも荘厳な教会に初めて訪れた時は、思わずここが神なき国だということを忘れてしまうほどだった。
それなのに――。
二度目の白っぽい天井で目を覚ましたときに、すべて太鼓腹の役人から聞かされた。
あの教会が、堕落していたことも、魔女のクスリのことも、自分が反体制勢力に利用されたことも。
悔しいとか腹立たしいとか、今でもなぜあの時そういう感情が沸き起こらなかったのかと不思議だった。まるで、現実味がなかったというのもある。けれども、何より嘘をつかせたジャックだけは、どうしても許せなかった。
あの事件があった次の朝、彼女は目が覚めても、まだ眠っているようだった。夢うつつとか、起き抜けとは違う。頭が重くて何か考えようとしても、うまくいかない。とても不快な気分だった。
ぼんやりと見知らぬ天井を眺めても、どうして自分がこうなっているのかわからない。ぼんやりとした頭ではっきりわかるのは、教会に行った帰りに何かあったということだけだ。
(もしかしたら、帰りに倒れてしまったのかもしれない)
いつまでたっても、うまく頭が働かない。ならいっそのこと、体を起こしてみようとしたけども、まったく力が入らない。
「なに、これ」
頭だけでなく体も思うようにならない。
嫌な汗が体中にじわりと浮かび上がるのがわかった。
「いや、いや、いや……」
思考が伴わない自分のうわ言が、彼女を一気に恐慌状態に陥らせる。
「いやぁああああああ!!」
何が嫌なのか、正体すらわからないまま叫びを上げる。そのあとは、自分のものとは思えない意味不明の喚き声を上げ続けた。
聞きつけた誰かが何か厳しい声で話してたり、何度も体を触ってきた。それでも、正体のわからない衝動をこらえきれずに、喚き続けた。
どれだけ、喚いていたのかわからない。永遠のように感じた地獄のような時間は、すすり泣きに変わる頃にはほんの短い間だったような気がした。
「ようやく、落ち着いたようだな」
すすり泣く彼女の耳に、ようやく人の声が意味のある言葉として届いた。
涙でぼやける視界では、年嵩の男であるとしかわからない。
乱れて汗で張り付いた髪や涙だけでなく、鼻水やよだれで汚れきった彼女の顔を憐れに思ったのか、男は別の誰かに声をかけて離れていった。入れ替わるように来たのは、若い女だった。
「お顔、拭きますね」
「えっ」
戸惑いの声を上げるけれども、女は手慣れた手つきで丁寧に優しく温かい布巾で押し当てるようにして拭いていく。
自分の顔を拭くことすらできなくて、惨めさに泣きたくなった。けれども、彼女の優しい手つきに心が癒やされたのも、事実だった。
「あ、あの……」
「どうされましたか?」
丁寧に目やにまで拭いてくれた彼女に、リディアはもじもじとしながら小声でもよおしてきたと伝えた。
「大丈夫ですよ。おむつも、後でちゃんと取り替えますから」
「おむ……」
リディアは聞き間違えたのかと思った。
けれども、困りきった顔で女ははっきりと残酷なことを言った。
「お恥ずかしいでしょうけど、我慢して下さいね。あなたは絶対安静で、ベッドから起き上がることもできないんです」
「そんなはずない」
勢いよく体を起こしたのは気持ちだけで、リディアは手足に力を入れるのがやっとだった。
「無理はしないでください」
残酷すぎるほどの優しさで、女はリディアをなだめようとする。
(どうして、どうして、わたしがこんな目に合わなきゃならないの)
また喚きたくなったけれども、喚いたところで惨めになるだけだと、今の彼女ならわかる。
「ついでに、お体も拭きますね」
抗いたくても、体が言うことを聞いてくれない。泣きたくなるほどの恥辱に、目を閉じて涙を流さないことが彼女の精一杯の抵抗だった。一度泣いてしまえば、もう生きる気力すら失いそうだった。
「これで、きれいになりましたよ」
名前も知らない他人にされるがままの恥辱は、白い服に着替えさせられてようやく終わった。
どうしてこんなことになったのか、自問を何度も繰り返した。神にも問いかけた。けれども、答えはわからないままだった。
女の気配が去ってからしばらくしてから、彼女はようやく目を開けてまばたきを繰り返した。
(みっともなくても、怒ればよかったのに)
けれども、そんな気力もなかった。
服を脱がされ、見られたくないところまで丹念に体を拭かれた。聖石だけが、今までどおり胸元に置かれていた。
なんとか手を添えようとしているうちに、新しい気配が靴音を鳴らしながらやってきた。
ベッドの脇から覗き込んだのは、黒い三つ編みの青年だった。
「ジャック、様?」
「ああ、そうだ、わたしだ。……確かにしっかり受け答えできそうだな」
途中から彼女から視線を外して背後に控えている誰かに向けて、ジャックは硬い声で言った。
リディアは、なぜジャックが来たのかわからなかった。今の自分の姿を考えると、早くいなくなって欲しい。おむつをしているなんて、家族にも見られたくない。
「リディア・クラウン」
彼女の気持ちに気がつくわけもなく、ジャックは再び彼女に視線を戻した。今度は、ジャスミンよりも濃い緑の瞳をじっと覗きこんできた。
「君は昨日、教会に行ったのは、覚えているか?」
「……? え、ええ、行きました、けど」
戸惑いながらも答えると、彼は慎重な顔つきで軽く頷いた。
「では、教会を出たあとのことは?」
「出たあと?」
教会をいつ出たのかも、はっきり思い出せない。ジャックに尋ねられたからだけではなく、記憶の空白をどうにかしなくては落ち着かないのだ。
(教会を出るときに、たしか……)
声をかけられたような気がする。
眉間にシワを寄せて少しずつ記憶を手繰り寄せていく。
なかなか思い出せないでいるリディアに、ジャックはなぜか満足げに唇の端を釣り上げた。
「リディア・クラウン、君は昨日、教会に行った後のことを覚えていないようだ。そうだな?」
「えっ」
今、思い出しているというのにと焦る彼女の目が、ジャックの右手の包帯をとらえた。それが呼び水となって、一気に記憶がよみがえる。
(わたしは、なんて恐ろしいことをしたんだろう)
頭の中に繰り返し響いた声に操られるようにして、王太子に危害を加えた。現実味のない記憶だったけれども、ジャックの右手の包帯が現実だと突きつけてくる。
「あっ、わたし……」
「覚えていない。そうだな?」
それなのにジャックは、リディアに思い出した事実を言わせなかった。
「君は、昨夜の記憶がない。そうだな?」
有無言わせない口調で、彼は繰り返した。
乾いた唇を湿らせて、震える声でリディアは答えた。
「何も覚えていません」
許されないことをしたとわかっていながら、嘘をついた。
それでいいと満足気に、口元を緩めてジャックはずり落ちていた掛布を首元まで引き上げる。
「わかった。混乱しているだろうが、少し待ってくれ。今から、詳しく説明できる者を呼ぶから」
「……はい」
力なく答える頃には、激しい後悔が押し寄せてきていた。
なぜあの時嘘をついてしまったのかと、リディアはずっと後悔している。
起きている時間が短いせいで、あれから何日経っているのかわからない。けれども、リディアの後悔は激しくなるばかりだ。
次にジャックに会ったら、思い出したと告白しようと考えた。けれども、彼は姿を見せなかった。
じっと天井を見上げていると、お尻のあたりが痛くなってきた。寝返りを打たなければ、床ずれができてしまう。誰かそばに居てくれれば、寝返りを打たせてくれるのに、今はいない。そもそも、寝返り一つも、今はままならない。
ベッドの左側の板を手でつかむだけでも大変なのに、力を振り絞って体の向きを変えた。
「はぁ、喉が渇いたわね」
いつもなら、目が覚めてしばらくすれば誰かが来てくれた。今は一人きりだ。
「もしかしたら、本当に独房かもしれないわね」
一人きりだと独り言が増えるものだと、リディアは自嘲する。けれども、苦い笑みは押し寄せた悔しさに押し流された。
「本当に許せないのは、わたしなのよね」
本当はわかっていた。
嘘をつくように促したのは、ジャックだ。けれども、彼が嘘をつかせたわけではない。彼女は、自分の犯した罪から逃れたくて嘘をついたのだ。
嘘をつかなければ、きちんと裁かれて罰されていただろう。罰を与えられないことが、これほど苦しいとは思わなかった。
リディアが許せないのは、ジャックに甘えて嘘をついてしまっただけれではなく、わかっていながら彼のせいにしようとしている自分の弱さだった。
「このまま、死ぬのかしら」
また眠ってしまえば、次に目を覚ますことはないかもしれない。
「それもそれでいいかな」
死ねば、すぐにでも神が生前の行いを裁いてくれる。
「でも、やっぱり嫌かも」
死ぬことを想像すると、未練がこみ上げてきた。
(ジャズは、誤解しているもの)
懺悔したくてもできない自分の弱さ。それから、まだやり残したことがあるという未練。
「まだ、死にたくない」
たとえ、おむつをしていても、自分で何一つ思い通りに動けなくても、まだ生きていたかった。
滲んだ現実から目を背けるように、リディアは目を閉じた。
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