別れ
次にリディアが目を覚ましたときに見上げた天井は、前と同じで狭くて低かった。すすり泣いていた涙は、乾いていない。眠っていたのは、短い間だったようだ。シーツにこすりつけて、涙を拭う。
「喉、渇いた」
人を呼ぼうにもどうしたらいいのかわからない。声を上げるのも億劫だ。渇きもまだ我慢できる。
「神は、わたしを見守ってくださっている」
これほど祈りが虚しくなる日が来るとは、思わなかった。
しばらく天井をぼんやり眺めていると、足の方で扉が開く音がした。
「んっ」
体を起こそうとしたのがわかったのか、顔をのぞかせた人物は慌てて部屋に上がりこむ。リディアの顔をのぞきこんだは、カレンだった。
「起きてたのね」
「水、欲しいの」
「わかったわ」
上体を起こしてもらって、吸飲みを咥えさせてもらう。
「カレン、入ってもいいかしら?」
「ちょっと待ってください」
外から聞こえてきた声に、リディアは顔をこわばらせる。
「ジャズ?」
リディアの背中にクッションを差し込んで、カレンは困ったように笑った。
「お別れする前に、どうしてもお話したいそうです。リディア様の、恥ずかしい姿を見られたくないという気持ちもわかります。ですが、きっと今会っておかないと、後悔しますよ」
「わかっている」
優しい手つきで髪を整えてくれるカレンに、リディアは目を伏せる。
カレンは、ようやく出発の用意が整ったのだと説明してくれた。この独房のような部屋は、病人を運ぶための馬車だということも教えてくれた。
(そうだったわ。わたしは、神聖帝国に行くのよね。そしてもう戻ってこられない)
神の代理人の皇帝が治めるフラン神聖帝国は、リディアのような敬虔なヤスヴァリード教の信徒にとって、一生に一度でも訪れたい聖地だ。心がまったく弾まないと言えば、嘘になる。
「わかっているわ。わたしも、話したいことがあるもの」
わかったとカレンは、うなずいて腰を上げる。と、思い出したように彼女はリディアに笑いかけた。
「ああ、わたしがあなたの付き添いになりましたから、道中よろしくね」
「そう、ですか。よろしくお願いします」
まだ、リディアはカレンのことをよく知らない。けれども、なんとなくだけれども、帝国までの旅路で年上の笑うとエクボができる彼女とうまくやっていけそうな気がした。
カレンと入れ替わりに、ジャスミンが来た。先ほどは気がつかなかったけれども、ギシッと床がきしむ音がした。
「リディ……」
「やだ、泣かないでよ、ジャズ」
笑顔でやってきたのに、ジャスミンはリディアの姿を見るなり涙ぐんでしまった。
「だって、リディ。たったの二日しか経ってよ。たったの二日でこんな……」
ジャスミンはギュッと唇を引き結んでしまう。
(ジャズがそんな顔をするくらい、わたしは酷い有様なのよね。それにしても、たったの二日しか経っていないなんて思わなかったわ)
いつ受け入れたのかと尋ねられても困るだろうけれども、リディアは置かれている状況を受け入れていた。
グスングスンと鼻を鳴らしながら近づいてきたジャスミンに、リディアはどんな顔をすればいいのか、わからなかった。
ジャスミンは、どうしてもリディアに謝らなければならなかった。どうにか、出発前に会えるようにしてもらえたけれども、リディアと話ができる保証はなかった。それでも、せめて寝顔だけでもいいからひと目会いたかった。
(本当によかった。これできちんと謝れるわ)
溢れる寸前だった涙を拭って、ジャスミンはリディアを見つめる。
「ごめんなさい、リディ。お母様が私室付き女官なんかにしなければ、リディは……」
「誤解よ、ジャズ」
「え?」
話を遮られて虚を突かれたジャスミンは、目を丸くする。
そんな素直で可愛い従妹に、リディアは自然と微笑んでいた。
「ジャズ、あなたはシェーラおば様がわたしを私室付き女官にしたって誤解しているわ。わたしが、おば様にお願いしてこの国にやってきたのよ」
「どうして、だってリディは……」
すっかり涙も乾いたジャスミンに、リディアは年寄りの方にカサついた醜い自分の指先を見つめながらゆっくりと話し始めた。
「ええ、敬虔なヤスヴァリード教の信徒よ。当たり前でしょう? 命を救われたんですもの。神に感謝をしなくてはと、幼心に考えるのは自然なことでしょ。違う?」
「違わないわ。でも、リディはその癒し手のせいで、こんな目にあっているのよ」
「結果的にはね。でも、わたしは神に祈っている間は、とても心が落ちついた。それは確かよ」
でもねと、リディアは顔を上げて苦笑した。
「でもね、お陰ですっかり神経質そうな嫌な女って思われるようになっちゃったのよね」
「リディ?」
突然砕けた口調に変わった彼女に、ジャスミンは少し戸惑う。
「今なら、中途半端に癒やされたからってわかるけど、体力がなくてろくに走れない。女の子だからまだましだったかもしれないけど、それでも外で遊べないのは悔しかったなぁ」
「……」
ジャスミンは何も言えなくなってしまった。
(わたくし、本当にリディのこと何も知らなかったのね。いいえ、知ろうともしなかった)
彼女の言うとおり、神経質そうな嫌な女だと思ってた。見た目が、痩せぎすなのと、すぐに聖石に手を添えて祈りを捧げているから、よく知りもしないくせにそうだとばかり思っていた。雛菊館に来るまでの道中だって、彼女のことを知る機会はいくらでもあった。けれども、緊張していたせいか、自分のことしか考えていなかった。
恥じ入ってうつむくジャスミンを横目に、リディアは淡々と続ける。
「そんなわけで、気がついたら避けられちゃってたね。もともと、パパもママも過保護なところあったから、あまり遊ばせてもらえなかったってのもあるし……でも、やっぱり、わたしがそれいいやって馬鹿みたいに諦めちゃったのが、一番いけなかったのよね。大人しいわたしにくらべて、ジャズもみんな子どもだって、馬鹿みたいにね」
「リディ、ごめんなさい。わたくし、もっとあなたのことを……」
「ううん、謝らないで、ジャズ。言ったでしょ、わたしがそれでいいって諦めちゃったのがいけないんだって」
困ったように笑ったリディアを、ジャスミンは初めてまだ若いのだと気がついた。若いのに、死の影がはっきりと彼女に落ちていることも。
「ジャズを困らせたくてこんな話してるわけじゃないのよ。逆よ。わたしはね、家から出たかったの。パパもママも、わたしが修道女になることは大反対。早く結婚してくれって、そればかり。わかるのよ、パパとママの気持ちも。体力もなくて、痩せすぎで、いかにも神経質そうなわたしには、若さがあるうちに結婚させて人並みの幸せをっていうのも、わかるのよ」
ひと息ついて、リディアは初めて自分がおしゃべりだと気がついた。
(ジャズがいるから、かもしれないわね)
真剣な目でリディアの話に耳を傾けている従妹のことを、彼女もよく知らなかった。父親に政治利用される可哀想な従妹だと、彼女も考えていた。
そのことを正直に言うと、ジャスミンは意外だと驚きの声を上げる。
「わたくしは、政略結婚でも愛し愛されたいのよ。可哀想だなんて、わたくし、考えたこともなかったわ」
「ねぇ、わたしたち、もっと早く話していれば良かったと思わない?」
「ええ、とっても思うわ」
肩を落として力なくジャスミンは同意する。
「話が長くなってしまったわね。わたしも、全然可哀想じゃないのよ。……なんて、さっきまで死にたくないって泣いてたわたしが言っても説得力ないけど。でも、シェーラおば様に自分を売りこんでこの国に来たことは後悔していないの。本当よ」
「リディ」
声に熱をこめて、すがるように伸ばされた彼女の両手を、ジャスミンはしっかりと両手で握りしめる。
「ジャズ、わたしはパパとママの気持ちに添いたくなかった。わがままだと言われれば、そうだけど、わたしはわたしの人生があるって信じたかったの。たしかに、神なき国なんてって悩んだわよ。でも、それを差し引いても、神経質そうな痩せっぽちの女のままでいたくなかった。変わりたかった。結局、こんなこと引き起こしてしまったけど、後悔だけはしていないのよ」
「そうだったの……」
ジャスミンは、彼女を連れてきてしまったことを悔やんでいた。
(でも、リディが後悔していないなら、わたくしが後悔するのはおかしいわね)
おかしいだけではなく、ようやく親しくなった従姉を傷つけてしまうだろう。だから、ジャスミンはぎこちなくても笑ってみせた。
「なら、リディは死んだらいけないわ。もう会えないかもしれないけど、リディならフラン神聖帝国でもきっとやっていけるわ」
「ジャズ、ありがとう」
たったの二日ですっかり痩せ衰えてしまった従姉を、ジャスミンはしっかり抱きしめた。
「あのね、リディ。言おうかどうか迷っていたのだけど、後悔していないなら言うわ。あなたを診てくれたお医者様が、奇跡だって言ったのよ」
「え?」
「おかしいでしょう、神なき国の医者が奇跡なだなんて。でも、わたくしは、神がリディを導いてくれたと思うのよ」
強く抱きしめていた腕をほどいて、ジャスミンはしっかりとリディアの自分よりも濃い緑の瞳を見つめる。
「魔女のクスリを使った催眠は、本当はもっと時間をかけておこなうはずだったんですって。でも、どうやらあなたを利用しようって目をつけた反体制勢力の誰かが、医者か何かであなたが長くないことに気がついて、焦ったらしいのよ。そうでなかったら、あなたの鞄の中から魔女のクスリが見つかるわけがなかったっておっしゃってたわ」
「ジャズ、何が言いたいのかよくわからないのだけど。わたくしは、何も覚えていないなんて嘘をついたのよ。本当は、王太子に危害を加えた罪人だって、わかっているのよ。でも、罪を恐れて……」
「リディ、今のは聞かなかったことにするわ。とにかく、あなたは、反体制勢力の誰かを焦らせたのよ。おかげで、今頃、教会は今までの不正を精算する羽目になってるわ」
今朝、土壇場になって狼狽えていたイザベラを思い出して、ジャスミンは笑ってしまうところだった。
「それだけではないわ。あなたが今回の件で、利用されることがなかったら、誰もあなたの病状に気が付かないまま、あなたは死んでいたかもしれないのよ」
「嘘……」
目を丸くしたリディアがおかしくて愛おしくて、ジャスミンはクスッと笑った。
「教会を正せるし、リディアの不完全な治癒のことで医療の必要性をマール共和国ではお父様は今まで以上に訴えることができるの。ジャック様は、あなたにどんなに感謝しても足りないのよ。罰するなんて、とんでもないわ」
「まるで、わたしは……」
「神が導いてくれているのよ。あなたを完全に癒やすために、聖地に来なさいって」
言葉を失うリディアに、ジャスミンは奇跡とも言えるわねと続けた。
「だから、リディ、死なないで。必ず神聖帝国で生きて」
ジャスミンがもう一度リディアの両手を握りしめて真剣に訴えると、外から扉を叩かれた。
「もう時間みたいね」
名残惜しそうに手をほどいて立ち上がったジャスミンに、リディアは言いたいことがたくさんあったはずだった。けれども、結局言いたいことの四分の一も言えなかった。
「ありがとう、ジャズ。わたしは、死なないわ。だからジャズも、誰もがうらやむような仲睦まじい結婚式にしなさいよ。ここに戻ってこられなくても、わたしにそんな噂が届けて。約束よ」
「もちろんよ、リディア・クラウン。わたくしは、必ずジャック様をとりこにしてみせるんですもの」
ジャスミンは力強く微笑んで見せて、病人を運ぶための馬車を降りた。
入れ替わりに、付き添う形で責任を取りたいと訴えたカレンが頭を下げて馬車に乗りこむ。
待っていたメリッサに促されて、ジャスミンは馬車から離れる。と、馬車が動き出した。
「リディには、神聖帝国のほうがふさわしいに決まってるわ。ここに戻ってきても、彼女のしたことのせいで、きっと辛い思いをするわ」
いくら他言無用とジャックが命じたところで、人の口に戸は立てられない。それに、リディアを利用した反体制勢力が脅しに使うかもしれない。例えば、異国からきたジャスミンを陥れるために。
それなら、いっそのことリディアは神聖帝国で新しい人生を手に入れたほうがよほど幸せだろう。
(神が導いてくれたんですもの。リディならきっと……)
そう言い聞かせていても、ジャスミンが握りしめた拳は小刻みに震えている。
「そう思います、ジャスミン様。わたしは、あまり彼女のことを知らないですけど」
「メリッサ、それはあまり問題じゃないわ」
そっとメリッサが差し出したハンカチを押し返して、ジャスミンはリディアを乗せた馬車を見えなくなるまで瞬きも惜しんで見送った。
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