そしてゲームは……
ジャスミンがリディアを見送った日から三日後、ジャックは月桂樹館で父王に諸々の顛末を報告しに訪れた。
控えの部屋で、ヴァルト王国の建国にまつわる伝承のワンシーンを切り取った絵画を眺めながら、ジャックは一人で時間を潰した。
待たされるのは、いつものことだった。そういうものだと、ジャックは疑うことすらなかった。
(だが、そういうものでもないのかもしれんな。俺は、自分の子を待たせるようなことはしたくない)
ジャスミンが来てからというもの、これから先のことを考えさせられるようになった。
今までも、ジャックは病弱な父を持ったせいで、常に先のことを考えてきたつもりだった。けれども、ジャスミンが来てから、今まで考えてきたことが、どれほど漠然としていたのか気がついた。
「ジャスミンとの未来……」
そう、今まで考えてきた未来には、ジャスミンが隣にいなかった。ジャスミンがいるのといないとでは、こうも変わるのかと、彼はいまだに戸惑っている。
(神からの独立戦争の終結から、四百年。医療の理解を拒んでいるのは、ヤスヴァリード教の方だとばかり考えていたが、そうでもなかった。今回の件で思い知らされた)
もっと、知るべきだった。知ろうとするべきだったと、ジャックはあらためて目の絵画を見つめる。
白髪を振り乱した恐ろしい皇帝に、宝剣を構え立ち向かう英雄王ロバートと薬師の妻アンナ。恐ろしい皇帝の、頭上高く掲げられた左手からは目を焼く雷、前に突き出された右手からは荒れ狂う濁流。
何度も見てきた絵画だし、そうでなくても皇帝に立ち向かう英雄王は建国以来多くの芸術家をひきつけてやまない。王国に生まれたのなら、一度は何処かで見かけるモチーフだ。
ジャックは、今までと違った見え方があるのだと、初めて知った。
「お待たせいたしました」
案内しにきた若い近侍に、ジャックの思考は中断される。
ジャックが案内されたのは、テラスに面した広間だった。
(最近は、寝室に通されてばかりいたのにな)
それだけ、今日は体調がいいということだろうか。
車椅子に体を沈めたコーネリアスは、テラスの向こうの庭園を眺めいるようだった。
勝敗を決したバックギャモンのゲーム盤が放置されたテーブルの足元に、ジャックは月桂樹館にふさわしくない物を見つけた。黒い羽根だ。思わず足を止めて手に取った彼は軽く眉間にシワを寄せる。
「カラス?」
コーネリアスのために、月虹城のどの館よりも清潔な月桂樹館の中で、こんなものが落ちていたのが信じられなかった。
車椅子の傍に控えていたアンナは、訝しむ彼に困ったように笑いかけた。
(アンナが気にしていないなら、まぁいいか)
首を傾げて羽根をダイスカップの横においた。
「コニー、ジャック様がお見えになりましたよ」
「らしいな」
どこか上の空に聞こえたのは、ジャックの気のせいだっただろうか。
アンナに車椅子の向きを変えてもらい、ジャックを見上げる頃には、嫌な胸騒ぎを駆り立てる希薄さはどこにもなかった。
無言で促されたジャックが、テーブルにあった椅子を引いて座ると、コーネリアスが先に口を開いた。
「ギル兄様は、リディア・クラウンの身元引受人になってくれるそうだ」
「え?」
そっけなく告げられた内容を、ジャックはすぐに理解できなかった。彼がこの月桂樹館に乗り込んでコーネリアスに、リディアを救ってくれるように強引に頼みこんでから、まだ五日しか経っていない。
「少しは喜んだらどうなんだ、ジャック」
信じられないという間の抜けた顔をした息子に、コーネリアスは白けたのか鼻を鳴らす。
子どもじみたところを見せる父に、ジャックは素直に戸惑いを口にした。
「いや、ですけど、そんなに早く回答が得られるなんて……」
「あのギル兄様だからねぇ。とにかく、喜べ、ジャック」
面白くなさそうにまた鼻を鳴らしたコーネリアスは、これ以上異国に亡命した兄の話を続ける気はなかった。
(どんな人なんだ)
コーネリアス自身はあまり語りたがらないけれども、彼と彼の五人の兄たち――六王子の活躍ぶりを、ジャックは幼い頃から嫌というほど聞かされてきた。大河を渡って神聖帝国に亡命したギルバート王子は、気まぐれで奔放な性格だということくらいしか、人柄に関することは知らない。あとは、ある事件以降、末の弟のコーネリアスをとりわけかわいがっていたことくらいだ。もっとも、ジャックから見て、父は頻繁に手紙を送りつけてくる唯一の兄弟を煙たがっているようだった。
(どんな手段を使ったか気になるが、どうせ教えてくれないだろう)
もしかしたら、リディアの経歴からこうなることをコーネリアスは予測して手を打っていたかもしれない。ジャックが押しかけたときの反応とは矛盾しているけれども、そう考えなければ納得できない。
左に首を傾けたコーネリアスは、視力が残る方の右目でジャックを冷たく見据える。
「それで、教会の方は片付いたのか?」
「教会が匿っていた反体制勢力は逃しましたが、魔女のクスリはすべて押収しましたよ」
「及第点は与えられんな」
わかっていたと、ジャックは顔色を変えなかった。
「今回は逃げられましたが、必ず奴らを排除してみせますよ」
自信をこめてジャックがそう言うと、コーネリアスは皮肉っぽく唇の端を軽く吊り上げた。
「わたしが生きているうちにか?」
ジャックは挑むような笑顔をもって肯定する。
これで、話は終わりだ。ことの詳細は、すでに庭師から聞いているか、コーネリアスは他にもいくらでも知ることはできる。彼が直接父に報告に来たのは、リディア・クラウンのために無理をお願いしたからだ。長居は無用と、彼は腰を上げようとした。
「ところでジャック」
聞く者に居住まいを正させる王の威厳が込められた声に、ジャックは上げかけた腰をおろす。
「まさかとは思うが、まだマクシミリアンのほうが王になるべきだなどと考えているのか?」
「いいえ」
ジャックは、即座に首を横に振った。
「今さら、何を言うんですか。俺がそう訴えたのは、もう十年も前のことですよ」
「そうか、それならいい」
ゆっくりと左に傾けていた顔を戻したコーネリアスに、ジャックはなぜそんなことを尋ねるのかと首を傾げてみせる。
「確認しただけだ」
「そうですか」
ジャックはバックギャモンのゲーム盤に手を伸ばす。
「ジャスミンと結婚するためならと、俺は王になると決めたんです。柊館で供に育った
息子が何を話したいのか意図をつかみかねたコーネリアスは、唇の端を吊り上げた。今度は皮肉っぽくではなく、冷ややかに、彼はジャックの静かな怒りを受け止める。
ジャックがゲーム盤の上から手に取ったのは、ダイスよりも一回り大きい立方体だった。勝ち点を競うバックギャモンで、勝ち点を増やすためのダブリングキューブだ。
勝ち点の二倍を意味する「2」と刻まれた面を、ジャックは父に見せつけた。
「次こそは、反体制勢力を一掃します。そして、
「大した自信だな、ジャック」
「俺は、そのためにこの十年を過ごしてきたんです」
父の冷ややかな声に動じることなく、ジャックは指先でダブリングキューブの面を「4」「8」「16」「32」変え、と次から次へと勝ち点を上げていく。
最大の「64」まで勝ち点を上げたジャックを、コーネリアスはせせら笑う。
「しかし、次というのはいつだ? 時間はないぞ」
「今年中に。もう算段はついてます」
ジャックは面白がるような企んでいるぞとほのめかすように笑って、ダブリングキューブを盤上に戻した。
「だから父上、死なないでくださいよ。あなたには、見届ける責務がある」
おかしそうに鼻を鳴らしたコーネリアスは、左手で右腕を押さえる。
「では、
ニヤリと笑う父に、ジャックは嫌な予感を覚えた。
「ガーデンパーティーだ、ジャック」
「なっ」
息を飲んだジャックの反応に、コーネリアスは満足したようだ。
「時期外れだが、ジャスミンというとっておきの華があるだろう」
「しかし、父上、彼女はまだ……」
「日取りは、十一月の十日。庭師たちにも話は通してある。輝耀城にも、招待客のリストを送ってある。あとは、お前がどう盛り上げるかだ」
拳を握りしめたジャックに顔を寄せ、コーネリアスは意地悪くささやく。
「勝ち点を上げたからには、わたしを楽しませろよ。死ななくてよかったと思える程度には、な」
顔色を失った息子に、コーネリアスは満足気に車椅子に背中を預けた。
「アンナ、行こうか」
「はい」
夕闇が静かに迫る広間に、ジャックは一人残された。
「ガーデンパーティーだと……なんてことだ」
頭を抱えたジャックは、すぐに顔を上げて立ち上がる。
「一気に片をつけるしかないではないか」
広間を去るとき、ふっと彼が笑ったのは、緊張の糸が切れたからだろうか。それとも、父に見せつけた自信の表れだったのだろうか。いや、そもそも、夕闇が作った影のいたずらだったかもしれない。
なにがともあれ、ぎこちない
ゲームは次のステージへと移る。
コーネリアスが開催を宣言したガーデンパーティーの招待客のリストの中には、王の甥であるマクシミリアン王子の名前もあった。
輝耀城でジャックがリストの確認と招待状の用意に忙殺される頃、一足先にマクシミリアンへは招待状を手にしていた。
王家の紋章の透かしが入った上等な紙には、コーネリアス直筆の署名がある。もうまともにペンを握ることもできないのか、小刻みにブレている線で書かれた名前に、マクシミリアンは眉をひそめた。
「時間がないってことか」
招待状を腰のあたりにおろしたマクシミリアンは、オレンジ色のドレスを内側から押し出している形の良い胸を下から見上げた。
「デビー、一緒に行くか」
デボラは困ったように笑いながら、膝の上に頭を乗せたマクシミリアンの顔を覗きこむ。
「嫌だって言っても、マックスは聞いてくれないくせに」
「まぁな」
からからと笑って、彼は体を起こす。
寝椅子から離れたマクシミリアンは、ようやく苦々しい顔をしている白衣の男に目を向ける。
「ガーデンパーティーまで用意してくれたんだ。ヒューゴ、お前はもう何もするな」
上機嫌で招待状を執務机に置いた彼に、ヒューゴは眼鏡の位置を直しながら訴える。
「しかし、時間がないならなおさら……」
「ヒューゴ、お前、アスターの教会で失敗して逃げ帰ってきたばかりだろ」
「ですが、僕にはまだ……」
「お前は、俺にただ従っていればいい」
言い募ろうとした若い医者を、マクシミリアンは冷ややかに笑って黙らせる。
「言い訳はもう聞いた。話すことはないだろう。お前も連れて行ってやるから、もう余計なことをするな」
「……かしこまりました」
不服そうに頭を下げたヒューゴに、マクシミリアンは退出するように無言のうちに命じた。
若い医者がいなくなり、マクシミリアンは寝椅子で読書を始めた恋人のデボラと二人きりになる。
執務机から離れ窓を開ける。
「しばらく、この眺めともお別れだな」
執務室からリセールの街並みが一望できる。
ヴァルト王国の南に位置するフラン神聖帝国との国境となっているグウィン大河の河岸にある交易の中心地。それが花の都アスターに並ぶ大都市リセール。
花の都アスターに対して、水の都とも呼ばれるリセールには、グウィン大河に流れ込むリセール川の流れを引き込んだ運河が張り巡らされていた。国内外から大河を使って河川港に荷揚げされた荷物の運搬だけでなく、日常の移動にも運河に浮かぶ舟が使われている。古い地区では、今でも舟や浮島のような住居があるくらいだ。花の都アスターでは目にすることのない眺めをマクシミリアンは気に入ってた。
何より、交易の中心地とあって、商業が盛んで賑やかだ。
いつになく長くリセールの街並みを眺めている彼に、読書をやめたデボラが静かに寄りかかる。
「ジャスミン・ハルって、どんなお姫様なのかしら?」
「気になるのか?」
意外そうに軽く目を瞠ったマクシミリアンの腕に自分の腕を絡ませながら、デボラは唇を尖らせる。
「もちろん、だって、あなたの妻になるかもしれないんでしょう?」
「妬くなよ、デビー」
マクシミリアンは、腕を絡ませたデボラを強く抱きしめてついばむようなキスをする。
「俺の一番はデビー、君だ。君だって知っているだろう。これから先もずっと、な」
窓を閉めるために、マクシミリアンは彼女との抱擁を解く。
「まぁ、俺も気にはなっているさ。なにしろ、春には王妃になるんだからな」
閉めた窓ガラスに映った彼の顔は、どこか困っているようだった。けれども、それはデボラを抱き上げるまでのこと。
「さて、
リセールの伊達男と呼ばれるにふさわしい自信に満ちた笑顔に、デボラはやっぱり昔の飼い猫に似ていると思った。
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