第二章 悩める中盤戦
初めてのデート
雛菊館の日常
雨の多い九月が終わり、十月の最初の日。
ジャスミンとジャックの初めてのデートのこの日、朝からよく晴れて絶好のデート日和となった。
昨夜は緊張のあまりよく眠れなかったジャスミンだったけれども、朝から寝不足をまるで感じさせないほど浮足立っていた。姿見の前で、何度も自分の姿を確かめている。
(リディアのことがあってから、ジャック様、本当にお忙しいようでしたしね、今日はわたくしがしっかりと癒やしてさしあげたいところだけど、まずは好きになってもらわないとね)
ジャスミンが袖を通したドレスは、故郷にはないデザインだった。
動きやすいように、ボリュームを抑えたクリーム色のペチコート。繊細なレースやリボンといった飾りはないけれども、ペチコートを覆うドレスの焦げ茶に苔色のストライプ模様のスカートは、内側の紐でたくし上げられて丸みを帯びた襞が作られている。袖は、祖国ではお馴染みだった袖口がふんわりと大きく広がる華やかなものではなく、肩を大きく膨らませて肘からは腕に沿っている。繊細な白いレースの手袋をはめて、ゆるく編みこまれた自慢の赤い髪の上には山吹色のツバが狭い帽子。
正直、ジャスミンは似合っているかどうかわからなかった。
姿見の中の不安そうに眉がハの字になっているのに、イザベラは気がついた。
「お似合いですよ、ジャスミン様」
「本当に?」
ジャスミンが振り返ると、イザベラだけでなく衣装係のメイドたちも口々に似合っていると褒めた。
お世辞かもしれないけれども、ジャスミンはやっぱり嬉しかった。
「ありがとう」
笑顔で答えたけれども、本当はため息をつきたかった。
(まだ、気を遣わせているわね)
従姉のリディアがいなくなって数日は、さすがのジャスミンもふさぎこんでしまった。
しっかりしなければとわかっているのに、体がついてこなかった。
食欲も失せて、健康のための軽運動どころかベッドから起き上がるのも億劫だった。無理にでも体を動かせば気分も晴れると考えていたけれども、甘かった。
ショックを受けないほうがおかしいと、誰もが理解して同情していた。だからといって、あまりにも長引くのは心身ともによくない。
ジャスミンについてきたイザベラとメリッサ、それから主任医師のいない医師団で、様子を見る期間を五日と早々に決めて後の対処も慎重に会議を重ねる必要があった。
ジャスミンの扱いをよく心得ているイザベラでも、今回ばかりは解決策が思い浮かばなかった。時間が解決してくれるように、神に祈るしかできなかった。ジャスミンに神の加護が与えられないとわかっていても、祈った。
彼女の祈りが通じたわけではないけれども、ジャスミンはちゃんと笑顔を取り戻した。
時間が解決してくれると安心すると同時に、ジャスミンの強さを雛菊館の使用人達は尊敬すらした。
とはいえ、まだ充分ではない。
ジャスミンは、まだ立ち直る途中だと雛菊館の使用人達は女中頭のメリッサから言われている。
たしかに、ジャスミンはまだふとした瞬間にぼんやりとあらぬほうに視線を彷徨わせている。誰かを探すように。
今日はこれからジャックとデートだ。それも初めての。
それなのに不安そうに落ち着きのないジャスミンに、イザベラは早く予定の時間にならないかと、エプロンのポケットの上から懐中時計を押さえる。
(ジャック様が気を紛らわせてくれればいいけど……)
イザベラはどうも期待ができなかった。彼女にとって、ジャックは何を考えているのかわからない厄介な男だった。はっきり言って、いいところなど一つもない。
今のジャスミンに、空白の時間を与えてはいけない。
ジャックが迎えに来るまで、気を紛らわせる必要がある。
幸いにも、今のジャスミンには雛菊館のメイドたちと共通の話題がある。
「お嬢様、まだ時間がありますから、もっとくつろいではいかがでしょう」
「それもそうね。緊張してきたわ」
イザベラは部屋にいるメイドたちに目で合図した。
(あたしは知らないけど、なにかあるんですよね)
ジャスミンが椅子に座らせて、イザベラは様子を見てくると行って部屋を出た。
すると、たちまちメイドたちが一斉にジャスミンを囲む。
「ジャスミン様、まだイザベラ様をBL沼に落とす糸口が見つからないんですか?」
待ってましたと真っ先に口を開いたのは、肩で髪を切りそろえた衣装係のサラ。弱気な受けが豹変して攻めるリバが、最高だと言って譲らない頑固なメイドだ。
「だって、ベラは結婚相手を探している最中よ。この前の成果はまだ聞いていないけど、いい男を探しているのに……」
「関係ないじゃないですか」
割り込んできたのは、ふくよかでソバカスが悩みのジャスミンと同い年のあらゆる雑用を器用にこなすマリー。おじさま受けメインに、最近は人外モノにも目覚めたらしい、ジャスミンからすれば玄人レベルの腐女子メイドは、ずいと身を乗り出して続ける。
「関係ないですよ。ジャスミン様だって、ジャック様がモデルだとわかってて、マクジョーが推しカプじゃないですか」
「それは、だって……」
ほんのり赤めさせた顔を両手で挟んで、ジャスミンは恥ずかしそうに続ける。
「だって、小説ですもの。殿方のリアルなのは、はっきり言って想像もできないですし、したくもありませんわ。あくまでも、妄想がちょうどいいのよ。一度、わたくしのお兄様たちで妄想してみましたけど、全然でしたわ」
「ジャスミン様の気持ち、わかります」
サラは大きく首を縦に振る。それも何度も何度も。
「ボーイズラブはファンタジーなどと、軽んじる風潮がありますけど、そういう奴らはわかってないです。フィクションだからこそ、いくらでも萌えられますし、尊さに殺されそうなほど心臓を高鳴らせる。マリー、あなた、そんなこともわかっていないの? 現実と虚構の区別もできないなんて、腐女子やめたら」
「サラ、わかっていないのは、あなたの方。あたしは、ジャスミン様に、イザベラ様を沼に引きずりこむのに、リアルの男は関係ないってわかってほしかったの。それだけ」
「そ、そう、ならいいわ。……ごめん」
一瞬、険悪なムードになったけれども、すぐに誤解だとわかって仲直りする。普段からこうなのだと、ジャスミンはもう知っている。
「そういうことで、ジャスミン様、遠慮することなくイザベラ様を沼に引きずりこみましょう。イザベラ様が、一番ジャスミン様と一緒にいるんですもの」
眩しいくらいマリーが目を輝かせて、イザベラも同志にしたいと訴えてくる。けれども、ジャスミンの表情は暗い。
「遠慮しているわけじゃないのよ。ただ、ベラってあまり読書しないし、なんだったかしら……そう、彼女が何に萌えるのかがわからないのよねぇ」
イザベラはこんな不穏な話で盛り上がっているとは、想像すらしていないだろう。
なにがともあれ、今のジャスミンにとって彼女たちとのおしゃべりに救われているのは事実だった。くだらないとおしゃべりと言ってしまえばそれまでかもしれない。けれども、ふさぎこんでしまうよりは、ずっといい。
(リディのためにも、わたくしがもっとしっかりしないと)
それこそが、今の自分にできることなのだと、ジャスミンは自分に言い聞かせて笑う。
「いっそのこと、女体化調教モノとか強い刺激を与えてみればいいかもしれません」
「そんなっ、断崖絶壁の崖の上から沼に突き落とすような所業……ありね。さすがララだわ」
ずっと黙っていた銀縁の眼鏡をかけた衣装係のメイドの過激な意見を、ジャスミンは危うく否定しかけて、勝ち誇ったように首を縦に振った。彼女こそが、ジャスミンが腐女子になるきっかけとなった『秘密の庭園』シリーズの作者だ。ボソボソっとしゃべる彼女は、お世辞にも明るいとは言えない。人付き合いも苦手だけれども、彼女は匿名のBL神作家として雛菊館では一目置かれている。もちろん、ほとんどの使用人が腐女子であるこの雛菊館だったからこそだ。
「ちょうど書き始めた新作が、ヘタレ中年女体化ハード調教モノですから」
「なにそれ! 女体化なんて邪道じゃない」
「サラ、誤解しないでください。精神的にはBLです。体はメスにしても、心は男のまま。イザベラ様のような方を布教するには、ちょうどいいかと……」
眼鏡越しにジトッとした目でジャスミンにどうかと、ララがうかがえば、ジャスミンは目をキラキラさせて両手を合わせた。
「布教する前に、真っ先にわたくしが読みたいわ」
「あ、ジャスミン様、ずるーい」
「ずるーい」
サラとマリーが唇をとがらせる頃には、すっかりジャスミンの中に巣食っていた憂鬱はなくなっていた。
明るい声でひとしきり笑いあうと、これでとララが拳を握りしめる。
「ジャスミン様がいれば、BLはもっと普及できる」
「ええ、一般文芸化も目じゃないわね」
突然話の流れが見えなくなって、ジャスミンは戸惑いの声をあげる。すると、真剣な顔でサラが身を乗り出す。
「実は、あたしたち、ずっと『秘密の庭園』シリーズを国中の本屋で販売したかったんです」
ジャスミンは初めて、この国の書籍事情を教えてもらった。
国中の本屋で売ってもらうには、一般文芸と版元に認めてもらわなくてはならない。
つまり、ここ十数年で少しずつメジャーになったボーイズラブ小説を、商業書籍として全国の本屋で扱ってもらうのが、どんなに難しいことかを。
「あたしは、もともと同人誌を作るために執筆しているから、儲けなんかどうだっていい。全国で売られるなんて恥ずかしくて、一般文芸化なんて考えたことなかった」
「考えたこと、なかった?」
ララの眼鏡が光ったかとジャスミンはびっくりした。
「ええ、五年ほど前から、百合小説が一般文芸化されるまでは、考えることもなかった」
「ゆ、り?」
初めて聞く用語に、ジャスミンは首を傾げる。
ボソボソっと淡々とした口調で、ララは解説を続ける。
「ボーイズラブの対極に位置するジャンルだと思っていただければ……」
「もしかしてもしかしなくても、女と女の……」
「そうです」
ゴクリと生唾を飲み込んだジャスミンに、マリーが身を乗り出して彼女に迫る。
「リリー・ブレンディとかいう百合豚糞野郎が、金に物言わせて、百合小説を一般文芸化したんです」
「へ、へぇ……」
さすがのジャスミンも気迫に圧倒されている。さらに続けるマリーの目はギラギラしている。
「BLの一般文芸もなくはないですけど、肉体的なのはディープキスもダメだって頭の固い版元が多くて難しいんです。それなのにリリー・ブレンディは平気で肌色多めな百合小説を売っているんですよ。許せません」
「リリーとか名乗っちゃってるけど、どうせキモい引きこもりなぼんぼんにきまってるわよね、ララ」
「ええ、そうね、サラ。ウチの兄貴みたいに、デュフフとか笑っちゃうようなキモいやつに決まってる」
「そうそう、キモすぎてモテない独身童貞貴族よ、絶対そうに違いないわ」
さらに残りの二人のメイドも加わって、百合小説とその作家をこき下ろし始めた。
リリー・ブレンディと名乗る作家を、彼女たちはとことんこき下ろす。不潔だの、ストーカーだの、ニートだの、思いつく限りの悪口を並べていく。まるで故郷の村でも焼いた宿敵のように、容赦なく罵る。ジャスミンは黙って聞くしかなかった。
(なんか、あったこともないけど、リリー・ブレンディに同情したくなってきたわ)
でも、ジャスミンとしても、BL小説が国中の本屋で売られるのは良いことだと思えた。百合小説なるものがあるなら、当然のことだとも。
(でも、それにはまず、わたくしが王妃にならなくてはならないのよね)
そして王妃が腐女子だとアピールするのは、どうかとジャスミンの心は揺れた。けれども、それはほんのささいなものだった。
「わたくしは一般文芸化できるように務めるつもりです。でも、あまり期待しないでね」
「気長にお待ちしておりますよ」
「ええ、ララ。あなたの素敵な小説がこのまま埋もれるなんて嫌ですもの」
にっこりとジャスミンが自然な笑顔を浮かべると、イザベラがメリッサを連れて戻ってきた。
「お嬢様、ジャック様がお見えになりました」
「わかったわ」
スクッと立ち上がったジャスミンは、ここにはいない従姉のためだけではなく、自分やこの雛菊館の愛すべき使用人たちのためにも、決意を新たにした。
(いつまでも、クヨクヨしていられないわ。わたくしは、絶対にジャック様をとりこにして、ラブラブな夫婦になってみせるの)
ジャスミンの若草色の瞳は、いつにもまして強く輝いていた。
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