馬車にゆられて
ようやくジャスミンとデートできると、ジャックは数日前から胸を高鳴らせていた。雛菊館とは対称的に、七竃館はとても穏やかな日々が続いていた。
できることなら、この平穏な日々が続いてほしい。
今日のデートを、どうか何ごともなくやり過ごしてほしい。と、七竃館の人々はジャックを送り出した。
何しろジャスミンが来てから、ジャックが何かと書斎に引き篭もってしまうことが増えた。そういう日は、彼が書斎から出てきても面倒くさいだけだ。
青灰色のジャケットを羽織ったジャックは、愛用のステッキ片手に鼻歌交じりに意気揚々として馬車に乗りこむ。
が、そこまでだった。馬車に揺られて、雛菊館に近づくにつれて、彼はどんどん不安になっていく。
(デートできるくらいにはジャスミンはショックから立ち直っていると、メリッサは言ってたが、本当に大丈夫だろうか)
リディアの一件で、ぎこちない文通は中断されてしまった。
ただでさえ忙しいというのに、腐敗した教会にメスを入れたり、ガーデンパーティーの段取りもしなくてはならなくて、彼も文通などできる余裕はなかった。ジャスミンのほうも、精神的な余裕がなかったのだから、自然な流れだったかもしれない。
どんなに忙しくても、ジャックはジャスミンのことが気になってしかたなかった。ジャスミンのことを片時も思わなかったときはないくらいだ。
リディアのことは、最善を尽くしたつもりだ。できる限りの手は打った。それでも、彼女はおそらくもう二度と戻ってこない。
(せめて、リディア・クラウンの催眠が解けてから、会わせればよかったのにな)
何度後悔したか、ジャックはもうわからない。後悔してもしかたないと知りつつ、何度も何度も後悔してしまう。後悔というものは、そういうものかもしれない。頭ではわかっていても、どうしようもないものだ。
ジャスミンに会いたいという気持ちと、会うのが怖いという気持ち。どちらも、嘘偽りのない彼の気持ちだ。
「大丈夫、じゃないな。俺が」
深々と息をついて、ジャックは窓の外に目を向ける。
もうすっかり秋だ。秋は短い。すぐに黄金山脈から冷たい風が吹き下ろしてくる。そうなれば、冬の始まりだ。
しばらく憂鬱そうに外を眺めていた彼は、ふっと口元を緩めた。
「まぁ、なんとかなるか」
やはり、ジャックはおおらかで楽観的なヴァルト王国の人間だった。
予定通りの十一時に、ジャスミンが待つ雛菊館に到着した。
ジャスミンが玄関先で出迎えてくれたのは、ジャックにとって嬉しい不意打ちだ。再会の晩餐のときの豪奢なドレスとは違うけれども、今日のドレスも存分に彼女の魅力を引き出している。
(うん。ジャスミンは何を着てもかわいい)
まさかジャックがのろけているとは、ジャスミンは夢にも思わなかっただろう。
馬車から降りて何もしないジャックに、メリッサはジト目になる。以前はガラス玉のように硬質で冷たかった彼女の瞳も、ジャスミンが来てからようやく生気が宿ったみたいだ。
「ジャック様、お時間がもったいないです。早くジャスミン様をお連れしてはいかがでしょうか」
「あ、そうだな、メリッサ」
ジャックはなんだかさっさと立ち去れと言われた気がした。実際、そうなのだが、彼に確認するすべはない。
レースの手袋をしたジャスミンの手を取って、ジャックは彼女を馬車に乗せる。
「ジャスミン、わざわざ外で待たせてすまなかった」
「いいえ、時間通りでしたわ。わたくしが、待ちきれなくて外で……」
「そうだったのか、嬉しいよ」
お互いに本心を言ったはずなのに、お互いにお世辞だととらえてしまったので、微妙な沈黙が二人の間に流れる。
「ああ、そうだ。君の大切な従姉は、無事に大河を渡る船に乗ったそうだよ」
「本当に?」
「ああ、まだ正式な報告ではないが、昨日そのように伝えられたよ」
「正式ではない?」
怪訝そうに首を傾げるジャスミンに、ジャックは軽く笑ってみせた。
「正式な筋じゃないってことだ。でも、確実な筋だから、三日もすれば、君の元にも同じ報せが届くだろう」
「そうですの。では、リディはこれで助かったのですね」
グウィン大河の対岸まで丸二日の船旅だけれども、もうヴァルト王国を出たことになる。なぜなら、グウィン大河は、五百年前の神からの独立戦争のときに、当時の皇帝が神の力を借りて生み出した濁流が元になっている。つまり、グウィン大河は神の加護が与えられる領域になる。
(確かでない筋がどういったものかは、尋ねるべきではなさそうね)
黒庭師の噂は耳にしているものの、ジャスミンはまだ王族を中心としたこの国の権力絡みの闇に踏み入る覚悟がまだできていなかったのだ。
「わたくし、リディが神聖帝国で暮らしていけるなら、それでいいと思っているの」
とはいえ、従姉を利用してジャックの暗殺を企てているよからぬ勢力がいることを彼女は知ってしまった。
「人の口には戸は立てられぬ、と言いますし、利用されたとはいえしたことは後々までこの国での彼女の立場を苦しめますわ。もちろん、彼女にとって神聖帝国が辛い場所であれば、わたくしの側に帰ってきてほしい」
そこまで話して、ジャスミンは自嘲気味に笑って首を横に振って目を伏せる。
「違うわ。わたくしは、彼女がいなくなって寂しいのよ」
「ジャスミン。それはその……」
「ジャック様には、どんなに感謝しても足りませんわ。結果論ですけど、ベラではなくリディを利用してくれたおかげで、彼女の命が救われたんですもの。わたくしは、リディとは仲がよいとはいえなかったの。それこそ、彼女にはわたくしの女官は務まらないと。とんだ思い違いでしたわ」
まぶたを押し上げると、若草色の瞳にあった弱さはなりをひそめていた。
「わたくしは、リディが神経質な頭の固い女だとばかり考えてましたけど、そうではなかった。強くて素敵な人だと気がつくのには、遅すぎたわ。きっと、そのことが一番残念なのでしょうね。でも、彼女が神聖帝国で幸せに暮らせるなら、それが一番嬉しいわ」
それからジャスミンは心のなかでこう付け加えた。
(わたくしも、リディのことばかり心配していられないわ。彼女のためにも、わたくしはジャック様をとりこにして約束通り、王国中の、いえ、国外にまで、仲睦まじいと評判の結婚生活を送るらないと)
そのためにも、今日のデートでジャックとの距離を縮めなくてはならない。いつまでもくよくよしていられないと、ジャスミンは自分に言い聞かせた。
ジャックは、リディアの話はここまでにすることにした。
(ふさぎこんでいると聞いていたが、大丈夫そうではないか。これ以上心配するのは、彼女のためにならないな)
逆に彼女の負担になることは避けたい。
「マール共和国の女性は、みんな君のように強いのかな」
「え?」
ジャスミンの顔が強張る。
(我が強いってことかしら? 全然そんなことはないと思うけど、異国の方からしたら、そう見えるのかしら。むしろ、わたくしには、この国の腐女子たちのほうがよほど……)
ジャックのタイプではないのかと、焦るジャスミンに、ジャックも焦っていた。
「悪い意味じゃないんだ。そう聞こえたら申し訳ない。ただ、なんというか、君も君の従姉も、君が連れてきたメイドも、強いなと思ってね。悪い意味じゃなくて、なんて言えばいいのかわからないけど、とにかくいい意味で強いんだ」
まくし立てるジャックが、なぜか微笑ましくて、ジャスミンはくすっと笑ってしまう。
「褒め言葉、として受け止めておきますわ」
「もちろん、褒め言葉だ。この国の女性も強いと思っていたが、君たちには、別の強さがあると思う。うまく言えなくて申し訳ないが」
最後の方は自信なさげに、ジャックの視線が宙をさまよった。
(褒め言葉もままならないなんて、俺は本当にどうかしている)
相手がジャスミンとなると、たちまち語彙力が乏しくなる現象をなんと呼んだらよいのか、彼は教えてほしかった。
わざとらしく聞こえないか気になりつつも、ジャックは咳払いで話題を変える。
「ところで、メリッサの方からあれから反体制勢力のことは何か聞いているかな?」
「いいえ。そんな余裕はなかったですし……」
首を横に振った彼女は、まさか気分転換に腐女子トークをしていたなんて、言えるわけがない。
(気になっていたけれど、わたくしは自分のことでいっぱいでしたものね)
言い訳だとわかっているから、ジャスミンは素直に聞かなかったと答えた。
「そうか。俺は君を巻き込みたくなかったら、奴らの存在を伝えるつもりはなかった。前にも言ったかもしれないが」
デートなのに、なんだか話題がおかしくないかとジャスミンは戸惑う。
(そろそろ、デートらしい会話がしたいわ。デートらしい会話がなんなのかわからないけど、きっとこんな反体制勢力なんて話ではないと思うわ)
ジャスミンの戸惑いに気がつかなかったようで、平気で続ける。
「俺の力不足で巻き込んでしまったわけだし、今日は君にきちんと伝えておこうと思ってね」
「……はい」
嫌とはいえなかったジャスミンだけども、内心はもっとラブラブなデートがしたいと怒っている。
(ジャック様って、もしかして……もしかしなくても、少し鈍いのではないかしら)
そもそも、今日のデートはすべてジャックにおまかせだ。今、馬車がどこへ向かっているのかも、ジャスミンは知らない。
窓の外に目を向けたジャックは、ふいに声を弾ませた。
「もう到着だ」
「えっ、もう?」
すっかり遠出するものと思い込んでいたジャスミンは、ただでさえがっかりしているのに、ますますがっかりしてしまった。
「まだ、君は月虹城のことも、ほとんど知らないじゃないか。だから、がっかりすることはないよ」
「すみません」
「いや、むしろそのほうが、俺も楽しませ甲斐があるというものさ」
いたずらっぽく笑うジャックには申し訳ないけれども、反体制勢力なんて不穏な話があるというのに、どう楽しませてくれるのか、ジャスミンはさっぱりわからなかった。
そんなジャスミンの気持ちを、どこまで理解しているのか、ジャックが一番不安だった。けれども、彼は彼なりに初めてのデートプランを考えてある。
馬車から降りた二人の目の前には、七竈館よりもひと回り大きな三階建ての館がそびえ立っていた。
「ジャック様、ここは?」
「月虹城の南の館、柊館だよ」
「王の子女の館、の?」
今は誰も住んでいないという館になんのようがあるのだと、ジャスミンは露骨に訝しむ。
「そう、俺が十年前まで従兄のマクシミリアンと過ごした館さ」
怪訝そうなジャスミンに納得してもらいたくて、ジャックは付け加える。
「君の従姉を利用した反体制勢力の背景にあるものは、この柊館から始まっていると、俺は考えているんだ。もっとも、今年中にはケリをつけるけどね」
まだ納得がいかないジャスミンの手を引いて、ジャックは柊館に彼女を誘う。
(俺のことをもっとよく知ってほしいなんて、恥ずかしくて言えない)
レースの手袋越しに手を繋いでいる。
今日こそは、その先へと進もうと、ジャックは決めていた。もちろん、ジャスミンもその先の関係になりたいと望んでいる。
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