ナイトの使命

 イザベラが、ジャスミンについて神なき国に来たのには、もちろん良き夫を見つけて結婚するためだった。けれども、それだけではない。

 純粋に、ジャスミンの側にいたかったのだ。


 マール共和国の農村に生まれた彼女は、両親と母方の祖父母、それから三男六女と、それはもう良くも悪くも賑やかな環境で育った。

 初めて奉公に出たのは十歳の頃。マール共和国の最高議会がある港街アンクルに仲介人の老婦人に連れられてやってきたときは、人の多さに圧倒されたのを覚えている。同時に、心細くなったことも覚えている。大家族の中で、彼女は大人顔負けによくできる子どもだと思っていた。両親や上の兄弟の手伝いは進んでしたし、下の兄弟の面倒だってしっかり見てきた。こんなに働き者はいないと胸を張って言えたはずだった。


(あたしなんか、ただの田舎者じゃない)


 身を案じてくれた家族に、玉の輿になってアンクルで家族そろって暮らせるようにしてあげるなんて言って家を出てきた。彼女が現実を思い知るのには、そう時間はかからなかった。

 最初の奉公先の主人はとてもいい人たちだった。息子夫婦に家業を引き継がせて、余裕のある隠居生活をしていた夫婦だったというのもあっただろう。孫と同じ年頃だったおかげで、特別優しくしてくれたのではと、後々になってイザベラは気がついた。それでも、よい奉公先だったことにかわりはなかった。とはいえ、彼女は優しい主人に甘えたりはしなかった。働き者という自負は、嘘ではなかったのだ。仕事の覚えは早かったし、めったに嫌な顔をせずに仕事に打ち込んだ。要領のいいメイドなら手を抜くようなことも、彼女は決して手を抜かなかった。


(こんなに働き者のメイドは、めったにいないわ。怠け者なんかよりも、絶対にあたしのほうがモテるんだから)


 彼女は、いつか立派な紳士に見初められて結婚するという夢があった。だからこそ、めげずによく働けたのだ。実際のところ、働き者で真面目なメイドよりも、彼女が嫌う遊び方を知っているメイドのほうが男受けしていた。けれども、彼女はまだ男心を学ぶにはまだ幼かったのだ。


 アンクルで働き始めて二年が経ったある日、イザベラは奉公先でよくしてもらった奥様の紹介でジャスミンのメイドになった。


 最高権力者の息女で神なき国に嫁ぐことが決まっているジャスミンの身の回りの世話をするメイド。はたして、自分につとまるだろうかと、不安になった。


(奥様、つとまらなかったら、また雇ってくださるって約束してくれたけど……)


 ところが、故郷を出る前に下の兄弟の面倒をみていた経験が、思わぬ形で活かされることになった。

 まだ八歳だったジャスミンの世話は、癇癪持ちの妹に比べたら楽なものだ。ジャスミンのわがままは可愛げがあると、彼女はすぐにあしらい方やなだめ方を学んだ。同時に、ジャスミンもイザベラというメイドを学んでいったのかもしれない。

 姉と妹のような関係だった彼女たちは、いつしかメイドとお嬢様という関係に変わった。なにかきっかけがあったわけでもない。ただ自然に自分たちの立場を学んでいっただけのことだ。

 ジャスミンは、イザベラにとって最高のご主人様だ。


 たとえば、こんなことがあった。

 イザベラは十四歳で、ジャスミンが十歳の冬の終わりのことだ。


「ダメよ、ベラ。読み書きはできなきゃダメ」

「と言われましても、お嬢様。わたしは……」

「イザベラ・ガンター、あなたはわたくしのメイドなの。ジャック様に、メイドの教育もなっていないとか馬鹿にされたら、わたくし泣いちゃうわよ。いいの?」

「ですが、わたしにはお嬢様のように家庭教師なんて雇えませんよ」

「わたくしが教えてあげるから、問題ないわ」


 ジャスミンは宣言通り、イザベラに読み書きを少しずつ教えた。読み書きだけではない。メイドには本来必要ないことも、彼女はイザベラに教えていった。その頃はまだ、イザベラがジャスミンについて行くことになるとは決まっていなかったにもかかわらずだ。


 イザベラが、ジャスミンを好きにならないわけがなかった。

 いい男と結婚したいという願望は、今でもある。けれども、同じくらい強くジャスミンに一生仕えていたいと願っていた。


 そんな大好きなジャスミンが、いなくなった。

 ほんの少し側を離れている間に、ジャスミンが雛菊館からいなくなった。


「お嬢様、一体どうして……」


 ガーデンパーティーの後、何か悩んでいることには知っていた。思いつめる前に、相談してくれると考えていた。いつもそうだったから。

 昨日、礼状をすべて書き終えたあと、ジャスミンがサファイアの首飾りを再び胸元に飾ったとき、解決したのだと思った。


「お嬢様……」


 ジャスミンのことを、よく知っているはずだった。

 それなのに、いなくなってしまった。

 使用人が総出で雛菊館中を探しているのに、まだ見つからない。

 すっかり打ちひしがれてしまったイザベラは、先ほどまで一緒になって探し回っていたけれども、体がうまく動かなかくなった。もどかしさと悔しさは、ジャスミンが見つかるまで膨れ上がり続けるだろう。膨れ上がった感情に押し潰される前に、なんとしてもジャスミンを見つけ無くてはならない。


「どこにいるの」


 妹だったら、探すのは得意だった。でも、ジャスミンとの関係は姉妹からかけ離れたものになっている。


 すでに探し終えていたジャスミンの私室に戻ってきた彼女は、テーブルの上にある本に目を止めた。昨日、貸したリリー・ブレンディの短編集だ。


「読んでくれるって、言ってくれたじゃない」


 泣きたかったけれども、泣いてしまったらもう動けない。

 あふれる前に溜まっていた涙を拭って、彼女は手に取った本に何かが挟んであることに気がついた。


「なにかしら、これ?」


 栞にしては分厚い何かは、ジャスミン宛の差出人の名前がない怪しげな封筒だった。手がかりだと直感した彼女は、急いで中身を取り出す。


「これって……」


 従姉リディアが魔女のクスリを好んでいた証拠があるという内容で、ジャスミンを呼び出したその手紙には、雑な地図も書かれていた。


「栄光の四阿……、ここね」


 イザベラは、手紙を握りしめて部屋を飛び出した。


(お嬢様の馬鹿! こんなの罠に決まっているのに、どうして一人でいったりなんか)


 ジャスミンの身を案じるあまり、他の使用人たちが驚く声がとどかないまま、あろうことか彼女も一人で雛菊館を飛び出してしまった。


 読み書きのついでに、地図の読み方も教えてもらったことを、このときほど感謝したことはない。

 すぐに意気が上がった。足が止まりそうになる。痛む脇腹を押さえながら、それでも彼女は走る。

 栄光の四阿は、彼女の胸の高さに揃えられた常緑低木が両側に並ぶ小径の先の小高い丘にある。


「あれ、ね」


 ぐるりと丘に螺旋を描くように続く小径を走りながら、イザベラは横目で白っぽい四阿の一部を確認した。


(あとで、たっぷりお説教してやるんだから)


 きれいにひっつめていた髷が乱れて崩れる。構うものかと、イザベラは走った。


 見えているのに、なかなか近づけないもどかしさが、どんどん募っていく。

 ようやく小径を走り抜けて視界がひらけると、イザベラは最悪の光景がそこにあった。


 怯えるジャスミンに、短く縮れた黒髪の男がギラリと光る刃物を振り上げている。



「お嬢様ぁ!!」


 せめて身を挺してでもと、もつれる足を必死で動かすけれども、間に合わないとわかってしまった。


「いやぁあああ」


 と、イザベラが伸ばした手の先を何かがかすめる。まるで獣のように生け垣から飛び出してきた人影は、ものすごい勢いで狂気を持つ男に体当りした。


「え?」


 思わず足を止めてしまったイザベラは、ジャスミンがペタンと尻もちをついたのを見て我に返って力を振り絞って駆け寄る。


「お嬢様、お怪我はありませんか?」

「あ、イザベ、ラ?」


 茫然自失していたジャスミンは後ろから抱きかかえたイザベラを、ぎこちなく振り返る。


「ええ、わたしです」


 二度三度と瞬きをしたジャスミンの目から涙があふれ出した。


「イザベラぁあああ」


 子どものように泣きじゃくるジャスミンは、ようやく生きた心地がしたようだ。恥も外聞もなく泣きじゃくる。


(あとでしっかりお説教だけど、今は……)


 イザベラはぎゅうっと強くジャスミンを抱きしめる。


「ベラ、ありがと……馬鹿なわたくしを、助けてくれてありがと……」

「いいんです。お嬢様がご無事なら、あたしは……」


 とうとうイザベラも一緒になって泣きだしてしまった。


「お嬢様ぁ」

「ベラぁあああ」


 抱きしめ合いわんわん泣きじゃくる彼女たちに水を差したのは、不機嫌な咳払いだった。

 慌てて涙を拭って咳払いがしたほうを見ると、地面に倒れ気絶したヒューゴに馬乗りになっている長い黒髪を振り乱した男が二人をじっと睨んでいた。


「あのな、ジャスミン、君を助けたのは、どう考えても俺だろう」

「あ……」

「あ、じゃないぞ。まったく……」


 男は、もちろんジャックだった。

 ジャスミンが無事だと知って、彼もほっと力が抜けて口元が緩んでしまった。


(なんて馬鹿なことをって、はらわたが煮えくり返っていたのに。俺は本当に彼女が……)


 それにしてもと、彼は息をつく。


(それにしても、この場所でジャスミンがまた泣きじゃくるとは、な)


 ジャスミンはまだ気がついていない。この栄光の四阿こそが、十年前に彼と最悪の初顔合わせの舞台だったことに。

 おろおろとまだ腰を抜かしているジャスミンは、彼の顔や手に細かい傷があること気にがついた。


「ジャック様、怪我を……」

「かすり傷だ。七竈館から最短距離できたからな、茂みも生け垣も花壇も全部荒らしてきた。あとで庭師たちに何を言われるか……」


 弱ったなと眉尻を下げたジャックがおかしくて、ジャスミンはようやくクスッと笑った。


「その時は、わたくしも一緒に叱られますわ」

「それは心強いな」


 お互い言いたいことや聞き出したいことはたくさんある。けれども、張り詰めていたものがなくなった反動か、二人はしばらくおかしそうに笑いあった。


(なんだかんだで、お嬢様はやっぱりジャック様に夢中なのよね)


 つられるようにイザベラも笑いだしてしまった。


 気がすむまで笑ったあとで、ジャックはヒューゴをイザベラのエプロンで縛り上げた。


 メリッサからジャスミンがいなくなったと聞いて、ジャックはすぐに従兄の侍医がかかわっているとすぐにわかった。マクシミリアンが雛菊館に手を出すなと言ったにもかかわらず、リディアを巻き込んだ反体制勢力がまた暴走としか考えられなかったのだ。おそらく庭園のどこかにいるはずだとメリッサと考えが一致したあと、彼はすぐにこの栄光の四阿を目指して全力で庭園を走り抜けた。

 エプロンで縛り上げたヒューゴを、ジャックは引きずって四阿の柱に背中を押し付けるようにして座らせる。貴公子には似つかわしくないほど乱暴な手つきに、ヒューゴが目を覚ました。


「うっ」

「気がついたか、ヒューゴ・ウィスティン」

「〜っ!」


 目の前にしゃがんだジャックの顔があって、彼は声にならない悲鳴を上げた。

 体当たりされたあと、彼の三発ほど殴られたせいで顔が腫れ上がっている。


 ガタガタと怯えるヒューゴに、ジャックは獰猛な笑みを浮かべる。


(ワイルドなジャック様も素敵だわ)


 ジャックに言われたとおり、イザベラと四阿の中にいたジャスミンはこんな時だというのに一瞬胸がときめいてしまった。


従兄上あにうえから聞いていたが、お前もずいぶん馬鹿な連中に利用されてしまったらしいな。かわいそうに」


 口ではかわいそうにと言ったけれども、彼の目はちっとも同情していない。

 怯えて口も聞けないヒューゴに、さっき彼のポケットから奪い取った紙をジャックは見せつける。


「こんなものが、リディア・クラウンが魔女のクスリに積極的に手を出していた証拠にでもなるとでも、お前、本気で考えていたわけじゃないだろ」


 ヒューゴはピクリと肩を震わせた。それが何よりも肯定だった。


従兄上あにうえは、お前のことを気に入っていた。医者としてだがな。それなのにまったく……」


 ようやくヒューゴはジャックの言っていることがおかしいことに気がついた。震える唇を、どうにか動かして声を絞り出す。


「な、なぜ、あ、あなたに、マクシミリアン様が……」

「お前のことを話していたかって?」


 ハッと笑うジャックに、ヒューゴはただ首を縦に振ることしかできない。

 けれども、ジャックは彼の疑問に答えずに四阿から様子をうかがっているジャスミンを見上げて困ったように笑った。


「ジャスミン、君はメリッサや俺を信用できなかったから、こんなやつの呼び出しに一人で応じたんだろう?」

「信用してなかったわけではないですけど……」


 おずおずと答えたジャスミンの声は自信がなく弱々しい。


「俺なら、肝心なことをはぐらかしているようなやつを信用したりはしない」


 ジャックにそう言われては、ジャスミンは認めるしかない。

 もしかしたら、リディアを利用した敵から、彼がはぐらかしていることを聞き出せるかもしれない。そう考えて、彼女は一人でここに来た。つまり、ジャックを信用できなかったのだ。


「わたくしも、信用したりはしませんわ。自分で確かめたかっただけです」

「だからといって、自分の身を危険に晒すような馬鹿な真似はよしてほしかったね」

「それは、ジャック様が……」


 大きな声を出してしまったジャスミンに、険悪な雰囲気になるのではと、イザベラは身をすくめた。


「俺が君の立場だったら、同じことをしたかもしれない。だから、今回、これ以上君の馬鹿な行為を責めるつもりはない。ただ、約束してほしい。もう二度と、こんなことはしないと。……それに、どのみち今日終わらせて、ジャスミン、君に全部打ち明けるつもりだったんだしな」


 ジャスミンが返事を口にする前に、ジャックは再びヒューゴと目を合わせる。


「そうそう、ヒューゴ・ウィスティン。今ごろ、警邏隊がお前の仲間の潜伏先に向かっている。三十六人一斉に捕縛されるのも、時間の問題だな」


 ククッとジャックは喉を鳴らすだけで、ヒューゴの体はビクリと震える。


「まだわからないか? まぁ、しかたないか。俺達は十年もの間、くだらないゲームを通してお前たちをあざむき続けてきたからな」

「な、なんの話を……」

「ようするに、だ。俺に従兄上あにうえが教えてくれたのは、お前のことだけではないということだ」


 まるでマクシミリアンが彼に通じていると、ジャックは言っているようなものだった。

 ヒューゴが腫れ上がった顔で、驚き目を見開く。


「もっとはっきり言ってやろう。マクシミリアン・フィン=ヴァルトンは……」

「ジャック・フィン=ヴァルトンが王太子であることを支持している」


 常緑低木――沈丁花の小径の奥から姿を現したマクシミリアンが、ジャックの台詞を引き継いだ。

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