ポーンの悪あがき
ジャスミンを呼び出したのは、マクシミリアンの侍医ヒューゴ・ウィスティンだった。
彼はマクシミリアンの侍医になって五年。柊館に滞在するのは、今年が初めてではない。
迷宮のような庭園をマクシミリアンの散歩に付き従ったりしたことも、何度もある。猫背で陰気そう見た目だけれども、彼は草花が好きだった。
そんな彼が、ジャスミンを呼び出したのは、雛菊館にほど近い場所にある四阿だった。春になるまでひと気が少ない静かなその場所を、彼は気に入っていた。
「マクシミリアン様は、王になる気がないのか」
ゴワゴワした癖の強い髪をかきむしる。
彼は代々医者の家系に生まれた。それも、ウィスティン家といえば王国南部では名門として知られていた医療の一族だ。上流階級のお抱え医者を適当に五人集めれば、一人はいると言われたほどだった。彼の父も、南部の有力者のお抱えだった。
彼が幼い頃は、裕福な生活をしていた。食うにも寝るにも困らず、欲しいものはたいてい手に入った。
なにより、家族のことが好きだった。しかめっ面が地顔だけど、優しかった父。口やかましかったけど、オシャレな母。おませな可愛い妹。
色褪せて、美化されているに違いないけれども、たしかに幸せな少年時代を過ごした。狂王の圧政に苦しむ民なんて、まるで大河の向こう側の出来事のようだった。
ところが二十二年前の春、幸せな少年時代は、突然終わってしまった。前兆はあったのかもしれない。けれども、無邪気な少年だった彼にとって、それは突然のことだった。
「今日、この家を出ていくことになった」
その日の朝、顔もおぼろげな父が、そう言ったのは覚えている。職を失ったとか、裕福な生活を維持する金がなくなったとはっきりと言わなかったのは、父の優しさだったのだろうか、それとも見栄だったのだろうか。今となっては、どうでもいいことだった。
本家が不正に手を染めていたというのは、後から知った。分家の父は、本家の影響もよりも、仕えていた貴族が没落したのが原因で職を失ったらしい。本当のところなんて、今となってはどうでもいい。
よくよく思い返せば、幸せな家を出る前に節約するなり新しい仕事を探すなり、父がするべきことはあったはずなのだ。それを、おそらく父はしなかった。
それから数年の転落人生は、記憶から消したさりたいほどだった。本家ほどではなかったものの、みじめだったことにはかわりない。
父は酒に溺れるようになり、母は浪費癖があったのか節約というものを知らなかった。可愛い妹は、その年の秋に死んだ。死因は栄養失調だった。
ウィスティン家に縁があった老夫婦が、決して裕福ではなかったけれども、哀れに思ってヒューゴの面倒を見てくれなかったら、彼もその次の年まで生きていなかっただろう。
老夫婦に養われるようになって、ヒューゴはようやく即位したばかりのコーネリアスが、先王のせいで民を苦しめるほど横行していた不正を正してくれたのだと知った。老夫婦はありがたいとコーネリアスの治世に期待を寄せつつも、ヒューゴのような罪のない子どもが苦しんでいるのはどうかと暗い顔をしていた。彼は、それほど老夫婦に懐くことができなかった。なぜかは今でもわからない。もしかしたら、大人の顔色をうかがうことを覚えてしまったからかもしれない。小さな商店を営む老夫婦の手伝いをしながら、彼は医者になる決意を固めていった。もう一度、あの頃の暮らしを取り戻すには、医者になるしかない。そう考えたのだ。それには、老夫婦が裕福ではなかったのが原因だった。
飲んだくれの父が持っていた医学書を盗むようにして読み漁り、町医者の助手となって、奨学金を使って医学校に進んだ。遊ぶ暇などなかった。よそ見をしていたら、没落したウィスティンの家名をあざ笑う顔が目に止まってしまうから。
猫背気味になったのは、その頃からだったように思う。
医学校を出てからは、各地を転々としてきた。
もうすでに老夫婦は亡くなっていたし、両親のことは知りたくもなかった。
故郷のある南部を避けて各地の施療院を転々とするうちに、彼は出会ってしまった。
「過去は、ずっとつきまとい苦しめてくる」
初めは、自分と同じような境遇を経験したとは思えないような好青年だった。財産のほとんどを取り上げられた貴族の嫡男だったという彼に誘われて、彼はある集団の一員となった。それが、今から十年ほど前、二十代半ばの頃だった。
お互いの境遇を語り合うだけの集団だと思っていた。自分だけではなかったと共感し、苦しみを分かち合う。そういう集団だとばかり。もしかしたら、その頃はそういう集団だったのかもしれない。ところが、十年前、コーネリアスが周囲の反対を押し切るようにして、庶出の我が子ジャックを世継ぎと公表した。
「コーネリアス王の横暴を、これ以上許すわけにはいかない!!」
正統な王子マクシミリアンを、我が子可愛さにないがしろにしたのだと、彼を誘い入れた青年が言ったことに、彼は迷うことなく同調した。
彼は、ただの医者だった。
リーダーのその青年のように、何かを画策するような行動力も資金もなかった。
何かできることはないかと焦る反面、深く関わらずに済んでいることに安堵していた。
彼はたしかに、理不尽な境遇に怒りと憎しみを抱いていた。けれども、同時に諦めてもいた。可愛い妹を見殺しにしてしまった無力さからくる、悔しさと諦め。
反体制勢力に属しつつも、彼はどこかでまた失敗し人生がまた転落する――いや、今度は犯罪者として処罰されるに違いないと考えていた。
マクシミリアンの侍医となるまでは。
反体制勢力のメンバーのツテで用意してくれたという見ず知らずの医者の紹介状を手にして、彼はリセールを訪れた。どうせ、選ばれないだろうと考えていた。没落したウィスティンの家名のせいで、一つの場所にとどまることができなかったのだ。今回もきっとそうなるだろうと。反体制勢力から抜けるチャンスだと、彼は考えていた。
ところが――
「ヒューゴ・ウィスティン、か。よし、お前に決めた」
「……は?」
紹介状に軽く目を通しただけで、マクシミリアンは朗らかな笑顔でそう言ってきた。間の抜けた声を上げてしまうほど、彼は耳を疑った。
「人付き合いが苦手そうだからな。そういう嘘が苦手なやつのほうが、信頼できるんだよ」
王侯貴族に限らず、個人の侍医を選ぶには信頼できるか否かが重要となる。なにしろ、自分の体を管理してもらわなければならないのだから。
すでにおわかりだろうが、ヒューゴは人付き合いが苦手だった。そんな彼を、初対面のマクシミリアンは信頼できると断言してくれた。
「一生ついていこう、そう決めたのにな」
ひと気のない四阿で、ヒューゴは頭をかきむしりながら悩んでいる。
マクシミリアンは、彼を信頼してくれた。反体制勢力の誰よりもだ。にもかかわらず、彼は彼らとも縁を切れなかった。
どん底に陥れた国王への憎しみを引きずったまま、彼は信頼してくれるマクシミリアンが王になってくれたらと期待していた。
本当は、彼はもう気がついているのだ。ただ、自分をごまかしているだけだ。
「僕は、何がしたかったんだ?」
引きずってきた憎しみや不満、家族を見捨てた罪悪感や老夫婦に恩を返せなかった後悔、そういったどうしようもない感情を捨てられたらと、彼は近ごろよく悩むようになった。
(僕は、ただの医者だ。リーダーたちの使い走りだし、もしかしたら、施療院を転々としていたほうが、マシな人生だったかもしれない)
性懲りもなくジャスミンを脅迫すればいいと無茶な計画を立てたリーダーに、反対する気も起きなかった。うまくいかないことはわかりきっているし、どう考えても無駄な捨て駒にされている。
「もう、どうでもいいや」
ははっと、乾いた笑いは誰にも届かない。
これで終わりにしようと、彼は決意した。
「どうせ、あの女は来やしない」
ここに来るとすれば、衛兵とかそういったものだ。反体制勢力の一人として捕らえられるだけだ。
「拷問とかは、いやだな」
人生そのものを諦めた彼は、困ったなと頭をかく。それだけだ。
自分がいなくなっても、悲しむ人は誰もいない。マクシミリアンだって、悲しんではくれないだろう。
「もういいか」
乾いた声でそう言うと、ヒューゴはジャケットのポケットに手を入れる。
「あなたですか。わたくしを呼び出したのは」
「……っ!」
もう聞くことのないはずの声に、ヒューゴはぎょっとして顔を上げた。
四阿の外に、来るはずがないと決めつけていたジャスミンがいた。
燃えるような赤毛と同じくらい鮮烈な赤いドレスに身を包み、彼女の胸元には首飾りのサファイアが輝いている。王妃よりも女王と呼ぶのがふさわしいくらい、彼女は堂々としてそこに立っていた。
ただ立っているだけの彼女に対して、ヒューゴは倍近く生きている。にもかかわらず、滑稽なほどうろたえてしまった。
「ほ、本当に、一人で……」
「ええ、一人で来ました」
しどろもどろな彼に、ジャスミンは鋼のような硬い声で答えた。
「わたくしの従姉リディアをまだ利用するなんて、とうてい許せませんもの」
転がり出るように四阿から出てきた彼を、ジャスミンは冷たく見すえる。
「それで、リディアが魔女のクスリを好んで使用したという証拠とやらは、あるのかしら」
ジャスミンは、右手で首飾りを押さえながら厳しい声で尋ねる。ところが、彼女の厳しい声と鋭い目つきは虚勢だと、ヒューゴは気がついてしまった。そうと気がつけば、ヒューゴは冷静さを取り戻した。
(所詮は、十七歳の世間知らずの女か)
そうでなければ、彼女は一人であんな脅しに乗ったりはしなかっただろう。
従姉が魔女のクスリを好んでいたという証拠は、リーダーたちが捏造したものだ。そんなものでも、彼らは彼女を脅迫し、マクシミリアン側につかせられると思いこんでいるのだ。そもそも、彼らが魔女のクスリを利用すると決めたときも、彼は懐疑的だった。
(ああ、僕は、あんなどうしようもないバカどもに振り回されていたんだな)
なんて滑稽な人生だろう。
「証拠か、証拠、ねぇ……ククッ、ハハハ、アハハ……」
「な、なにを、笑っているのよ」
突然、壊れたように乾いた声で笑いだした彼に、虚勢をはっていたジャスミンは思わず半歩後ずさる。
(どうせ、終わりにするつもりだったんだし)
笑いながら、ヒューゴはポケットの中から手を出した。その手には、メスが握られていた。
「それは……」
ギラリと鋭く光った凶器に、ジャスミンの体はすくんで動けなくなる。
怯える彼女に、ヒューゴは猫背気味の背筋を伸ばして顔を上げた。
「ハハハ、証拠なんて、ある分けがない。あんな馬鹿な連中にいいように使われてきた僕が、一番どうかしていたよ」
何もかも吹っ切れてどうでもよくなった彼は、誰も見たこともないほど晴れやかに笑っていた。
一歩、二歩と、ゆっくり近づいてくる彼から、逃げなくてはらないのにジャスミンの足は動いてくれない。
「なんで、もっと早く終わりにしなかったんだろうね。父さんが職を失ったときにでも、終わりにしておけばよかったんだ。こんなクソみたいな人生は」
四歩目で、彼はピタリと足を止めた。手を伸ばせば、ちょうどジャスミンに届く位置だ。
「リーダーのように、クソみたいでも信念があるわけでもないし……うん、どうせなら道連れになってよ」
ジャスミンはギラリと光るメスに、自分の愚かさを呪った。
(わたくしにも、できることがあると証明したかっただけなのに)
リディアが好んで魔女のクスリに溺れた証拠があると、露骨に怪しい手紙に書いてあった。
そんなはずはないとわかっていたけれども、噂を流されて大切な従姉を汚されるのは避けたかった。
身の危険を考えなかったわけではない。けれども、彼女は自分に危害を加えれば国内外に悪影響しかもたらさないはずだと、甘い結論を出してしまった。
「あなた、こんなことをしてただですむと思っているの?」
思いとどまってくれるかもしれないと、彼女はありったけの勇気をかき集めて虚勢をはった。声が震えない程度しか、役に立たなかったけれども。
ところが、ヒューゴは肩をすくめて鼻で笑った。
「まさか。ま、そもそも、王の庭にこんな物を持ち込んだってだけで、ただではすまない。もう、リーダーやマクシミリアン様がどうなろうと、知ったことじゃないんだよ」
彼にはもうどんな言葉も通じないのだと、ジャスミンは震え上がった。
(ごめんなさい、ジャック様!)
メスを持つ手が動くと、反射的にジャスミンは目を閉じる。
「お嬢様ぁあああ!!」
直後に彼女の耳に届いたのは、長年付き従ってくれたメイドの叫び声だった。
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