嵐の前

 明日にでもと言ったのは、ジャスミンだった。けれども、まさか本当に翌日、柊館に招かれることになるとは考えていなかった。


 昨夜遅くから降り始めた雨は、雛菊館を出た昼過ぎには土砂降りになっていた。冬の先触れと呼ばれる嵐だと、メリッサが教えてくれた。それから、少なくとも今日はやまないだろうとも。

 冬の先触れの嵐のあとは、一気に冷え込むから体調管理により一層気をつけなければならないと、先日カレンも言っていた。


 馬車の窓に叩きつける雨のせいで外の景色は灰色に染まって見えない。それでも、ジャスミンはぼんやりと窓の外を眺めていた。


「今さらですけど、お嬢様、どうしてデボラ嬢の誘いにのったのですか?」


 本当に今さらなのだが、イザベラが唇を尖らせて尋ねてきた。


「なんとなく、わたくしも彼女と話をしてみたいと思っただけよ」


 物憂げに答えたジャスミンに、イザベラははぁという呆れまじりのため息をついてしまう。イザベラの隣に座るメリッサの視線も、なんだか冷ややかだ。


「なによ、文句があるなら言いなさいよ」


 むすっとしたジャスミンに、イザベラは苦笑する。


「お嬢様、反対するなら遠慮なく昨日のうちにしてますよ。ただ気になっただけです」

「そう、ならいいけど……おとなしそうに見えたのに、わたくしとお話がしたいなんてお茶に誘うなんて……彼女、平民なんでしょう」


 ジャスミンは気まずそうに言葉を濁した。けれども、メリッサは彼女の口調を真似て、濁した言葉を暴いてしまう。


「なるほど。ジャスミン様は、次期王妃である自分をお茶に誘うなんて、いい度胸しているわね。興味深いわ。……といったところでしょうか」


 ぐうの音も出ないとはこのことだと、ジャスミンは舌を巻いた。


「お嬢様、図星ですね」

「うるさいわね」

「でも、お嬢様の気が紛れるなら、それでなによりです」

「あ……」


 また気を遣わせたという後ろめたさよりも、なぜか気を遣ってもらった優しさが嬉しかった。


(本当はジャック様に会いたい。会って確かめたいことがたくさんあるのよ)


 けれども、ジャックに次に会える日がいつなのかわからない。やり場のない気持ちから少しでも目をそらそうと、ジャスミンは灰色の窓の外を物憂げに眺める。

 雷が落ちる音がしたけれども、まだ遠いようだ。


 柊館に到着したとき、幸運にも雨の勢いが弱まっていた。

 前に訪れたとき殺風景だった玄関ホールは、まるで別の空間のように変わっていた。帝国風の色鮮やかな絵付けが施された大きな花瓶に花が活けてあるし、モザイクガラスの南国のランプが温かく彩っている。よく見えれば、王国には生息しないヘラジカの剥製まで飾ってあるではないか。


(これ、全部あの男の趣味かしら?)


 悪趣味の一歩手前ギリギリを攻めるセンスに、ジャスミンは感心していいのか呆れていいのかわからなかった。

 なんともいえない空間で一人出迎えてくれたデボラは、とても普通だった。ガーデンパーティーの舞台で囚われの姫の役割を演じたときは、もう少し色っぽい大人の女性だったはずなのにと、ジャスミンは危うく首を傾げそうになった。

 細い金色の髪を高い位置で一つに結わえ、おとなしめな紅茶色のドレスに身を包んだデボラは、タレ目がちな青い目を伏せて歓迎の言葉を口にした。その声は、次期王妃のジャスミンを前にして、緊張のせいか固く強張っている。


「ジャスミン様、お待ちしておりました。本来なら外でお出迎えしたいところでしたが、この雨です。ご招待したわたしが風邪を引いては失礼かと思いました。どうか、非礼をお許し下さい」

「お招きありがとう、デボラ・ウォン。ええ、本当にひどい雨よ。あなたに風邪を引かれては引き返さなくてはならなかったでしょうね」


 だからと、声を和らげてジャスミンは微笑んだ。


「だから、そんなにかしこまらないでちょうだい。せっかく、用意してくれたお茶が不味くなってしまうわ」


 ジャスミンの芝居がかった優しさに、デボラは伏せていた目をこれでもかと見開いた。


「そうですよね。あーよかったぁ。本当によかったぁ」


 よかったよかったと安堵の言葉を繰り返す彼女に、ジャスミンたちは面食らう。


「なにが、よかったのでしょうか」


 顔を見合わせた三人を代表して、メリッサが尋ねる。


「あ、し、失礼いたしました。ジャスミン様が、思っていたよりも怖い方でなかったので、すっかり安心してしまって……わたし、もっと怖い方だとばかり……だって、燃えるようななんて髪を炎にたとえられているし……」


 ジャスミンの顔がかすかに引きひきつるのを察したイザベラは、彼女の声をさえぎった。


「デボラさん、早速で申し訳ないのですが、案内していただきませんと……」

「そ、そうでした! すっかりわたしったら……えーっと、そちらのお二人は?」


 どうやら、初めてイザベラとメリッサが視界に入ったようだ。


 先が思いやられそうだと、イザベラとメリッサが自己紹介する間でジャスミンはため息をこらえた。


(思っていたよりも、普通で調子が狂うわ)


 ジャスミンから見て、デボラはよくも悪くも普通の女性だった。世間を賑わせているジャスミンと言葉を交わしただけで、彼女は舞い上がっている。もっとも、おとなしそうという第一印象は修正する必要がありそうだ。


「イザベラさんとメリッサさんですね。今日は、よろしくお願いします」


 そう言って、デボラは柊館の奥へとジャスミンたちを案内する。


「メリッサさんは、以前七竈館にいらっしゃったのですよね」

「ええ、そうですけど」


 あの仮面の女とも呼ばれているメリッサですら、デボラに調子を狂わされている。


「マックス……マクシミリアン様からお話を聞いてましたので、お会い出来て本当にうれしいわ」

「……お話?」


 無邪気に笑うデボラに、メリッサは戸惑いを露わにする。彼女は、ジャックが他の使用人たちよりも信頼を寄せていた関係で、マクシミリアンとも面識があるにはあった。それでも、彼が恋人に話すようなことなど心当たりがなかったのだ。


「ええ、とても強い方だと。並の男では太刀打ち出来ないと聞いてます」


 メリッサは、なんとも言えない顔で褒め言葉ととらえるべきか真剣に考えこんでしまった。以前の彼女なら、事実として淡々と受け止めていたけれども、今はそうはいかない。雛菊館のジャスミンに感化された彼女は、自身も気がつかないうちに女らしさに憧れるようになっていたのだ。


「……ありがとうございます」


 結局、無難にそう返したけれども、メリッサは正しかったのかどうかわからないままだ。


 そんなメリッサの横で、ジャスミンとイザベラは目でデボラは侮りがたい女だという認識を共有した。


(あのメリッサをここまで……天然なのかどうかはわからないけど、気を引き締めないといけないわ)


 部屋数の多い柊館の一階は、まるで迷路のようだとジャスミンは思った。一人ではとても帰れないだろうとも。


(マクシミリアンは関係無いとあったけど、やっぱりなにか策略があるのかしら)


 初めから、その覚悟はあった。リディアを利用してジャックを亡き者にしようとしたくらいだ。自分にもなにかしらの罠を仕掛けているのではないかと。だから、メリッサにも来てもらったのだ。


(本当なら、こういうときはリディも一緒だったのよね)


 私室付き女官は、今は不在だ。そろそろ新しい女官を探さなければならないのだけれども、ジャスミンはなかなかまだ決意できないでいる。リディアが部屋に置いていった私物も全部そのままだ。


 あくまでもジャスミンの感覚だけれども複雑な構造な柊館の廊下を三度ほど曲がったときに、迷いのないデボラの足が止まった。

 猫背の青年とばったり出くわしてしまったらしい。それも、どうやらデボラは彼にいい感情を抱いていないらしく、不愉快そうに鼻を鳴らした。


「まだいたのね、ヒューゴ。さっき雨が小降りになっているから、さっさと行きなさいよ。用事があると、今朝マックスに言っていたじゃない」


 陰気そうな男は、強気なデボラに何も言い返せずに、そのくせ悔しそうににらみ返す。

 すれ違う前から、ジャスミンはその男が隠そうともしない敵意を感じていた。


「本当に嫌な男」


 廊下の角を曲がったとはいえ、まだ声が届くだろうにデボラは不愉快そうに鼻を鳴らした。


「いけないわ。ジャスミン様の前でこんな……」

「いえ、いいのよ」


 あわてて口元を覆うデボラは、どこまでも普通の女だった。新聞の記事や噂では、リセールの伊達男をたぶらかした毒婦だと悪く言われていたけれども、あてにならなかったようだ。ジャスミンは、今まで入っていた肩の力が抜けるのを感じた。


(あの男の恋人でなかったら、彼女に私室付き女官になってもらえたかもしれないのに)


 そんなことを考えていると、ようやくお茶会の会場となる部屋についた。


「お入りください。ジャスミン様、それからメリッサさんもイザベラさんも」


 冬の先触れはいよいよ激しい嵐になってきたのだと、外の景色を見ることなく、ジャスミンは肌で感じとった。

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